携帯のアラームが鳴っている音に、だんだんと意識がはっきりしてくる。反射的に布団に潜り込み、手探りで携帯を探してアラームを止める。目は開けずに、息苦しくなってきた布団から顔を出す。瞼の向こうはうっすらと明るい。
 もたつく瞼を持ち上げれば、よく見慣れた天井がある。遮光度がそこまで優れていない私の部屋のグリーンのカーテンは、柔らかく明るみを帯びている。昨日の天気予報の通り、外の天気が晴れなのがわかった。
 寝転がったまま天井に向けて手を組み、うんと伸びをする。脱力して胸の上に落ちてきた手の軽い衝撃に、目をつむって深呼吸をひとつ。
 スイッチが切り替わったみたいにガバッと起き上がり、ベッドから足を下ろしてもう一度伸びをする。カーテンを開ければ綺麗な空と雲。青と白のコントラストはなかなかなものだ。部屋の真ん中にある、ガラスのローテーブルに置いてあったインスタントカメラを手にする。窓の外に向かいシャッターを押す。出てきた写真とカメラをテーブルに戻し、私は身支度を整えるために部屋を出た。
 顔を洗って、空っぽのお腹にご飯を軽くつめて、それから昨日のうちに決めていた服に着替える。厚く重たいコートはすでにクローゼットの中で眠っている。薄く軽い上着を羽織るだけの季節になった。インスタントカメラを首から下げるケースごとメッセンジャーバッグに入れ、お気に入りのかかとの低い靴を履いて外に出る。スゥと息を吸えば、午前中のまだ暖まりきっていない空気が身体の中に満ちた。
 空色のクロスバイクにまたがり、河原沿いを延々と走りだす。日差しは暖かくても、空気はまだ冷えているようだ。走っていれば身体にぶつかる風もひんやりとしている。
 橋に差し掛かる頃、車道側に桜が咲いていた。その桜色は川に沿うよう、ずっと向こうまで続いている。天気予報のお姉さんが、今日で見頃を迎えるだろうと言っていた。愛車を端によけ、背中のカバンからカメラを取り出す。
 カメラ越しに、一番綺麗に見えるよう切り出す部分を決め、シャッターを押す 。パシャッという音のあと、唸りながら舌を出すみたいに少しかたい厚めの紙が出てくる。じんわりと浮かんでくるそれは、冬の終わりと春の訪れを告げるものだった。
 何枚か撮り、飲み物を飲み、風に舞う髪を抑えながら周りを見渡す。天気がいいからか、サイクリングをする人もちらほらと見かける。何度か追い越されたし、私もひとりかふたりか追い越したと思う。
 ほんの少しの休憩はそろそろ終わりにしよう。まだ今日も始まったばかり。愛車に跨り、再びペダルを踏み込んだ。
 みっつほど橋をくぐったところで、足を動かすのをやめた。川側の草原に、よく見知った人物がいる。ちらちらと小さな白が散りばめられた草原に座り込む私の恋人。

「尽八」
「……なまえ」

 愛車を押して近づきながら声をかけたら、驚いたように振り返り、目を見開いていた。今日はトレードマークのカチューシャはなく、髪は前髪ごとハーフアップにされている。サイクルジャージも着ていない。

「どうしてこんなところに」
「この子を使いたくて。昨日天気予報で『明日はよく晴れて暖かく、桜も見頃を迎えるでしょう』って言ってたから」

 この子、とカメラを少し持ち上げる。先月買ったこのインスタントカメラのことは尽八にも、もう話してある。オレのこともそのうち撮ってくれと指差しながら言っていた。
 なるほどな、と返事をするものの、尽八はどこかふわふわとした様子だった。そのくせ妙に落ち着いた雰囲気で、なにかズレを感じた。

「尽八はなんでここに?」
「起きたら天気が良かったからな。今朝の時点で雨の予報もなかったし、少し走ろうと思ったんだ」

 尽八の傍らには真っ白なリドレーがあった。フレームを撫でる手は、生まれたばかりの仔猫を撫でるみたいに優しい。
 なんだかその姿がすごく綺麗に思えて、シャッターを切る。尽八は少し驚いた様子だけったけど、すぐに楽しそうにハハッと笑ってくれた。
 隣に腰を下ろして、出てきた写真が浮かび上がるのを待つ。尽八は距離を詰め、まだぼんやりとしている写真を覗き込んでくる。

「何か考えことでもしてた?」
「……なまえのことを、考えていた」

 それは嬉しい、とおどけながらまだ写真とも言えない写真を渡すと、真剣にじっと見つめている。
 浮かび上がる写真を見つめる、その横顔を撮る。出てきたもう一枚も、尽八に渡した。

「そんなに撮られると少し恥ずかしいな」
「ファンクラブでブロマイドが出回ってる人間のセリフじゃないよ」

 おかしくてクツクツと笑えば、それもそうだなと顔をほころばせる。尽八はどさっと仰向けに寝転がり、それから横を向くように体勢を変えた。
 映画のワンシーンみたいだ。カメラを構えようとしたら、なぁ、と声をかけられそれはかなわなかった。

「ここに咲いている花、何かわかるか?」

 ここ、とは私たちがいるこの草原のことだろう。ぷつっと花を手に取り、じっと観察するが、その花の名は頭に浮かんでこない。視線を花から葉のようにも見える実へ移して、ようやくわかった。ハート型のシルエットをした、平らな緑色の実。正式名称では無いだろうが、この花を知っている。

「ぺんぺん草?」
「ぺんぺん草のほうが馴染み深いかもな。ナズナだ」
「ナズナ、春の七草の」

 やはり正式名称ではなかったが、正解ではあったらしい。具体的にどこで見かけたというのもわからないが、どこかしらで見てなんとなく覚えていた植物が、馴染み深い習慣に関わっていたとは驚きだ。

「そう。それじゃあ、ナズナの花言葉を知っているか?」
「知らない」
「『あなたに私の全てを捧げます』だ」

 尽八は起き上がり、先ほど切り取った時間が浮かび上がった写真をこちらに渡す。それと交換する形で私の手からぺんぺん草、もといナズナを受け取った。花と実を小さく揺すって遊んでいるようだが、その視線はナズナの向こう側を流れる川にあるようだった。
 あなたに私の全てを捧げます。
 小さく復唱する。雑草だと思っていたが、春の七草のひとつだったとは。花言葉もこれまた大層なものだ。

「何かやましいことでもあるの?」
「やましいことというか」

 バッとこちらを勢いよく見て、そんなこと、と言おうとしたように見えた。大きな瞳は落ち着くことなく揺れている。
 私は知っている。昨日、中庭で告白されていたこと。全部見ていた。ちょうどお昼休みの時間だ。何気無く中庭を見下ろしていたら、ふたつ下の学年で可愛いと噂される女の子と向かい合って立っていたのを見た。
 私もその子のことを可愛いなと思っていたけれど、人の彼氏に手を出すなんてとその瞬間彼女の株は大暴落だ。周りはどうかしらないが、少なくとも私の中では。
 もちろん会話の内容なんて聞こえなかったが、尽八が立ち去ったあと、女の子は両手で顔を覆ってうずくまっていた。おそらく断ったであろうことも知っている。

「なまえは、オレが他の人に取られるとか思わないのか?」

 尽八は、明確に誰とはあげていないが、彼女がいると公言している。告白してくるものは激減したが、それでもゼロじゃない。横取りしたいと思われるくらいに魅力的な人なのだ。そんな人が私のことを好きでいてくれるのだから、それはとても光栄でありがたいことだと思う。同時に、何が何でも手放してたまるか、とも。

「取られちゃうの?」

 質問に質問で返すのはずるいとわかっている。でも、そんな風に思われているなんて心外だ。
 あの時、告白されただけでないことも知っている。おそらく告白のやりとりが終わり、ふたりの動きが止まったあと、女の子から唐突にキスされていたこと。きっと尽八がやましく、隠したいと思っていることはこれだ。
 どうせ思い出をくださいとかそういうのだろう。女の子が唇から離れてすぐ、目の前で口元を手の甲でぬぐっていたのには申し訳ないが少し笑ったけど。

「まさか」

 差し出されるナズナ。その表情は何ひとつ曇りのない、慈愛に満ちた表情だった。『あなたに私の全てを捧げます』。大人からすればたかだか10代の、性欲高まる思春期の戯言かもしれない。それでも尽八は今現在の全て、本気でその意思があるのだろう。
 なんだか照れ臭くなって、私からもナズナを差し出して笑う。尽八はきっと知っている。私が昨日の放課後、体育館裏で隣の隣のクラスの男の子に告白されたこと、キスされたこと。もちろん断ったし、本人の目の前で即口元をぬぐってやった。不快感で腹の底が真っ黒くなるあの感覚はやっぱり嫌いだ。それでも口汚く罵らなかっただけ褒めて欲しい。
 私は尽八に、全てを捧げるつもりでいるのだ。他の人に邪魔なんてさせやしない。今日初めてピッタリと重なり合った、意識を伴った視線に、自然と顔を近づけていた。
 私たちの全てなんて、大人が見れば笑ってしまうほどちっぽけなものなのだろう。それでも私たちは、そのちっぽけなものを全てだと信じ込んで、泥臭く、浅はかに、青春を謳歌していくのだ。