綺麗な満月の夜だった。夜になっても昼間とほぼ変わらない気候に思わず口角が上がる。強いていえばほんの少しだけ肌寒くなったくらいだろう。パーカーを一枚羽織り、かちゃりとライトを付けてオレはペダルを踏み込んだ。
山のふもとから少し行ったくらいだろうか。少し先にある、休憩用の見晴らしがいい場所に設置されたベンチに座る、小さな人影が見えた。こんな時間に人がいるなんて珍しい。
怪訝に思いながらも、山を登るオレは自然とそいつに近づいていく。距離が縮まるにつれて、だんだんその人影がはっきりしてくる。小柄な、オレと同い年くらいの女だろうか。そいつはそこから一切動かないまま、ただ真っ暗な景色だけを見つめていた。
自転車の音に気づいたのか、オレがちょうどその横を通り過ぎようとした瞬間、そいつは不意に振り返る。ばちりと目が合い、なんとなく気まずく思いながらもオレはペダルを漕ぐ足に力を込めようとした、その時。
「ね、待って!」
鈴の音が凛と鳴り響くような声に、思わずオレはその足を止めた。振り返るとそいつはまっすぐに俺を見ていて、その言葉は紛れもなくオレに向けられたものだとわかった。
クリートをペダルから外して、自転車から降りる。彼女はオレに向かって小さく手招きをしていて、拒否する意味もないオレはそちらへ自転車を押して歩いていく。
「こんばんは」
ベンチに座ったまま身体をこちらに向けて、彼女は言った。挨拶ですらうまく返せないオレは、ぎこちなくこんばんは、と返す。どうしてオレなんかに話しかけたのだろう。いや、それよりもどうしてこんな時間に一人でこんな場所にいるのだろう。そんなオレの頭の中の疑問を読んだかのように、彼女は含み笑いをしながら言った。
「私、この場所好きなんだ。高い場所だからいろんなところがここから見られるし、静かだし。なんか落ち着くんだよね」
「...もっと明るい時でもいいッショ」
初対面の人間とこうして喋っているこの状況に自分で疑問を持ちながらも言ったオレの最もな言葉に、彼女は眉を下げて苦笑した。
「だめなんだよ。昼間じゃすぐばれちゃうから、夜しかここに来れないの」
「...は?」
まるでわけのわからない返事に、思わず顔をしかめる。学校があるからとか、忙しいからとか、そういう理由ではなくばれるとはどういうことだ。親が厳しくて外に出させてもらえないとかか? いや、そんなのただの虐待だ。
そうして悶々と考えるオレを見て、彼女はけたけたと笑う。
「巻島くんって噂に聞いた通り、会話するの苦手なんだね」
「え、は? なんでオレの名前」
「有名だよ、緑色の髪の巻島祐介くん。クラスじゃ静かで、あんまり人と会話しない。でも、すっごく自転車が速い」
ぴっとオレのタイムを指さして、彼女はでしょ? とすべて知っているふうに言った。
本当にコイツは訳が分からない。結局この時間帯じゃないと駄目な理由も、一体なんでオレのことを知っているのかも。同じクラスや学年にこんなヤツいたっけか、と記憶を辿ってみても、全く思い出せない。
「私もね、総北なんだ。三年の、みょうじなまえ。まあ、私のことは知らなくて当たり前だと思うよ。それよりさ、私明日もこの時間、ここにいるから」
言いながら、みょうじはゆっくりベンチから立ち上がる。そうしてオレに背を向けてから、顔だけ振り返って小さく笑った。
「よかったら、また明日も話そうよ」
そうして静かに山を降りていった。
今の一連の流れは本当に唐突すぎて、家を出た時に感じた肌寒さすら忘れていた。オレは何も返事することができず、頭を抱えてため息をつくことしかできなかった。
*
次の日。学校へ行っても、もちろん同じクラスにみょうじなまえという女子生徒はいなかったし、知り合いにそれとなく聞いてみても知らないの一点張りだった。しかしいくら思い返してみても昨日の彼女は嘘をついているように見えなかったし、それ以前に同じ高校の三年だと嘘をつくメリットなど何も無い。だから思い切って廊下ですれ違った学年主任に聞いてみた。すると主任はあまり関わりのないオレから話しかけられたことに驚きながらも答えてくれた。
「俺のクラスの生徒だよ。けど病気でなあ、入院してて全然学校に来てないんだ。...そいつがどうかしたか?」
「...いえ、ありがとうございます」
そいつがどうかしたんじゃない。柄にもなく人を気にして、こうして調べまわっているオレ自身がどうかしているんだ。知らなくて当たり前だと彼女が断言したのはこういうことだったのか、などとぼんやりと考える。良かったらまた明日も話そうよなんていう言葉が脳内でリフレインして、オレはまたため息をついた。
そうして完全に振り回されていることを自覚しながら、オレは昨日と同じ時間に峰が山に向けてペダルを踏み込んだのだ。
「お前のこと、聞いたッショ」
昨日と全く同じ時間、同じ場所でベンチに座っているみょうじの背に向けてそう言うと、彼女は情報が早いねえ、と呑気そうに言った。
「昼間じゃばれるってのは看護師にってとこか。お前、どうせ無断外出ッショ」
「ぴんぽーん。さっすが巻島くん」
軽い雰囲気でそう言うと、彼女は座っている長いベンチの隣の空いたスペースをぽんぽん、と手で叩く。座れということか。断るとめんどくさそうだということはなんとなく予測できて、オレは自転車に鍵をかけてから彼女と少々距離を取ってベンチに座った。その距離になにか文句を言われるかと思ったが、それでみょうじはうん、と満足げに頷いた。
「こう見えてなかなか重い病気でね。命に関わる...ってわけじゃないんだけど、基本的に病室に篭もりっぱなし。たまに学校行けたとしても保健室登校なんだよね」
まるで世間話をするかのように軽く喋るその様子が、とても重い話をしているようには思えなくて、一瞬全てが嘘なんじゃないかと錯覚する。けれど昼間も思った通り、彼女が嘘をつくメリットなどどこにもないのだ。
「だからさ、毎日毎日同じことの繰り返し。でも、昨日ここに来てよかったよ。巻島くんみたいないい人と会えた」
「...なんでオレがいい人だって言いきれるッショ」
「だって今日、ここに来てくれたじゃん」
オレの顔を覗き込むように、みょうじはそう言って笑った。普段のオレだったらぜってえ来ねえよと言ってやろうと思ったが、どうして今の自分が「普段」じゃないのかが自分自身でもよくわからないのでやめておいた。
明日も来てくれる? そうみょうじが言い続けてどれほど経っただろうか。毎日毎日同じ時間、同じ場所で、オレとみょうじは会うようになった。ほんの少しだけとりとめのない会話を交わし、あいつは満足げに帰っていく。病院まで送ってく、と何度か申し出たが、人が増えると気配も増えて、看護師さんたちにばれる可能性があるからときっぱり断られてしまった。
いつの間にか肌寒さは薄れ、オレはパーカーを羽織ることもなくなった。薄着のままサドルに跨り、峰が山へ向かう。
いつもの場所を目指してペダルを漕ぐ。そろそろ人影が見えてくる頃だ。しかし、そこまでたどり着いたオレは目を見開いた。
そこには誰もいなかった。彼女の痕跡すら何も残っておらず、ただぽつんといつものようにベンチが静かに佇んでいるだけだった。
確かに昨日、みょうじはまた明日、と言った。いつも通り、けたけたと明るく笑っていた。けれど、今ここにはいない。看護師たちに無断外出がバレたのだろうか。それとも、…考えたくはないが、病気が突然悪化したのだろうか。
一つの街灯だけが小さくベンチを照らす。月の光すら差し込まない、真っ暗な新月の夜。彼女は姿を消した。
*
相変わらず学校はずっと欠席のままだった。みょうじに何があったかはわからない。こんなことなら連絡先くらい知っておけば良かったと、入院している病院名すら知らない自分を恨んだ。
毎日誰もいないことをわかって、同じ時間に峰が山に登る。そんな自分が本当に馬鹿みたいに思える。いや、実際馬鹿なんだろう。わかっていても、もしかしたら今日はいるかも、と心のどこかで期待しているのだ。
「巻島、お前まだ夜に峰が山へ行っているのか」
休み時間。教室にやってきた金城にそう言われて、オレは曖昧な返事をする。そういや前にちらっと話したことあったっけなぁなんて記憶を巡らせていると、ふと、金城の後ろに誰かいるのに気づいた。金城の背中から少し見えたのは、あの時毎日見ていたのと似た長い髪、それからしわの少ない総北の制服のスカート。
オレの視線に気づいたのか、金城はふっと笑って言った。
「手術を受けたようでな、しばらく外に出られなかったらしいが、お陰で病状はかなり良くなって今日から登校できるようになったらしい」
「金城、それって…」
「クラスを聞き忘れたとかで、片っ端からお前の名前を叫んで探していたから連れてきた」
瞬間、ひょこ、と後ろから顔を覗かせたのは、毎日峰が山で会っていた彼女で。驚きすぎたのか、そういえば明るい場所で会うのは初めてだ、そんな呑気な考えが頭に浮かんだ。
「久しぶり、巻島くん」
そうしてみょうじはあの時と同じ、いや、あのときよりさらに明るく笑った。
オレの行動が金城に全て筒抜けになってしまったとか、彼女がオレの名前を叫びまくっていたとか、そんなことすらどうでもよく思えた。これからは山に行かなくてもたくさん話せるね、なんて見慣れない制服姿のみょうじはおどけたように言った。
***
>翡翠ちひろさん