「…へ?」
「だから、誕生日だよ。今日、尽八の」
「…今日」
「うん」
「東堂、くんの?」
「うん」

 ばさり、と私の両腕で抱えたバインダーが床に落ちる。しかしそれを気にする余地など私にあるはずもなかった。隼人くんは少々驚いたような顔をしていたが、それはバインダーを落としたからではないのだろう。徐々に青ざめていく私の顔を見て、まさか、と信じられないとでもいうように言った。

「なまえ、尽八の誕生日知らなかったのか?」

認めたくない事実がぐさりと頭に突き刺さり、う、と重たい声を上げる。知らなかった。だって東堂くんはそんなこと今までに一言も言っていなかったのだから。
 インターハイが終わって間もない八月八日。夏休みに入っているといえどもやはり部活はあるもので、私はお昼前に部室に入った。そこには珍しく早めに来ていた隼人くんがいて、二人で話に花を咲かせていたところに降った話題がこれだった。

「は、隼人くんはプレゼント用意してあるの?」
「そりゃあな。でもなまえは知らなかったんだろ、ならなくても仕方ないさ」
「でも…」

ぎゅ、と唇を噛み締める。仕方ない、と言えばそれまでだ。でも知らなかったとはいえ、…東堂くんの、誕生日だ。何か渡したい、お礼がしたい。
 悶々と悩む私を見て隼人くんは気を遣ってくれたのか、部活半休もらって買いに行っちゃえば? と提案してくれる。確かにそれも一つの手だろう。インハイが終わり、主将が福富くんになったこともあり、きっと頼み込めばプレゼントを買いに行くことくらい許してくれるだろう。けれど、実際そういうわけにはいかない。大切な部活の時間に、私一人が無責任に休みをもらうなんてそんなことできるはずがない。
 プレゼントは明日でもいいじゃないかというのが一般的な思考なのだろうが、私の持論は当日じゃないとだめなんだ。だって一年で一回の、特別なひとの、特別な日だ。どうしても今日中になにか渡したい。

「…どうしよう。部活終わってからじゃ遅いし…」
「けどなんか意外だな。尽八毎年色んなヤツに誕生日アピールしてるのに」
「えっ」

 聞き捨てならない言葉に、思わず隼人くんの方にずずいと身を乗り出す。じゃあみんな知っているってこと? なのに私は知らなかった? 一体どれだけ空気を読めていないんだ私は。いやそれよりも、なんで私には教えてくれなかったの?
 なんだか頭の中がごちゃごちゃする。私はどうすればいいんだっけ、と一瞬振り出しに戻る思考になったとき、がちゃりとドアの開く音がした。

「お、尽八。たんじょ」

 隼人くんの言葉を聞かずに、私は慌てて奥の更衣室に逃げ込む。プレゼントもない状態でおめでとうはまだ言いたくないのだ。ドアを閉めて、はあ、とため息を漏らす。固く閉ざされた扉の向こうから、東堂くんの不思議そうな声が聞こえた。続けて聞こえたのは隼人くんの祝いの言葉。私はとりあえず、プレゼントをどうにかしなければ。

 部活中は東堂くんを避けることに撤した。知ってしまった以上、知らないふりをすることなんてできないからだ。とりあえずひたすらに避けて部活を乗り切ってから、ダホンでなるべく近くの雑貨店に行ってプレゼントを買う。そして急いで戻って、東堂くんが寮に帰るまでにそれを渡す。何を買うかなんて全く決めてない。部活中だからプレゼントを何にするかなんて考える余裕もない。かなりムチャクチャなプランだけれど、もう私に残された希望なんてこれしかなかった。
 今までにないくらいの集中力で仕事を切り上げ、福富くんの締めの挨拶が終わった途端に荷物を持って部室を飛び出す。まずは女子寮に向かって、ダホンを取りにいかなければ。そうして走り出した瞬間、背後から右手首をがしりと掴まれ、そのままぐいっと軽く引っ張られた。突然の引力に、思わずよろけて足が止まる。一体何、と、その答えは振り返った瞬間に出されることになる。そこには私の手首を掴んだ東堂くんが何故か不機嫌そうに私を見ていた。

「と、東堂くん。どうしたの」
「なんで避けるんだ」

 むすっとしたような、まるで子供がお気に入りのおもちゃを取られたような、そんな声色で彼は言った。あんなにあからさまに避けていればバレるだろう、ということに、私はここでようやく気づいた。どうしよう、こんな態度ということは、きっと嫌な風に取られてしまったのだろう。ええと、と言葉を詰まらせる。本当のことなんて恥ずかしくて言えない。けれど、こうなってしまった以上プレゼントを買いに行って、なんてプランを実行することはほぼ不可能だろう。掴まれた手首から、東堂くんの体温がじんわりと伝わる。こんなところをファンクラブの人に見られたら、と同時に、なんだかとても恥ずかしくなった。
 未だ何も言わない私に痺れを切らしたのか、東堂くんは呆れたようにまたゆっくりと口を開いた。

「今日、会話もしてくれないし、目もあわせてくれなかった。それどころか、オレと同じ空間にいようとしなかったな」
「えっ、と」
「オレは何かなまえの気に障ることをしてしまったか?」
「そ、うじゃなくて!」

 思わず声を荒らげる。それに驚いたのか、東堂くんは手首を掴んでいたその手をはらりと離した。私は自由になった右腕を降ろして、その手をぎゅっと握り締めた。そうして蚊の鳴くような声で、恐る恐ると呟いた。

「東堂くん、誕生日だから」
「…え?」

まるで意味がわからないとでもいうような拍子抜けした彼の素っ頓狂な声。ここまできたらもう後には戻れない。私は決意を固めると、今度は先程よりもう少しだけ大きな声でここまでの成り行きを説明した。最初はうんうんと頷いていた彼だったが、話の後半になってくると、その顔はやがて呆れたような顔つきに変わっていった。

「…だから、別に東堂くんが気に障るようなことをしたわけじゃなくて、その、」
「わかった、もうわかった」

とにかく何か言葉を探そうとするが、うまい言葉が思いつかなくて顔を俯かせる。すると東堂くんはなんとも言い難い表情で片手で自らの頭を軽く抱えながらもう片方の手で私の肩をぽん、と軽く叩いた。

「全く、そんなことで…」
「そ、そんなことって。だって、…だって私は、どうしてもプレゼントと一緒に東堂くんをお祝いしたかったんだもん」
「その気持ちはありがたいが、避けられたときはヒヤヒヤしたぞ」
「ご、ごめんなさい」

3

恥ずかしさやらなんやらでやはり顔はあげられないまま、私は口を窄める。わかっている、最初から私の意地だった。周りから見たらどうでもいいような私のポリシーだった。それをこんな形でバラしてしまったのは、なんとも情けない。

「それで」

 それでも東堂くんは、私の気持ちも知らずにあっけらかんと言葉を吐く。

「ここまで来たのに、言ってくれないのか? オレにおめでとうと」

え、と思わず顔を上げると、そこにはまるで当然とでもいうような表情で、東堂くんが笑っていた。今日一日避けていたからか、それがなんだかいつもより何倍もかっこよく思えてしまって。(いつもだってかっこいいけれど!)だから私は不本意ながらも、本意の言葉をゆっくりと口にするのだ。

「お誕生日おめでとう、東堂くん」

 そうして彼はうむ、と満足げに頷く。ようやく肩から離された彼の掌が、今度は私の頭の上にぽん、と置かれる感触がした。それがとても温かくて、にへら、と頬が情けなく緩む。祝っているのになんだかこっちが嬉しさをもらっているな、と思ったとき。ふと隼人くんの言葉を思い出した。そういえば、どうして東堂くんは私に誕生日のことを教えてくれなかったのだろう。意地悪か、それとも単に伝え(アピールし)忘れていただけか。

「ねえ東堂くん。色んな人に誕生日のこと教えてるんだよね? なのにどうして私には教えてくれなかったの?」

 瞬間、ぎくりと彼の身体が固まる。そうして徐々に俯いていく彼の顔。しばらくしても返事は来ず、東堂くん? と顔をのぞき込むように声を掛けると、彼は慌てたように私から距離をとった。
 そうしてようやく見えた彼の顔は気のせいじゃなければほんのり赤くて、驚きを隠せない私に向かって彼は開き直ったようにびしりと私を指さして大声で叫んだ。

「なまえに祝われるのは、なんだか小っ恥ずかしさがあると思ったからな!」
「…え?」
「けどやはり祝ってもらえれば嬉しいものだな! ワッハッハ! ありがとう!」

東堂くんは訳のわからないことを言いながら、高らかに笑って部室の方向へ歩いていった。
 ひとり取り残された私は、理解不能な彼の発言にクエスチョンマークを浮かべながらも、告げられた感謝の言葉や赤いながらも嬉しそうな表情に、再び頬が緩んだ。

 じりじりと焼けるような暑さは、日が落ちるにつれていつの間にか退いていた。けれどきっとまた明日も暑くなるだろう。私は変なポリシーを捨てて、東堂くんとは反対の方向に歩き出した。とりあえず今日は、目の前のコンビニでリッチなアイスクリームを買おう。東堂くんにあげるから、そうだな、抹茶味がいいかな。まだ部室に残っているだろう他の部員の顔も思い浮かべて、彼らには安めのアイスを買っていこうと思った。東堂くんだけ、ほんの少しのとくべつ。だって今日は、彼の生まれた日なのだから。

「…来年は、しっかりお祝いできるといいな」

願わくば、彼との距離がもう少し縮まっていればいいな、と思ってみたりもしたけれど、それこそなんだか恥ずかしい思考だ。私は今の思考を忘れるように、慌ててクーラーの効きすぎたコンビニへと駆け込むのだった。