いつだったか、「そんなぼろぼろのスニーカー、いつまで履いてるの」と尋ねられたことがある。あれは友人だったか、母親だったか、それすらも覚えていないが、そんなことはどうでもいいのだ。私は当時それになんて答えたっけ、と頭を捻らせても、当時のことなんてさっぱり思い出せない。脳内に浮かぶのは「元カレが忘れられなくて」というなんとも重すぎる真実くらいで、私は考えるのをやめた。確かあの時は、苦笑いで済ませたような気がする。

 高校時代も遥か昔とはいえないが、そんな時代もあったね、と年寄りくさく笑い合うような年齢になった。周りで結婚の話題がちらつく中、彼氏の一つも作らない私を友人達は怪訝な目で見ているのを知っていた。私だって、私自身をそういう目で見ているのだから。
 高校卒業に伴い、神奈川…箱根から上京すると言い出したのは私だった。そして、同時に当時の彼氏の尽八に別れを告げたのも私。まだ彼が好きだった、けれど遠距離恋愛は性格的に無理なんだよね、と笑った私に、彼は一瞬寂しそうな表情を浮かべてから、わかった、とだけ呟いた。
 尽八と別れて、ほんの少し重荷がなくなったような気がした。好きで好きでたまらなかったのに間違いはないけれど、あんなに素敵な人間の隣にいることで浴びる視線や聞こえる噂話に、私は怯えていたのだと思う。

 だから新しい土地では心機一転、彼のことは忘れて、新しい恋を始めようと思った。思った、のだけれど。改めて、私に遠距離恋愛は無理だなと痛感することになってしまった。すぐに忘れられると思っていた尽八のことを、私は今でも忘れられずにいた。遠く離れた地にいる彼のことを想うのはなんて辛いことだろう。ほらやっぱり無理だった、と私は自嘲することしかできなかった。
 そしてこのぼろぼろになった、かつて真っ白だったスニーカーすら私は捨てられないでいる。彼のリドレーとどことなく似ているから、というなんとも単純な理由で購入したこのスニーカーを、彼はそれはもう大袈裟といってもいいくらい褒めてくれた。それがとても嬉しくて、忘れられなくて。今でも私は高校時代に買ったこれを繰り返し洗って、未だに履き続けているのだ。
 自分でも重すぎる女だってわかっている。私自身、こんなに重いと思っていなくてびっくりしたくらいなのだから。

 がたんごとん、繰り返される振動が心地いいと思ったのは遠く昔だ。今ではもう苦痛しか感じなくて、思わず抑えてしまうほどの尾てい骨の痛みを紛らわすかのように流れる景色を眺める。遠くの山の向こうから、うっすらと温泉街らしい湯けむりがもくもくと立ち昇っているのが見えた。
 私はそのスニーカーを履いて、数年ぶりにこの箱根に戻ってきていた。東京から神奈川だ、そう遠い距離でもないが、今まではここから逃げるように何かしら言い訳をつけて、帰ることを拒否していた。今回こうして帰ることを決意したのは、特別大きな理由があるわけでもなく。ただ、一回帰ればすっきりするだろう、という、言うなればただの希望的観測だった。

 電車を降りて、懐かしい空気を肺いっぱいに吸い込む。そうしてとりあえず実家に戻ろうと、私はキャリーケースをがらがらとひいてゆっくりと歩き出した。
 駅周辺は以前より少しだけ発展していて変わりを見せていたが、駅から少し離れるとそこはもう何も変わっていない、あのときのままの私が知っている街だった。
 家に戻ると、何年も家に帰らなかった親不孝ものの私を家族は暖かく迎えてくれた。それに感謝をしながらも、私は話もそこそこに荷物を置いてまた家を後にした。まずは重苦しい思い出を払拭しなければいけないと思ったからだった。

 再び電車に揺られて数十分。段々見えてきた、あの頃毎日見ていた景色に懐かしさを覚えた。駅からバスに乗って、それから長く急な坂を登って徒歩数分。辿りついた母校、箱根学園の文字を見るなり、何故だか心臓をきゅ、と掴まれたような気分になった。
 休日らしく、校舎の方が静かな代わりに寮のほうからがやがやと騒がしい声が聞こえる。私は警備員さんにまるでどこかの部活のOGのように名乗って中に入った。いや、実際チャリ部のマネだったわけだし、OGであるのとには間違いないのだけれど。
 敷地内を散歩するだけでよかった。こうして卒業後に改めてここに来ることで、彼とのことを「昔の思い出」に出来ると思った。遠くから運動部の掛け声が聞こえる。休日でも運動部は練習してるんだよな、と当たり前のことを思った時、ひゅう、と私の真横を風が通り抜けた。たなびく髪、ふわりと揺れたスカート。そちらを見ると、ロードに乗った男の子がちょうど角を曲がるところだった。そうか、チャリ部も練習あるんだよな。

「…なまえ?」

 そんな時背後からかけられた懐かしい声に、私は思わず息を呑んだ。あの頃毎日聞いただろう声、聞き違いじゃなければ。どきどきと胸を昂らせながら振り返ると、そこには高校時代よりいくらか大人びて、体格も当時と比べてさらにがっしりとした隼人が驚いた表情でこちらを見つめていた。

「隼人、久しぶり!」

 数年ぶりの再開に私は彼の元に駆け寄ると、彼も戸惑いながら、それでも嬉しそうに久しぶり、と返してくれた。会うのはそれこそ卒業以来だろうか、ちょこちょこ連絡は取っていたものの、なかなか会う機会に巡り会えなかったのだ。元気だった? という社交辞令のような会話から始まり、話はどんどん弾んでいく。彼はOBとして定期的に箱学に訪れているようだった。
 話し始めて何分経っただろう、しばらくした時、隼人はしばらく間を空けてから私の様子を伺うように言った。

「連絡、取ってるのか」

誰と、だなんて聞かなくてもわかった。高校時代、私は彼の話や相談をしていたのは、いつだって隼人だったのだ。もちろん、当時振った時の気持ちも知っている。けれど、さすがに今も引きずっているなんてことは知るはずもないだろう。私は隼人の目を真っ直ぐ見て、それからへらりと笑って言った。

「まさか」

 一瞬目を見開いた隼人だったが、すぐにその仕草がなかったかのようにそうか、と返して、彼は少し寂しそうに笑った。きっと彼の目には、私の気持ちはとっくに踏ん切りがついたように見えただろう。実際はそうだったらいいのに、と思っているだけなのに。

「そうだよな、ここに帰ってきているってことは、そういうことだよな」
「そういうことですよ。もう過去の思い出なのです」
「そっかそっか」

はは、と少し懐かしく感じる、あの頃のままの笑顔に、私も口角を引き上げる。ポーカーフェイス、作り笑顔なんて慣れたものだった。
 それでも心の奥がきりきりと痛むのはやはりいい気持ちではない。私はこの場を離れようと、くるりと踵を返した。

「じゃあ私行くね、また連絡するね」

ばいばい、と告げようときたとき、ぱしりと手首が掴まれた感覚。顔だけ振り返ると、隼人は表情を変えることはなく私の右手首を掴んで、それからまるで小さな子に言い聞かせるようにゆっくりと呟いた。

「さっき連絡取ってたんだけどさ。尽八、今こっち来てるって」
「…ふうん」

 他人の口からその名前を聞いたのは本当に久々な気がする。ざわざわとうるさい胸のざわつきを隠すように、私はその軽く掴まれた手を振り払った。まるでそうされることが最初からわかっていたように、その手はあっさり離れる。私はまたね、とだけ呟いて、隼人に背を向けて歩き出した。突き刺さる視線に含まれていたのは、どんな感情だったろうか。

*

 ドアが開かれた瞬間、溢れだしそうなくらいの人の多さにげんなりした。まるで押し寿司のようにぎゅうぎゅうに詰め込まれた電車に乗るのは気が引けたが、一刻も早くこの地から離れたかった私は無理やり人と人の隙間に入り込んだ。
 満員電車特有の生温い空気が蔓延した車内はどことなく気持ちが悪い。密着した知らない人間の体温と足から伝わる揺れ、身動きが一切取れなくて、バッグはほぼ浮いている状態。これだから満員電車は嫌いなんだ、とため息をつく余裕すらなく、ひたすら目的地に近づく電車に揺られた。
 私が降りる駅の名前が鼻声の車掌さんのアナウンスでぼんやりと耳に響いた。ようやく抜け出せるという安心感からもぞりと固定されていた腕を少しだけ動かすと、目の前のお姉さんにおもむろに嫌な顔をされた。ああ早く抜け出したい。
 大きく揺れてから電車が停止して、すぐにその扉が開く。この駅で降りる人は多いらしく、私はそのまま流されるように外に押し出される。それでもやっと解放された嬉しさに、私は早足で歩き出した、その時。
 先ほど箱学でも味わった、右手首を掴まれる感覚。隼人の手よりもほんの少し小さくて、それでもごつごつとした確実に異性だと思われるその手を、私は知っていた。

「スニーカー」

 聞きたくて聞きたくてたまらなかった懐かしい声。あの頃とあまり変わらない少し高めの声。今までに無いくらい跳ね上がった心臓は誰よりも早くその存在を察知したのだろう。せわしなく流れていく人の流れのど真ん中で私は立ち止まり、息を詰まらせながらゆっくりと振り返った。

「履いてなかったら、気づかなかった」

スニーカーのこと、覚えていたんだ。そう思うよりも、姿を見た瞬間、涙が出そうになった。大人になった尽八は、もうトレードマークのカチューシャはしていなかった。それでも髪は少し伸びていて、相変わらず美しいと形容するのに相応しい人物だった。

「顔が下を向いたまま動けなかったんだが、間からそのスニーカーが見えたからな。まさかと思って追いかけてきた。…ビンゴだったよ、なまえ」

名前を呼ばれた瞬間、とうとう目に溜まっていた涙が溢れ出す。何か言わなければと口を開こうとしても、喉からは情けない嗚咽しか出てこない。尽八はそんな私の頭をぽんぽん、と叩きながら、ふ、と小さく笑った。

「隼人に連絡もらったんだ。なまえが今箱学にいるから、…会いたがってるから、すぐに来いってな」

 頭に浮かんだ憎たらしいくらいの隼人の笑顔に、私は白旗を上げざるを得なかった。どうやら私の渾身のポーカーフェイスは通用しなかったらしい。それどころか、私自身見ないようにしていた、心の奥の奥に眠る真実まで見透かされていたようだった。

「ごめん、尽八」

 ぐずぐずと涙声で発したのはそんな言葉で。何に対して謝っているのかなんてよくわからなかった。いや、むしろ何に対してというよりも、ただ謝りたかっただけなのかもしれない。電車から雪崩るように降りた人の波はいつの間にかなくなっていて、ホームにはちらほらと数人の人がいるばかりだった。

「正直、とっくに忘れられてると思ってた」
「…忘れるわけ、ないじゃんばか」
「遠距離だからと理由をつけて、オレを好きなまま別れを告げ、…今でも忘れてないお前のがバカだろう」

頭にぽんぽんと感じていたリズムが止まる。その手はゆっくりと頭から離れて、今度は腰に手を回された。そうしてぐ、と静かに彼の方へ抱き寄せられる。先ほど電車内で感じたような他人の体温ではない心地いい温もりがじんわりと身体中に伝わった。

「まあそれを言ったら、オレも同じか」

 背中に回された手にぎゅ、と力が込められる。言いたいことが色々ありすぎて、頭の中は既にパンク状態だった。それでもまた一言謝罪を言いたくて、嗚咽とともにごめん、と告げようとした唇は彼の同じ場所によって温かく、優しく塞がれた。