「なまえーいるかー?」
「いるよー」
三限終了のチャイムが鳴ってしばらくしたとき。ドアの方から聞こえてきた声にのんびりと返事をする。姿を見ずともわかるその聞き慣れた声が、教室のところどころであがる黄色い声の間をすり抜けて、だんだんとこちらに近づいてくる気配がした。きっとこの窓から目線をそらして振り向けば、あの無駄に整った顔があるんだろうなあとぼんやり考えながら振り向くと、そこには思った通り尽八がいて。彼はその綺麗な顔を申し訳なさそうに歪めながら言った。
「良かった。すまんが日本史の教科書を貸してくれんか」
「いいよ、待ってね」
言いながらごそごそと自分の机の中に手を伸ばす。日本史は今日の一限にあったばかりだから、そんなに下の方には埋まってないはずだ。いや、埋まってるも何も、本来なら禁止されているはずの置き勉をやめれば綺麗さっぱり整理整頓で済む話なのだが。仕方ない、いちいち持ち帰るのはやはり面倒くさいのだ。
上のほうからいくつか教科書を引っ張りだし、表紙を確認する。やがて現れた日本史と書かれたその教科書を引き出して、私ははい、と尽八に手渡した。
「尽八が忘れ物なんて珍しいね」
「うむ。昨日急遽四限の科目が変更になったんだが、うっかりしていてな」
情けないものだ、と彼は口を尖らせる。けれど私にとっては逆に立派だ。忘れるということは、尽八は私みたいに置き勉しないで毎日勉強道具を持ち帰っているということだろう。しっかり者の尽八らしいが、私には到底無理だなと思った。
「ありがとう。すまんが借りるな」
尽八はまた申し訳なさそうに私から教科書を受け取ると、ちらりと時計を見てから廊下へと歩き出した。休み時間があと少しで終わることを気にしたのだろう。そんな彼の背中に、私は思い出したように声を掛けた。
「私今日日本史一限で終わったから、返すの遅くなっても大丈夫だよ!」
すると尽八は振り向きざまにうむ! と笑って、それから相変わらずの存在感を出しながら自身のクラスへと戻っていった。残された私の周りに、なんとなく余韻が残る。それは彼があまりにも目立ち、個性を発揮しているからだろうか。
私と尽八は幼い頃からの幼馴染みだった。家が近くもあり、彼の実家の東堂庵にはよく遊びに行ったものだ。漫画なんかでよくある設定。けれど距離感は昔から全く変わらない。漫画では成長するにつれて苗字呼びになんてのもよく聞くが、そんなことはない。私は彼を尽八と呼ぶし、彼も私をなまえと呼ぶ。それが当たり前、むしろそれ以外に考えられないのだ。
だからといって私は別に尽八が好きだというわけでもない。ただの幼馴染みで気の合う友人。この付かず離れずな関係が一番心地いいと思えたのだ。
2
ぐう、とお腹の音が主張したのは終礼が終わった瞬間だった。周りに聞こえてないかこそこそとあたりを見回したが、どうやら杞憂に終わったらしい。お昼ご飯もちゃんと食べたのに、我儘な自分のお腹に呆れさえ覚えた。何か食べて帰ろうか、そう思った時、近くに新しいお蕎麦屋さんができたことを思い出した。考えたらまたぐう、とお腹が鳴る。どうやら私の身体はすっかりお蕎麦を欲しているらしい。
そうと決まれば、と私は立ち上がり、クラスメイトの友達に一緒に行こうと誘ったが、部活があるからとはっきり断られてしまった。仕方がないから他の子を誘ったが、みんな部活がある、用事があるなどどなんだか予定が合わない。終いには「私うどん派だから」なんて理由で断られて、あまりのうまくいかなさに大きなため息が出た。なんだそれ、うどん派でも蕎麦派でもどっちでもいいだろう。私は新しく出来たお蕎麦屋さんに行きたいだけなのだ。
再び自分の机に座り、ぐだりと項垂れる。いっそのこと一人で行ってしまおうかとも考えたが、さすがに女子高生一人で放課後に制服でお蕎麦屋さんというのは傍からたらなかなか寂しいものがある。というかそれ以前に私自身も寂しすぎる。
「何を考え込んでいるのだ?」
「んひっ」
背後からの突然の声で思わず出た情けない声に、尽八は苦笑いを浮かべながら私に日本史の教科書を差し出した。ご丁寧にありがとうと書かれた付箋まで表紙に貼ってあって、なんだかこちらこそ、と言ってしまいそうになった。
「別に返すの今日中じゃなくてもよかったんだよ?」
「いや、わかってるんだが、やはり長い間人のものを借りているのは気分的に落ち着かないのでな」
そんなものなのかな、なんて私には理解出来ない考えを述べる彼から教科書を受けとる。そこでふと気がついた。そういえば今日、チャリ部は早く終わるって言ってなかったっけ。確か一時間くらいしかないとか、前に尽八が言っていた気がする。これはもう誘うしかないだろう。
「ね、今日部活早く終わるんだよね? あのさ、新しく出来たお蕎麦屋さん行かない?」
「蕎麦屋?」
「うん。前から行きたかったんだけど、どうかな」
さて、どうだろうか。尽八はうーんとしばらく考え込んでから、今日何度目かの表情を浮かばせた。
「行きたいのはやまやまだが、今日は部活が終わったあと、残って部誌を書かねばならんのだよ。すまんね」
「ええーそうなんだ」
残念な返事に私も口を尖らせる。けれどダメなものは仕方がない。誰かほかのヤツを誘うといい、と言う尽八に、もう仲いい人はだいたいあたって断られてるよ、なんて文句を言いそうになった。いや多分口に出ていたとあとて気がついた。
「じゃあ福富くんとか荒北くんとか誘ってみようかなあ」
尽八を通して仲良くなったチャリ部の面々を思い浮かべる。そうだそうしよう。一時間くらいなら待てるし、福富くんと荒北くんと新開くんの三人を誘って、それでもダメだったら勇気を出して一人お蕎麦屋さんをキメよう。そう思ってがたりと椅子から立ち上がる。その時、待て、といやに低い声が響いた。
「やはりオレも蕎麦が食いたいから、部誌書き終わるまで待っててくれないか」
そんな申し出に思わずええ、と非難の声を上げる。尽八とお蕎麦は食べに行きたいが、長い時間待つことまではしたくない。だって私は今、再びここでお腹が鳴りそうなほどお腹が空いているのだ。私お腹空いてるから早く食べたいんだけど。そんな思考を読み取ったのか、それでも尽八はあっけらかんとして言った。
「いいではないか。オレもなるべく早く終わらせるようにするしな!」
「ええー…」
「そもそも最初に誘ったのはお前だぞ」
「わかったよー。じゃあさっさと終わらせてね」
仕方ない、ここはもう少し私のお腹に我慢してもらおう。尽八は嬉しそうに頷くと、じゃあ後でな! と教室を出ていった。部室に向かうのだろう、その楽しげな背中を見ていたら、やっぱりこの選択が一番正しかったんだなと思った。
それにしてもどうやって時間を潰そう。教室には既に私一人きり。暇つぶしのものは携帯くらいしかないし、かと言って寮に帰るのも面倒くさい。もういっそのこと尽八が来るまで寝てようかな。ああ、早くお蕎麦食べに行きたいなあ。
3
いらっしゃいませ、と店主のやけに小気味いい声が店内に響く。すっかり暗くなった空とはお店の引き戸で別れを告げて、私たちは案内された席に座った。お店の中はわりとお客さんがたくさんいて、そこそこ賑わっている。決して広い店内とは言えないが、さすが新しいだけあり、どこも綺麗にしていて雰囲気もある。お冷を持ってきてくれた店員さんも愛想が良くて、ますます味が楽しみになった。筆で書かれたようなお品書きを真剣に眺め、優柔不断を存分に発揮してから数分後、無事に注文を終えてふう、と一息ついた。
「しかしまさかあれからずっと寝ていたとはな」
「だって暇だったしさあ。お腹すいてたし、もう空腹紛らわすにはこれしかないかなって」
「待たせてすまなかったな」
「ほんとだよお腹空いたの通り越しちゃったよ」
「睡眠で空腹紛れたんじゃないのか」
「起きた時の一瞬だけですーもう既にお腹ぺこぺこですー」
「だから悪かったと言っているだろう!」
そんなやりとりを交わし続け、尽八のざる蕎麦と私の冷たいとろろ蕎麦が運ばれてくる頃には、口の中は喋りすぎですっかり乾ききっていた。水を一口飲んでから、二人でいただきますと手をあわせて割り箸を割った。
見るからに美味しそうなお蕎麦をお箸で掬って、めんつゆに絡めてから口の中に放り込む。私は音を立ててお蕎麦を啜ることができないが、尽八は不快感の欠片もないくらい綺麗にお蕎麦を啜っていた。旅館仕込みのその仕草は時々本当に羨ましくなるものだ。それでも口の中に広がるお蕎麦は本当に美味しいとしか言えなかった。そば粉の味がしっかりした手打ちの麺は、なめらかなとろろとマッチしていて思わず笑みが零れる。尽八も気に入ったみたいで、私たちは顔を合わせてにやりと笑った。
私も尽八も、元々食べている時にあまり喋るタイプではないからお互い黙々と食べ続け、数分後、尽八が食べ終わったその少しあとに私も全ての器を空にした。紙ナプキンで口の周りを吹いたあと、なんかさあ、と私は口を開いた。
「小さい頃から一緒にいるからかな。尽八は気遣わなくていいし、なんか安心するね」
すると彼はまた水を一口飲んでから、ほう、と物珍しそうに呟いた。
「珍しく嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
「へっへっへ、美味しいお蕎麦食べてご機嫌なのです」
お蕎麦一つでここまで機嫌が良くなるんだから、我ながらとても単純だと思う。けど仕方ない。そうなってしまうほど本当にお蕎麦が美味しかったのだ。
そうして少しの間その場で喋り続けたあと。あまり長居するのも悪いね、と私が財布を取り出そうと鞄に手をかけた時だった。
「なあなまえ」
そう、それは本当にいつものような流れだった。いつもと同じ声のトーンで名前を呼ばれて、鞄から視線を動かして顔を上げる。視界に映った尽八は本当にいつも通り、綺麗な顔をして笑っていた。
「好きだ」
「…は?」
けれどその口から告げられたのは思わず聞き返してしまうほどいつも通りではない内容で。あからさまに困惑する私に、尽八はまるで小さな子に言い聞かせるようにぴしりと人差し指を立てて言った。
「ああ、ライクじゃないぞ。ラブの方だ」
「えっ、やっ、うん!? な、なんで突然、ていうかなんでこんな場所で…!」
「昔からずっと思ってたのだが、なんとなく今言いたくなった。いいじゃないか、なまえはあまりシチュエーションとか気にしないタイプだろう」
「まあそう、なんだけど、さ…」
あまりの突然の告白に動揺が隠せない。こんなに平然と言うのだから、逆に嘘でも冗談でもないのだろう。どきどきとした心臓の音が自分でも聞こえてしまうくらいうるさく鳴り響く。きっと顔は真っ赤になっているのだろう。
私はコイツのことが好きじゃない。はずだった。そう思っていた。いや、それが当たり前だと思っていたのかもしれない。けれど尽八は違って。そして私はなぜか、こうして告白されて動揺する一方で、飛び上がってしまうくらい喜んでしまっている自分がいた。それは単純に慣れない告白というものをされたという事実だけで出来上がる高揚感じゃない。相手が、尽八だから。
「それで、返事は?」
なんて、尽八はふっと微笑む。なんでコイツはこんなにも余裕ぶっこいて笑うのだろう。見た瞬間にわかるほどの、明らかな自信満々な表情。その自信はどこから出てくるのか。私が気づかなかったらどうするつもりだったのか。それとも、コイツは私が私自身の気持ちに気づく前から全てわかっていたとでもいうのか。
ああもう、悔しいけど私も、昔からずっと尽八のことが大好きたったんだって、ようやく気付いたよ。
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Special Thanks!→望夢