ふーと長く息を吐く音で目が覚めた。見えたのは白い天井。いや、正確に言えば白く曇った天井というべきだろう。顔を動かさず、横目でちらりと隣を見るが、やはりそこに彼はいない。身体が見えないように、掛け布団と密着しながら私がゆっくりと上半身を起こしたとき。窓側からおう、と小さな声が聞こえた。起きたのか、なんて問いかけには答えず、私は嫌悪感を露骨に出しながら言った。

「タバコ、吸うなら外で吸ってよ」
「悪い、外寒くて」
「部屋煙たくなるじゃん」
「窓開けてるだろ」
「どっちにしろ嫌だよ私タバコ嫌いだもん」

言いながらん、と手を差し出すと、新開は渋々とタバコの火を消してから足元に散らばった私の下着を拾い上げ、ひょいと放り投げた。それを見事にキャッチしてから、私は彼に背中を向け、静かにそれを装着しだす。そんな行動で何を勘違いしたのか、背後から怒んなよ、とまるで小さな動物でもなだめるかのような声色で呟かれた。

「怒ってないよ」

タバコ一つでそんなに怒るものか。私はそんなに心が狭い人間じゃないし、そもそもそんなに気になるんだったら新開とこんな関係になったりしない。はあ、とひとつため息をつく。今日の服は何にしようか、と頭の中でぼんやりと考えたとき、ギシリとベッドのスプリングが鳴る。背後に感じる存在感。いつの間にこちらに来たのだろう、ベッドに付いた私の右手をやんわりと抑え込みながら、新開は私の耳元でいやに艶っぽく囁いた。

「もっかいしたら、機嫌直る?」
「…勘弁してよ私今日一限」

自由な左手で彼の頭を引き離して呆れたように言うと、まるでわかってたかのように彼は小さく笑った。

「オレも今日一限から」
「早く準備しろバカ」

時計を見れば遅刻ギリギリとまでいかないとはいえ、ただでさえ余裕がない時間だというのに何言ってるんだコイツは。手元にあった新開のシャツを思いっきり顔面に投げつけると、アメリカ人ばりの大きすぎるくらいのリアクションが返ってきた。それを受け流しながら、私はさっさと身支度を整える。それを見てようやく彼も支度をする気になったのだろう。背後にあった重みがなくなり、ベッドが揺れる。彼が私のそばから離れていくのがわかった。

 男子の身支度は早く終わり、女子の身支度は時間がかかるということは全国共通だと思っている。私が未だ化粧をする一方で、新開は早くも玄関で靴を履いていた。いつもの通り、彼には先に行ってもらうのだ。いってきますの言葉もなく、がちゃりとドアの開く音がする。当たり前だ、彼はここに住んでいるわけではないのだから。いつもならそのままドアの閉まる音がして終了、のはずだったが、今日はなかなかその音が聞こえない。どうしたんだろうと視線を玄関に向けたとき、なあ、と呼びかける声が聞こえた。

「学校、一緒に行かないか」

さほど大きな声でもないのにはっきり聞こえてしまうくらい、この家は狭かった。

「…ひとつ、私たちの関係を知られてはいけない。そしてそれを匂わせる行動もしてはいけない」
「……」
「またね、新開」

冷たく言い放った言葉に呼応するように、ドアの閉まる音が聞こえた。手元のアイシャドウパレットに視線を落とす。何故だか大好きなラメ入りのものをつける気になれなくて、あまり減っていない地味なブラウンをチップにとった。

 私と新開は身体的関係、わかりやすくいって所謂セフレというやつだ。それがいつからか、何がきっかけだったかだなんて覚えてない。大学の何かの飲み会で意気投合して、それからいつの間にやらこんな感じに。ふしだらな私たちだが、可笑しいのはお互い今まで恋人ができたことがないということだ。つまり、恋人でもない関係の私たちがお互いのバージンを奪ったということ。我ながら変な話だと思う。
 そんな私たちがこの関係を維持するにあたって、二人で作ったきまりごとがあった。ひとつは、先ほど口に出したこと。大学の友人に恋人だと勘違いされたとしても、肯定も否定もしにくくて面倒臭い。だから私と新開は今日のようにお互い一限でもわざと時間をずらして一緒に行かないし、そもそも学校内で一切会話をしない。もうひとつは、お互いがお互いのプライベートな部分に介入しない。これはセフレという関係上だ。だって相手のことを知って割り込んだって、どうせろくなことにはならないだろう。そして最後のひとつは。

「…もう行かなきゃ」

 いつの間にか新開が家を出て十五分ほど経っていた。これくらい時間が空けばきっと道中会うこともないだろう。身体にまとわりついたタバコの匂いを消すように優しい花の香りの香水を振りまいて、私も自らの家を出た。

「今日で最後にしよう」

 彼がそう言ってきたのは、いつもはだらしない新開が、珍しくぴしりとシャツの襟を正した朝のことだった。いつもの通り会って、いつもの通りベッドに入る。愛の欠片もない、お互いにあるかもわからない性欲をただ満たすための情事が終わったあとの朝はいつも頭がぼんやりする。だからそういわれたとき、私の空っぽな頭はどうして、という実に単純な疑問しか浮かんでこなかった。

「彼女ができた」

そこでようやくああそうか、と合点がいく。きまりごとの最後のひとつ、「お互い恋人ができたら、この関係を終わらせること」。頭を整理すれば、そうか、今日で終わりなのかとやけにすんなりと受け入れることができた。新開がいつどこでどんな人と知り合って、どういう風に恋人関係になったかなんて知ったこっちゃないが、めでたいことだと思った。

「おめでとう」

一言そう言えば、ああ、と短く返ってくる。じゃあ今日で新開がこの私の部屋に来ることもなくなるわけだ。そう思うとなんだか少し寂しいような気がしたが、あのタバコの匂いからようやく解放されると思えば、悪い気はしないように思えた。
 私の部屋に置きっぱなしだった私物を新開がゆっくりとまとめる。Tシャツだとか、歯ブラシだとか、改めてみると意外と置いてあったんだなと思った。それもそうだ、この関係になってから恐らく一年は経とうとしているのだから。
 やがて荷物をまとめ終わった新開が改まったようにこちらを向く。そういえば、こうして彼とまじまじと向かい合ったのは初めてかもしれなかった。

「なまえ、今まで」
「ストップ」

言おうとしたことがわかり、その言葉を遮る。驚いたように、新開の瞳が少しだけ揺れた。

「今までありがとうなんて言えるような、綺麗な関係じゃないよ」
「…それもそうだな」

この男は、見かけに反して純粋だと思う。どういう意味を含んでいるのかもわからないがへらりと笑われて、私も小さく笑い返した。私の笑みに含まれたものは、きっと自嘲でしかなかったのだけれど。
 バッグを肩にかけ、新開が立ち上がる。これで最後なのだ、せっかくだから玄関までは見送ってやろうと私も立ち上がったとき。なあ、と呼びかけられた。それにしては何かを決意したような、やけに重たい声色で。

「オレたちの関係は、たったいま解消されたんだよな」
「そうだよ」
「もちろん、きまりごとも、だよな?」
「うん。どしたの、突然」
「なら。お互いがプライベートに介入しない。…これがなくなった、今だから言うよ」

そうして彼は笑って、悲しく言葉を紡いだのだ。

「オレ、なまえのこと、ずっと好きだったよ」

 ひゅ、と喉の奥が鳴った。冷めていた身体が、心が、一気に熱を帯びていく。熱い、何もかもが熱い。新開が私に背を向け、玄関へと歩き出す。待って、行かないで。ねえ、私もずっと好きだったよ。本当はずっとずっと、新開のことが好きだったよ。心臓の鼓動がどくどくと早く打ってとまらない。どうして最後にそんなこと言うの。どうしてそんな顔して言ったの。どうして最後に爆弾を落として、私にこんな感情を思い出させてしまったの。余計なきまりごとなんて作らなければよかった。お互い恋愛初心者の不器用ものだと知らなければよかった。最初から、こんな関係を結ばなければよかった。声が出ない。視界がぶれる。言いたいことがありすぎるのにうまく声が出せない。足が踏み出せない。
 ぐらりとバランスを崩して、手をテーブルにつく。ふと、手に何かが当たる。そこに恐る恐るそこにピントを合わせてみると、ぼんやりした視界に映ったのは、彼が愛用していた、私が毛嫌いしていた、

「新開」

出した声は、自分でも驚くくらいはっきりとしていた。

「…タバコ」

その言葉に、玄関のドアを開きかけた彼の手がぴたりと止まる。それを言って、どうしたかったのかだなんてわからない。引き止めたかったのか、少しでも会話をしたかったのか、単純に忘れていることを示したかったのか、それとも。ほんの少し、振り返りとまでいかないくらい、彼がこちらに顔を向けた。見えたのは、通った鼻筋が綺麗な横顔と、ほんのり釣りあげた口角と、それから、目元から伝う一筋の雫。

「もう、やめたよ」

きっともう、私たちは友達にすら戻れない。