「東堂尽八。趣味はロードバイクだ。いつかすべての山を頂きを制し、世界に名を轟かせる男だ! よろしく頼むよ」

 高校一年生の春。入学式が終わってからの教室での自己紹介。自信満々にそう告げた彼の横顔は、一般論的に言えばとてもかっこよかった。
 なんだか随分イケメンな人と同じクラスになったんだなあと彼を眺めると、なぜかばちりと目が合う。すると彼は私に向かってフッと笑った。…それがあまりにも優しくて。思わず目を逸らす。
心臓が大きく鼓動を刻み、身体中が焼けてしまうんじゃないかというほど熱い。目に焼きついてしまった、彼の微笑み。
 一瞬で自覚してしまった。私は東堂尽八に恋をした。

 それから、私は彼に少しでも近づくようにした。最初は緊張してうまく話すことが出来なかったけど、話してみると意外とウマが合い、私たちはすぐに仲良くなれた。
 それはとても喜ばしいことだった。というよりも、彼と話しているのは恋愛感情抜きでも本当に楽しいのだ。いつしか私たちはお互いを下の名前で呼び合うくらいになり、学校ではいつも一緒にいるようになった。
ほぼ毎日のようにくだらないメールのやり取りをし、時には夜に電話をして夜が明けるまで話し込んでしまったこともあった。

 私も彼もお互いに全く気を遣わない。周囲からセットとして扱われるようになった頃には、ふざけて手を繋いだり、抱き合ったり、そんな冗談しかないスキンシップすらするようになっていた。
 いつしか私は、尽八にとって他にないくらいの親友のポジションを獲得してしまっていた。

「あー…いくらなんでも早く着きすぎた」

 午前七時。あまりにも早すぎる時間に、私は教室にいた。
今朝はなんとなく早く起きてしまったため、することもないしそのまま学校に向かった。寮生ではない私が自宅から電車をスムーズに乗り換えできたことに加え、信号にも一回も当たらずに来たため早くなるとは思っていたが、それにしてもここまで早くなってしまうとは。朝礼が始まるのは八時半だから、あと一時間半も時間を潰さなければいけないわけだ。

 とりあえず自分の席に座り、はあ、と項垂れる。
どうしようか。宿題でもやってしまおうか。けれど朝から宿題なんてとてもする気分になれない。というか提出は明日なんだから取り組むのは明日でいいだろう。

 朝の日差しが眩しく教室を照らす。私はその光を迎えに行くかのように、窓際である自分の席を有効活用してその体制のまま片手で窓を開けた。
 瞬間、直接届いた暖かい光と、ほんの少し肌寒い風。さあ、と備え付けられたカーテンが揺れて、羽のように舞う。そのすべてがとても心地よくて、私は反射的に目を細めた。こんなに気持ちのいいものを、こんな広い教室で独り占めできるなんてなんだか贅沢だなあなんて思いながら、改めてぐるりと教室を見渡す。
 そうして、自然と一つの席に視線が止まる。私の親友で、…好きな人でもある、彼の席に。

 彼に思いを告げようとしたことは何回もあった。けれど、その度に思いとどまって、親友という立ち位置に安定してしまう。一緒にバカ騒ぎして、一緒に笑って。そんな今までの関係が壊れてしまうことが怖かった。いや、それよりも、この居心地の良いポジションに甘えてしまっているのかもしれない。
私たちは近すぎた。恋人という関係になるにはあまりにも近くなりすぎたのだ。

「…だめだ、なんか泣けてきた」

 視界が滲む。見慣れた教室の風景が歪む。溢れ出た涙は頬を伝ってぽたりと机に落ちた。
今のこの関係になったことを後悔はしていない。むしろ本当に幸せなことだ。けれどその代わり、私はきっと彼の特別にはなれない。
とめどなく溢れようとする涙を、拭うことすらしなかった。だって今ここには、私しかいないのだから。

「っなまえ!? なんで泣いてるんだ!」

 私しかいないと、思っていた。
響いた声に肩を揺らし、慌てて涙を拭う。尽八はずかずかと教室に入ってきて、私の目の前に立った。朝練の途中だろうか、箱根学園と書かれたジャージを身に纏って、嫌に慌てた表情をしている。なんで戻ってきたか理由はわからないにしろ、彼が今ここにいるのは紛れもない事実だ。

「…おはよ。ちょっと目にゴミ入っちゃってさあ」
「ゴミが入ったとかそういうレベルではないだろ!」

 我ながら言い訳が下手だと思う。誤魔化すようにへらっと笑うと、尽八は呆れたようにため息をついた。
 ああ、今彼を見ているとまた涙が出てきてしまう。溢れ出る前に、早くこの場から逃げ出したい。いやそれよりも、練習の途中であろう彼を早くここから追い出したい。

「それより、尽八朝練の途中でしょ? なんでここにいんの? 早く戻りなよ」
「ちょうどインターバルだからな」
「…私大丈夫だからさ、早く出てってよ」
「断る」
「なんで」
「そんな顔のお前置いていけるわけないだろ」

そう言って、尽八は私のおでこにデコピンをかました。けれどそれは本当に弱い力で、そんなところにまで優しさを感じてしまう。ああ、本当に彼はするい人だ。
 私ははあ、と小さくため息をつくと、尽八の目をまっすぐ見据える。その悲しいくらい綺麗な瞳を見て溢れでてしまいそうな涙を抑え、私はへらりと笑った。

「…すきなひとのこと、考えてたの」

いつだって、優しくて真っ直ぐに私を見てくれる彼に、私は適わないのだ。
 尽八は一瞬呆気に取られた顔をして、それからわなわなと震えて私を指さした。

「なっ…お前好きな人がいたのか!? 聞いてないぞ!」
「言ってないもん」

私の予想以上に驚いている尽八は、それはそれは慌てていた。そんなに私に好きな人がいるのが意外だったのか。

「その、…誰なんだ、その相手は」
「えー? やだよ教えない」
「何だ、俺のことを信用してないのか!」
「そういうわけじゃないけどさあ」

ぎゃーぎゃーと騒ぎ出す彼は本当にやかましい。ああもう、信用してるよ。これでもかってくらい信用してるよ。だって親友だもん。親友だからこそ言えないんだちくしょう。

「じゃあさ」

けどせめて、今この気持ちを紛らわすくらいのわがままをさせて。

「ぎゅってしてくれたら教えてあげる」

もちろん、してくれても真実を教える気なんてさらさらないけど。
 私と尽八はそれくらいふざけて何回もしているし、今更戸惑うこともないだろう。しかし彼はバツが悪そうにう、と言葉を詰まらせた。

「なまえ…好きな人がいるのにそれは如何なものか」
「じゃあおしえなーい」
「お前なあ…」
「…ちょっと、さみしいんだよ。人助けだと思ってさ、ね?」

言いながら、私は立ち上がって両腕を広げる。尽八は観念したのか、再びため息をついた。そうして恐る恐る手を伸ばし、私をゆっくり抱き寄せる。それに応えるように、私も伸ばした両腕で彼の背中を包み込んだ。

「…これで、いいのか」
「…うん。いい。だからもうちょっと、このまま」

いつもと違う温かさが伝わるのは、そんな会話をしたあとだからだろうか。いつもと違って、ふざけあっている雰囲気ではないからだろうか。ばくばくと爆発してしまいそうな心臓の音は聞こえないふりをして、私はその温もりに溺れる。

「…私の好きな人ね」

言う気はさらさらなかった。…さっきまでは。
この甘い雰囲気に流されたのか、もう言ってもいいかななんて脳が勝手に判断してしまったのかもしれない。まあすぐになあんて、みたいに冗談にすれば全部丸く収まるはずだから。

「今、私を抱きしめてる人だよ」

 けれど、涙が溢れてしまったのは予定になかった。一度溢れてしまった涙は留まることを知らず、ぽたぽたと流れ落ち尽八のジャージを濡らす。嘘だよ、そう告げたくても、嗚咽が止まらなくて言葉にできない。これじゃあまるで本当のことを言ってるみたいじゃないか。いや本当なんだけど。
早く何か言わないと、早く、はやく。

 次の瞬間、感じたのは唇がなにか触れる感触。間近に映った、尽八の顔。ほんの一瞬だけ伝わった熱は本当に優しくて、あたかかくて。
けれど自分の身に起こったことがまるで信じられなくて、やっとのことで出た言葉はあまりにも可愛くないものだった。

「ぎゅってしてとは言ったけど、ちゅーしてとは言ってない」

背中のジャージをしわになるくらいぎゅ、と握りしめる。尽八は当たり前とでもいうかのように、先程より私を力強ぬ抱きしめてから言った。

「仕方ないだろう、好きな人にそんなこと言われたら」

*

「あれ、尽八だ」

早く起きすぎた朝、きっと誰もいないだろうなと早い時間に学校に向かうと、教室には意外にも尽八がいた。彼は私を見るなりおお、と声を上げ嬉しそうに笑う。きっと一人は暇だったのだろう。

「朝練はどしたの」
「いや、朝練がなくなったのを忘れて早く来てしまったのだよ。寮に戻るのも面倒でな」
「あーなるほど」

私はがたりと荷物を彼の隣の席に置く。最近席替えしたばかりのこの席は、先生の目に付きやすい位置にあってあまり気に入ってない。隣が尽八だからまだ許せるってところかな。

「なまえは単に早く起きたってところか」
「ぴんぽん。にしても早く着きすぎたわ」

 時計の短針は七を指している。この時間特有の暖かい日差しが窓から差し込んできて、まるであの日みたいだな、と思い出して思わずくすりと笑みが零れた。

「なんだかあの日みたいだな」

そう思ったのは尽八も同じだった。私も今それ思ってた、そう言うと、彼もフッと小さく笑った。
 私と尽八が付き合い出してもう一年経ったころ。相変わらず同じクラスにいる私たちは、親友であり、恋人だった。

「ねえ知ってる? 気づいたんだけどさ、私たち、お互い一度も気持ち伝えてないんだよ」
「…マジかよ」
「マジまじ」

けたけたと笑いながら私は椅子へと腰掛ける。尽八は今までのことを思い返しているのか、しばらく項垂れて、それからあーと頭を抱えた。

「一年も付き合って一回も言ってないってどんなカップルだよ」
「ね」
「でもまあ、お互いその気持ちを当たり前だと思っていたのだろう!」
「尽八ってよくそんなセリフを恥ずかしげもなく言えるよね」
「山神だからな!」
「関係ないわ」

いつも思うけど、山神だからで全て解決してしまう尽八はなんだか便利な肩書きを持っているななんてどうでもいいことを考える。
 それよりも、本当に意外な事実だった。というか私も昨日なんとなく思い返して気づいただけだ。
今言っちゃおうかな、なんて思った瞬間、ぴんと一つの考えを閃く。すぐさま私はそれを実行しようと、私は彼の名前を呼んだ。

「尽八」

こちらを向いた彼の頬に、私は身を乗り出して、ほんの一瞬自分の唇を触れさせる。

「ね、じゃあさ。今私が考えてること、わかる?」

 私たちは不器用すぎた。あの日、好きな人、とそれに値する言葉を借りたままここまできてしまったのだから。
 へへ、と悪戯っぽい笑みがこぼれているのを自覚しながら尋ねると、尽八は全て分かっているように口角をあげた。

「…愚問だな」

そうして私たちは、まるでいっせーのせで合わせたように、声を揃えてその考えを一斉に口に出した。


***


>雪乃さん