もしゃりもしゃり。目の前にいる小さな焦げ茶色のウサギは、まだ与えられたばかりであろうキャベツの芯をもくもくと食べていた。いつの間にかこのウサギ小屋いたこのウサギは誰かにとても大事に世話されているようで、いつも幸せそうにエサを口にしている。
私はそんなウサギをしゃがんで、静かにじっと見つめていた。

 ここに来て、一体どのくらいの時間が経ったのだろう。既に日は傾き始めていて、ぶるりと震えるような風が木の葉を踊らせる。
 ああ、帰らなきゃなあ。そう思うが、身体はなかなか動かない。思った以上にショックを受けているのだと、認めたくないが痛感してしまった。
 その時、がさりと木の葉を踏む音が聞こえて、思わず身体を強ばらせる。こんな場所まで誰か来たのか、普段この辺りは滅多に人が来ないのに、本当に今日はついていない。
見つかる前にさっさと逃げてしまおうと立ち上がる。そうしてくるりと向きを変えた瞬間、その人物とばちりと目が合ってしまった。

「みょうじ?」
「…東堂」

きょとんとした顔で言った彼から、私はなんとも言えない気持ちでその目を逸らした。
 クラスメイトである東堂は良くも悪くも友達だった。一緒に遊びに行くような仲ではではないにしろ、普通に話したり、冗談を言ったりするような奴だった。
 しかし、部活中のはずの彼が何故ここにいるのか。その答えを言うように、東堂はきょろきょろと周りを見渡して言った。

「チームメイトを探しに来たんだが…ここじゃなかったか」
「逆になんでここだと思ったの」
「そのウサギ、そいつが世話してるんだよ」

指さしたのは先ほどの茶色いウサギ。大事に世話をしていたのはチャリ部の人間だったのか。てっきりそういうことをするのは女の子だと思っていたから、その事実に少し驚いた。…まあ、だからといってどうという訳ではないのだが。

「みょうじはこんな所で何してたんだ」

 東堂は再びチームメイトを探しに行こうとはせず、私を見て尋ねる。ああもう、なんで行かないんだよちくしょうめ。
 私は東堂に聞こえないよう小さくため息をついてからぴょん、と跳ねて、ウサギの脱出防止の段差に飛び乗った。

「何でだと思う?」
「はあ?」
「ヒント1。私は悲しんでます」

段差に乗って東堂より高くなった目線でそう告げると、彼は怪訝そうに顔をしかめた。当たり前だろう、突然そんな意味のわからないクイズを出されて。しかもそのヒントすら訳の分からないものなんだから。
女の子は何でもかんでもクイズにしたがる、なんて前に見たテレビ番組の内容をぼうっと思い出して、私も女の子なんだなあと柄にもなく思った。
 東堂は考えているのか、考えていないのか。しかめた表情を変えようとしない。私は段差からまるで子供が遊んでいるように軽く飛び降りてから、へらりとそのまま笑った。

「じゃあヒント2。私はひとりになれる場所を求めていました」

結局、東堂が来たおかげでひとりになんてなれなかったけれど。
 ここまで言えば察しのいい彼はなんとなく気がついただろうか。私は東堂から顔を背けると、背を向けて一歩、二歩と彼から離れるように足を踏み出す。

「ヒント3。私は…わたし、はっ…」

ひとりで泣ける場所を探していた。だからここにいた。そんなクイズの答えすら口に出せなかった。それ以前のヒントを言おうとするだけで、じわりと涙がにじみ出てくる。情けなくなるくらい叫び出したい気持ちを抑え、私は体の向きはそのまま、顔だけくるりと振り返った。

「フラれちゃった、よ、とうどう」

ヒント3はヒントとしてまともに言えなかった。その事実は私にとってあまりにも残酷すぎたのだ。
 けれど涙は見せないように、口角はあげて、あくまで悲しんでいないように。笑顔でいられるように。
そう意識して振り返ったはずが、はっとしたような東堂を見て涙は一層ぼろぼろと流れ落ちた。

 私には一年ほど付き合っている彼氏がいた。…いや、付き合っていた、というのが正しい、か。
自分で言うのも何だが、きっと周りにはとても仲のいいカップルに見えていたことだろう。彼からプレゼントをもらって、いつだったかそれを自慢げに目の前にいる東堂に見せびらかしたりもした。
幸せだった。彼が大好きだった。ずっと一緒にいたかった。だからこそ、先程告げられた別れの言葉は頭を打ち付けられたような衝撃だった。ごめん、別れようだなんて言葉、まさか聞くはずないと思っていた。

「浮気、されてたの。もう半年も。なのにわたし、全然気づかなかった。…ばかだよねえ、半年も私一人であの人を好きでいた。彼の気持ちはとっくに私なんかには向けられてなかったのに。けどね、こんな思いしても私はまだ未練があるみたいなんだ。吹っ切れなきゃいけないことだってわかってるのに。私最低だよ、最低なんだよ。あの人に幸せになってねなんて言っておいて、心の底では浮気してた彼を、女の子を憎んでいるんだから。…意味わかんないよね。好きなのに、まだ好きなのに憎んでるなんて。ほんと、ほんとに…わけ、わかんない」

 一度溢れ出た思いは留まることを知らず、ぼろぼろと涙と共に零れ落ちる。頭の中でごちゃごちゃとしたそれらはまとまることなく、自分でも収拾がつかないくらいだ。
 こんなはずじゃなかったのに。クイズにして、まるで傷ついていないように軽く笑い話にして東堂に話すつもりだぅのに。それでまた新しい人見つけなきゃねなんてこっそり自分自身を励ますつもりだったのに。気がつけば、本音をすべて吐き出してしまっている。ああ本当に私はばかだ。最低だ。人を憎んで、通りかかっただけの東堂にまでこんな迷惑かけて。ごめんね、という謝罪すら嗚咽のせいで言葉にならない。それなのに、ちっぽけな弱音だけは口から次々と吐き出される。

「…そうだな、最低だ。その男も女も。そいつを忘れられない、お前も」

 ひどく冷たく言い放った東堂の言葉が、ずんと心に重くのしかかる。無機質なその言い方に思わず顔を上げた瞬間、私は彼に両手首を捕まれ、そのまま壁にどん、と押し付けられた。
 軽い痛みが背中に走る。ぎりっと両手首に力が入れられる。東堂と壁の間に挟まれ、突然の行動に嗚咽さえ止まる。
 東堂は私の目をしっかり見据えて、それから自身に言い聞かせるように言った。

「けど、相手が弱っているところにつけ込むオレは、もっと最低だ」

 そうして、彼は自嘲するように笑った。氷のように冷たく、まるでつららのように尖った鋭い笑み。私はこんな状況ながらも、それを美しいとしか形容しようがなかった。そう、それはあまりにも美しすぎたのだ。
 東堂はそのままぐんと顔を近づけてきて、私の耳元で囁いた。

「ごめん、好きだ」

 その声にぞくりと全身が震える。まるでその一言じゃ足りないというような重い響き。込められた冷酷さは、私に向けてか、それとも彼自身に向けてか。
 東堂が私を好きだった。いつから? 彼の目はいつから私に向けられていた?
しかしそれを考える余裕なんてあるはずがない。頭の中のキャパシティはとっくにオーバーしている。
先ほどとは違う意味の涙が、自身の目からつう、一筋と流れ落ちるのを感じた。

「とう、どう」

 震える声で名前を呼ぶと、彼は悲痛そうに顔を歪めた。そしてまるでそれを言わせまいとするように唇を落とした。優しくて、悲しくなるくらい柔らかい口付け。しかしそこから伝わったのは、自責の念が込められた痛み。そして彼が、私が、それぞれ散々溺れたような苦しさだけだった。



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>紫乃さん