理由をあげればキリが無いが、それくらい私は雨が嫌いだった。
雨が降ると、自然と部活の練習メニューも室内でのローラー回しが多くなってしまい、部員達の不満もだだ漏れになる。そんな彼らを叱咤するのはマネージャーの私の役割でもあるんだけど、やっぱり私も雨の日は嫌なのだ。
一人部室に残り、大きなため息をつく。嫌だ嫌だと思っていたら仕事が遅くなり、それを片付けていたら辺りが真っ暗になってしまっていた。相変わらず雨はしとしとと降り続けていて、帰ることすら億劫になる。
それでも、帰らないわけにはいかない。そもそも寮暮らしなんだから歩くのは大した距離じゃないんだ。
鞄の中をまさぐって折りたたみ傘を探す。今日は午後から雨が降り始めるって朝天気予報で言っていたから、寮を出る前に入れたはずだ。
しかしいくら探っても出てこない。鞄をひっくり返しても折りたたみ傘はなく、そこでようやく入れたつもりで部屋に置いてきたんだと気付かされた。
仕方ない、タオルでも被って走って帰ろう。
そう思った時、突然部室のドアががちゃりと開いた。
「なまえ? 電気がついていたからまさかとは思っていたが…まだ残っていたのか」
「…なんだ、東堂か」
「何だとはなんだ」
予想もしない人物の登場に、心臓がどくりと大きく打つ。それを抑えるかのように、私はわざとらしく嫌そうに眉を下げた。
帰ったんじゃなかったの、そう尋ねると、彼は無言でぴらりとプリントを見せた。それは今日渡された、明日提出の数学の宿題。
「宿題忘れてわざわざ戻ってくるなんて、東堂も律儀だね」
「何を言う。出された宿題は提出日までにきちんとこなすのが当たり前だろう」
「あーはいはい。はあ…傘貸してくれる救世主が来たと思ったんだけどな」
彼が傘を二本持っているはずがないし、やっぱり走って帰るしか選択肢はないらしい。ひっくり返したままだった鞄の中にタオル以外のものをすべて詰め込み、椅子から立ち上がる。
ほら東堂、鍵閉めるよ。彼に声をかけようと顔を上げると、彼は既にドアの前に待機していて、それから当たり前のように言った。
「傘持ってないなら早く言え。送ってやる」
*
どうしてこんなことになったんだろう。そんなことを考えるよりも、顔の火照りと高鳴る鼓動を抑えるだけで精一杯だった。
私の隣で東堂が傘をさしている。彼の大きな傘に一緒に入っている。その事実だけでこんなにも嬉しくなる。
私が東堂を好きになったのはいつからだろう。気づけば彼を目で追っていた。けれど私は何も行動することもできず、気づけば三年だ。
自分にとって二度もないラッキーというやつだった。女子憧れの相合傘なんていうやつを、好きな人としているわけだから。
けれど一つ気がかりなことがあった。今までずっと聞きたくて聞けなかったこと。聞けば、場合によってはぼろぼろに傷つくことなのだから。けれどもう機会はここしかないと思った。
「東堂ってさあ、好きな人いるの」
「…何だね急に」
突然の質問に、彼は怪訝そうに私を見る。当たり前の反応だろう。突拍子もなくそんな恋愛話などされたら、誰だってそうなるはずだ。
「いや、いたらさあ。悪いなって思って。私なんかと相合傘してるの、だめでしょ」
「大切なマネージャーをこんな暗い中、雨に濡らすほうが駄目だと思うがな」
さらりと彼が吐いた言葉に再び大きく高ぶる心臓の音。ああもう、どうして彼はこんなことを平気で言ってしまうのだろう。それでこんなに酔いしれてしまう私も大概だ。
けれどここで話をはぐらかされるわけにはいかない。
「で、いるの?」
キッと彼の目を真っ直ぐ見て問い詰める。ここまで来たら私も腹をくくって聞かざるを得ないのだ。それがどんなに辛い答えだとしても。
「…いるぞ」
見開いていた彼の目が愛おしそうに細められ、私から逸らされても。
「…じゃあこんなことしてたら本当にだめだよ」
「どうするかは俺の勝手だ。ほら、女子寮着いたぞ。早く寝ろよ風邪引くなよ!」
まくし立てるように早口でそう告げると、東堂はさっさと男子寮の方角へ歩いていってしまった。
胸が張り裂けるくらい痛い。針を何千本を飲まされても、きっとこんな痛みにはならないだろう。
ああ、失恋って、案外簡単にするものなんだな。
*
次の日、彼はいつも通りに私に挨拶を交わしてきた。私もまるで何事も無かったかのように返す。そんな日々を過ごし続け、もう何十日と経った。
私はあれからますます雨の日が嫌いになった。けれど以前とは違い、マネージャーの仕事を晴れの日以上に早く終わらせるようになった。いくらもうないとわかっていても、遅くまでかかるとあの日のことを思い出されてしまうから。
いつも朝天気予報に気を配り、折りたたみ傘を忘れないようにしていた。していた、のだけれど。
「お天気お姉さん、雨なんて聞いてませんよ…」
窓の外では土砂降りの雨。外は真っ暗で、まさにあの時と同じ。色んなことが重なり、今日は仕事量が普段の倍くらいに膨れ上がっていたから遅くなってしまったのだ。ああもう、よりによってこんなときに雨が降ってくるなんて!
一日中快晴と聞いていたから、傘なんて持っているはずがない。こりゃ今度こそ走って帰るか…。
電気を消し、ドアを開ける。鍵を締めようとドアの方に向き直った瞬間、壁にもたれかかった人影が視界に入った。思わず息を呑む。
「なまえがまだいる気がしてな」
そう言って、東堂は一本の傘を差し出した。
*
恋心ってのはあまりにも単純でしつこい。あんなに盛大な失恋をして割り切ったつもりでも、心の奥底では私はまだ彼が好きなのだ。
東堂と同じ傘に入り、女子寮までの道を歩く。あの時と全く同じ。
なんで傘二本ないのと聞いたら、悪びれもなく忘れた、と彼は言った。もうこの際なんでもいいやと思った。
「…フラれたよ」
少し歩いた時、彼がぽつりと呟いた。誰に、なんて聞かなくてもわかる。あの時の愛おしそうな彼の目は、もうどこにもなかった。
「…へえ、東堂もフラれることなんてあるんだね」
「俺も初めての経験だよ」
はは、と東堂は自嘲気味に笑った。そりゃあそうだ。大概の女の子は彼にメロメロなんだから。かく言う私も未だにその一人であることは間違いないのだけれど。
「なんでそれをわざわざ私に?」
「お前にしか言ってなかったからな」
好きな奴がいた、ということを。そう付け加えて、彼はまた小さく、泣きそうな顔で笑った。
私だけに、なんて。内容が内容じゃなければ飛び上がるほど嬉しくなるような魔法の言葉だ。けれど報告をしてくれたということは、私のことを信頼してくれているということだろう。それはきっと、仲間として、だけれど。
「そっかあ。じゃあ東堂もフラれ仲間だ」
「フラれ仲…は?」
「私もね、フラれたんだよ。何日前かな、ちょうどこの道のあたりで」
思い返すことすら辛い、あの出来事。
あの日は本当に今日と酷似していた。止む気配の無い雨に、憂鬱な私の気分。
いつの間にか私の足も東堂の足も止まっていて、私たちはその場に立ち止まっていた。
「忘れ物をした彼が部室に来てね、傘のない私を寮まで送ってくれたの。すごく嬉しかった。だからね、思い切って聞いてみようと思ったんだ。…ねえ、私が何を聞いたかわかる?」
無言で私の話を聞いていた東堂が、はっとしたようにこちらを見た。きっとすべてが伝わったと確信した。
「…『東堂って、好きな人いるの』」
「…あたり」
すごいじゃん、と誤魔化すように私はおどけて笑った。一方で東堂は悲痛ともとれるような表情を一瞬浮かべて、それからそれを隠すように俯いた。
「私ね、ずっとずっと、東堂が好きだったよ」
自分が今出来る、精一杯の笑顔を見せてやった。それが本当にできているか、定かではないけれど。
相手が弱っている時につけ込むなんて最低な行動だと自分でもわかっていた。けれど、東堂の目が私に向いていないことも、そしてこれから向くことがないことも私は知っていたのだ。
どうだざまあみろ、なんて誰に対してかもわからない暴言を頭の中で吐き散らして、私も俯いた。
コンクリートに雨が打ち付けられる冷たい音だけが響く。もうこのまま立ち去ってしまおうか、そう思った瞬間、降り注いできたのは温かく、それでもって何よりも鋭い言葉だった。
「ありがとう」
否定とも肯定とも取れない返事。顔を上げる勇気なんてあるはずがなかった。
傘の先から滴り落ちた水滴が、留まることなくぽたぽたと地面に流れていく。コンクリートの隙間に溜まった水溜まりがゆらゆらと波紋を揺らしていた。
ああ、優しい彼によって、一番残酷な形でこの恋は今終わったんだ。
「送ってもらって助かったよ。もう仕事残したり、傘忘れたりしないようにするね。ありがとう」
女子寮まであと数メートル。私は東堂の傘から一歩踏み出して、くるりと振り返った。
「じゃあね、東堂」
そうして寮に向かって走り出す。目元から頬にかけて、たくさんの雨が降り注いでいた。一瞬にしてこれじゃあ、東堂の傘なんて全く意味がなかったんだな。
明日になれば、また部員とマネージャー。きっとあの日の次の日のように、何事も無かったような日常を過ごすのだろう。私も、彼も。
すっからかんに空いたこの穴を何で埋めよう。しばらくそれすら見つかりそうもない。それほど私は彼が好きだったんだ。
ばいばい、私の恋心。
もう戻すことの出来ないそれは、別れを告げた途端に音もなく消え去っていった。