くるりと周りを見渡す。知らない天井どころか、知らない部屋だ。おしゃれなアンティーク家具で固められた部屋は、大体平均的な一人暮らしよりちょっと広めのサイズだろうか。これが昔ながらのフラッシュの脱出ゲームならば、ここから色んなアイテムを駆使して、暗号なんか解いたりして部屋からの脱出を試みるんだけど。ひとまず私は、昨日の記憶を辿ってみることから始めないといけないかもしれない。
ええと、昨日はそうだ。仕事のあと、同僚に誘われて合コンに行った。それで夏目と似てるとは思えない男になんかもやもやして、一人でお店を出て、それから偶然夏目に会ったんだっけ。それで夏目と話して、それから……それから? それからどうしたんだっけ。それからの記憶がまったくない。けれどここまでの記憶が正しいと仮定するならば、私が最後に会ったのは夏目であって、そしてここは恐らく。
はっと思い立って、きょろきょろとスマホを探す。自分は昨日の服のまま、メイクもそのままだ。よく見れば先ほどまで寝ていたベッドのシーツには、ファンデーションっぽい汚れが微かについていた。うわ、やってしまった。
けれどそれはさておき、今はそれどころではない。引き続きスマホを探してみると、部屋の片隅に私のバッグが置いてあることに気づく。恐らくスマホはその中か。シンプルな白いシーツを被った掛け布団をどけてベッドから降りようとしてみれば、再び頭がズキズキと痛みだした。うう、これ二日酔いか。お酒をたくさん飲むことが少ないから、あまり二日酔いを経験したことがなくて、判断が出来ないけど。
のそのそとバッグの元へ行き中身を漁れば、探し求めていたスマホが無事にそこから出てきた。スリープ状態から電源をつけると、ぱっと画面が表示される。良かった、昨日会社で充電したおかげで、電池はまだあと半分くらいあるようだ。
そしてその他に画面に出てきた情報に、やっぱりな、という自分に対しての呆れの感情が芽生える。目に飛び込んできたのはLINEの通知に、逆先夏目という名前。……薄々わかっていた。だってあそこで私の記憶が途切れているということは、私は相当酔っ払って記憶を飛ばしたか、もしくはその場で寝たとしか考えられない。そんな状態で私が無事に一人で家に帰れるはずもなく――いや、そもそもそんな状態の私を夏目が放っておくとは思えない。散々彼のことを意地悪だとか言っている私だが、それでも本当は優しいのを知っているから。
生活感があるとはとても言えないが、それでも人が暮らしているとわかるような部屋。ビジネスホテルなんかじゃもちろんない。これで確信したが、ここはもう間違いなく、夏目の家だ。
恐る恐る、その通知をタップする。もうどんな言葉が書かれていようと、受け入れようと決めた。だって私、すごい迷惑な酔っ払いだっただろうから。……いや、迷惑なのは現在進行形で変わりないけれど。
そして覚悟を決めて開いたその画面。ぱっと表示された夏目からのメッセージは、予想と反するにお小言などは一つも記載されていなかった。
『おはよう。ボクは夜まで帰ってこないから、テーブルの上に置いてある予備の鍵持っていって帰っていいよ。家にあるものは基本使っていいし、シャワーとかは浴びたかったら浴びてってね』
ただ、それだけ。テーブルの上、と部屋の真ん中にある小さなそれを見てみれば、確かにそこには家の鍵と思われるものがぽつんと置いてあった。ただし、「バーカ」という書き置きと共に。
「……はい、バカですすみません」
思わずそんな独り言を言ってしまうのも仕方ない。実際、私はバカなわけだし。どうやってここまで来たのかとかは、あまり考えないようにした。なんかすごく死にたくなるような気がしたから。
とりあえず夏目には『おはよう。そしてごめんなさい。またあとで電話したいから時間あるとき連絡してください』と簡潔にメッセージを送った。というか、予備の鍵持ってっていいとか。……本当にいいのかな。でも実際それがないと私は夏目が帰ってくるまでここにいなければいけないし、そっちの方が迷惑かもしれないし。
スマホを置いて、立ち上がる。相変わらず頭はくらくらしているが、気持ち悪さがないのが唯一の救いだろう。とりあえず飲み物が飲みたくて、食器棚からコップを拝借した。シンクの蛇口に浄水がついていたので、コップにたっぷりと水を入れてゆっくりと飲み干す。……洗い物とか、溜まってないな。一人暮らしの男の人の部屋って、もうちょっと乱雑なイメージあったけど、まあ夏目がそこに当てはまるのも想像出来ないか。しっかりしてるもんね、昔から。
置いてあるスポンジと洗剤を借りて今自分が使ったコップを洗い、洗い上がりの食器を置いて乾かしているスペースにそれを置く。夏目は乾かすタイプか。ちなみにうちは布巾で食器を拭いてすぐにしまうタイプだ。いやまあ、そんなことはどうでもいいんだけど。
いちいち何かを見るたびに色んなことを考えてしまうのは、私が意外にも動揺しているからかもしれない。お酒の失敗なんてものは多分、初めてだし。だからこそ、ここから早く出なければとも思った。思いは、した。けれど、身体中のべたつきに気づかないふりをすることも出来ず。情けなくも私は、LINE上の夏目の言葉に甘えてシャワーを浴びることにした。
脱衣所に行くとまるでこれを使えとでもいうように、バスタオルが一枚、わかりやすいところに置かれていた。あまりの出来る男っぷりに謎の腹立だしさを感じながらも、私は服を脱いでシャワーを浴びる。下着の替えはないけれど、こればっかりは仕方がない。
さっぱりとした身体をふかふかのタオルで包み、先ほどまで着ていた服を再び身に纏う。ここまできたらもう逆に開き直って、ドライヤーまで借りてしまった。そしてすっかり濡れて重たくなったタオルを洗濯機の中に放り込む。部屋に戻ってベッドのシーツをはぎ取り、それも一緒に洗濯機の中に入れると、私はそのまま流れるように洗濯を回し始めた。まるで自分の家のようだが、ここは人の家である。……いや、だってさ、自分が使ったものはせめて綺麗に返さないとじゃん。
洗濯を回している間にせめてでも出来ることを、ということで、大人しく部屋の掃除をすることにした。少しでも自分の罪を軽くしたい、ただの自己満足というか罪滅ぼしではあるが、やらないよりやった方がいいというのは確かだろう。さすがに引き出しの中とかまでは見るつもりないし、目に見えるところだけだったら文句もないはずだ。
部屋の隅にスタンド式の掃除機があったので、それを使って部屋の掃除をしていく。さっきハンディクリーナーも見かけたから、それで細かいところも掃除していこう。自分の部屋はそこまで綺麗に掃除しないのに、人の部屋はきちんとする。そんなもんだよね、昔から学校の掃除はちゃんと綺麗にする人だったし。
隅々まで掃除機をかけてから、棚の上などをハンディクリーナーでぱっぱと掃除していく。さすがに細かいところは埃が溜まっていて、少し安心した。だって夏目って忙しいから、家にいる時間もそんなにないだろうに。もしそんな少ない時間でこんな細かいところまで掃除されていたら、あやうく自分のだらしなさに泣けてくるところだった。
しかし夏目の部屋って、物が少ない訳じゃないのに何故かすっきりしてる。まとまっているというか、なんというか。占いセットとかなんかよくわからない怪しげなものもたくさんあるけど。今更ながら最初に部屋を見渡した時にこれに気づいていれば、すぐに答えに辿り着いただろうな、と思った。しかし、占い関連の物が多数ある中で、アイドル関連のものはなかなか見つからない。いやまあ、アイドル関連の物ってどんな物だって話だけど。占いに比べて明確に物を使うわけじゃないし。けれど私はその何かを探してしまう。何故かって、……私はまだ、「逆先夏目」と「アイドル」を、うまく紐づけられていないからかもしれない。
以前、彼はアニカフェで自分はアイドルだと言った。そしてアイドルというものを愛していることが、ただ聞いているだけの私にも伝わった。あの頃、夏目は占い師になりたいとずっと言っていた。夢ノ咲学院には無理やり入らされると言っていた。そんな彼が、どうしてアイドルになったか。踏み込むつもりはないと、私はもしかしたら自分に言い聞かせていたのかもしれない。いや、もしかしたら一緒にアニカフェに行ったあの時よりも、今の夏目のことを知りたいと、そう思っているのかもしれない。だから、少しの手掛かりが欲しくて。
「……ばからし」
そんな言葉がぽつりと口から零れる。何かを探したって、夏目のことがわかるわけじゃないのに。というか、なんで私は夏目のことがこんなに気になってるんだ。昨日会いたくなったのはあの偽物のせいだとして、いや、でもなんか、何か、おかしいような?
そのとき、ちょうど洗濯が終わったと知らせる音が鳴り響く。それを聞いた途端に頭を現実に引き戻して、掃除も終わった私は洗濯物を干そうと歩き出す。まあいいか、とりあえず、今度機会があれば夏目に聞いてみよう。彼がアイドルになった理由を。
洗い上がったシーツは、付けてしまったファンデーションの汚れも綺麗に落ちていた。そんな洗濯物も干し終わり、いよいよやることがなくなった。料理とか作っておいてもいいけれど、勝手に冷蔵庫開けて材料使うのもどうかと思うし、かといってわざわざ買い物に行ってまた戻ってくる、というのもおかしな話だろう。スマホを見ても先ほどの夏目へのメッセージに既読はついていない。とりあえず誰も見ていないということですっぴんのままだった顔面を工事しようとメイクポーチを取り出す。といっても、化粧直し用の物しか持ってきていないから、そこまできちんとしたものは出来ないけど、まあ最悪眉毛さえ描けば家までは帰れるし。
ぱたぱたと雑にメイクをして、再びスマホを見る。LINEの返事は来ておらず、ただ先ほどより時間が数分進んだだけだ。これはもう、帰るのが一番だろう。
「バーカ」と書かれたその下に「大変申し訳ございませんでした」なんて堅苦しい謝罪文を書いて、それから財布からお札を取り出して鍵と交換するようにそこに置いた。電気代と水道代と、謝罪代等諸々分。友だちだからって、お金のかかった迷惑をそのままにするなんて出来るはずないし。というか、お金くらい置かせてもらわないと私の心が居た堪れない。
電気と、使っていないけど念のため火の元をしっかり確認してから、私は予備の鍵とやらを持って玄関へ向かう。……ていうかこれ、まさかとは思うけど元カノの合鍵だったりしない、よね。一瞬そんな風に邪推してしまって、けれどすぐにその考えを取り払った。何故だかすごく胸の奥が痛くなって、少し、嫌な気分になったから。友だちの元カノに嫉妬するなんて、独占欲強すぎだろ私。こんなこと言ったらさすがの夏目でもドン引きされるだろうな。ちなみに今の彼女だってことは一切考えていない。再開してそんな話をしたことはないけれど、そもそも今彼に彼女なる存在がいれば、私とあんなに二人きりで会ったりしないし、こうやって家に上がらせてくれたりなんてしないだろうし。
……ああでもそうか、もし夏目に彼女がいたら、これからできたら。今までみたいに、二人で会えなくなってしまうのか。それはそれで少し、……ううん、ちょっとかなり寂しい、かも。
「……いや、本当何考えてんだ私」
なんだか考えが変な方向にいってる。そうじゃない、そうじゃなくて、私が今夏目にするべきなのは謝ることなのだ。それ以外のことを考えたって仕方ない。
はあ、と大きく息を吐き出し、よし! と何故か一人で意気込む。キーホルダーも何もついていないただの鍵をしっかりと手に持ち、私は夏目の家を出た。そして外の光をみたその瞬間に、ここがなかなかいいマンションであることがわかった。……そういえば、ここって一体どこなんだろう。いや夏目の家なんだけど。そして以前聞いたことから、あの駅が最寄りだってことも知ってるけど。ひとまずガチャリと施錠してから、スマホを取り出す。頼りになるのは地図アプリ。充電は、たぶん持つ。けど、もちろんモバイルバッテリーなんかないし、ソシャゲ周回はお預けだな、と思った。だってここで充電切らしたら、自他ともに認める方向音痴の私はきっと、自分の家に辿り着けないだろうから。
それより夏目からのメッセージはというと……先ほど見たばかりだから当たり前だが、やはり来ていない。今更ながら、あまりの私の情けなさに絶交されたらどうしよう、なんて小学生じみたことを考えながら、私はゆっくりとエレベーターへと向かった。