広いフロアの中は半分以上、いや、八割九割の電気が消されていて、暗い社内を明るく照らしているのは私たちがいるこの小さな範囲内のみ。嫌気が差すような静寂さの中で、カタカタとキーボードを叩く音だけが鮮明に響く。昼間の明るい時間帯には電話の音や誰かの話し声が喧しいと思うくらいだが、ここまで静かだと少しだけそれらが恋しくなった。
 もう少し、あと少し。この資料を作り始めた時からずっとそう繰り返しているが、こればっかりは本当にあと少しだ。終わる、終わる終わる終わる帰れる! そう思いながら私は、最後にエンターキーを静かに押した。

「終わったあ……」

 思わず口からそんな言葉が漏れ出てしまうが、それも仕方ない。朝から膨大な仕事量に頭を抱え、その後も増えていく仕事に追われ、定時で帰っていく周りの人たちを見たのは一体何時間前か。こんなに残業したのは初めてかもしれない。さすがに終電とまではいかなかったが、いつもならとっくに家に着いてTwitterでも眺めている時間、未だ会社にいる事実にぞっとした。
 スマホを見れば二時間前に夏目から「終わった?」とLINEが来ていた。朝から仕事終わらないやばいって一方的に送ってた分の返信だろう。別に今更わざと返信時間を遅らせる、なんて駆け引きをする気は毛頭ないので、即座に「今やっとおわったよ」とだけ打ち込んで送信する。
 んんーっと思いっきり伸びをすれば、同じく残業仲間である上司が目線をこちらにやった。

「終わったの?」
「お陰様で」
「そうか、気を付けて帰ってね」
「はい」

 お互い淡々とした口調で会話をする。その間も私は帰り支度をする手を止めることはない。当たり前だ、だって早く帰りたい。誰だってこんな遅くまで社内に長時間上司と二人きりでいたくないだろう。むしろここまで頑張ったほうだ。まあもし、相手が上司じゃなくて、例えばそう……と、思い浮かんだのはたった今LINEを送ったばかりの相手で。いかんいかんと慌ててそのイメージを振り払う。誰だ、私をこんな少女漫画の主人公みたいにしている奴は。そんなの、犯人はどう考えてもたった一人しかいないけれど。

 あれから早々に会社を出て、駅へと向かう。こんな時間にも関わず、大通りに面したこの道は、たくさんの建物や走る車の明かりによって煌々と照らされていた。こんな時間まで働いている人が世の中たくさんいるんだなあと思って何だか妙に物悲しくなる。お願いだからみんな早く帰らせてあげて。けれどそのお陰で微妙に駅から遠い会社からの道のりを比較的安心して歩けるんだから、なんとも皮肉なものだ。
 歩きつつバッグの中からイヤホンを手に取り、流れ作業でスマホと接続して音楽を流し始める。先日友達に聴かせてもらったあの曲を自分でも配信で買ってしまったのは、我ながら本当にわかりやすいというか、影響されやすい性格だと思う。ああ私、本当にこんな感じの人間じゃなかったのになあと思うが、元々オタクで妄想が好きという時点で、恋愛脳に発展してしまう素質はあったということか。

 私は一体いつから夏目のことが好きだったのだろう。自分の気持ちに気づいてしまったあのときから、思ってもどうしようもないそんなことをずっと考えていた。
 深海くんと別れたそのあとの私は本当にぽんこつで、何も考えることができなくなっていた。本当は一人でいる間も敷地内でぶらぶらしようかなと思っていたのに、とりあえずベンチに座ってしばらく。そこから動くことも出来ず、なんとか気持ちが落ち着いてきたころに夏目と合流した。それから夜まで遊園地にいたが、私も多分いつも通りに振る舞えたし、夏目も何かに勘づいた様子もなかった。我ながら自分の動揺を隠す演技は主演女優賞モノだと思う。もし合流するまでの時間がもっと短ければ危なかっただろうけれど。それでも楽しいことには変わりなかったし、……私の気持ちが変わることも、いや、勘違いだと思うことも出来なかった。

 イヤホンから夏目の声が流れる。今まで積極的に『Switch』の曲を聴くことはなかったのに、あれからすぐに楽曲を購入してしまった。そして聴くたびに、夏目の声が流れるたびに、無性にどきどきしてしまう。思えばあの時、私にこの曲を聴かせた友達は私よりも先に私の気持ちに気づいていたのかもしれない。そんなこと、恥ずかしすぎて絶対に本人には確かめられないけれど。こんなの、好きになっちゃうんじゃなくて、もう私は好きだったんだなあ、と走る車を眺めながらぼんやりと思う。
 きっかけなんてものはなかったのかもしれない。けれど夏目と再会してしばらくしてから、なんとなく彼に対してもやもやするというか、言葉に言い表せないような感情になるときがあった。そう考えると、中学のあの頃は、私は本当に夏目を友達としてしか見ていなかったのだと思う。

「あれ」

 そんなことを考えていたとき、突如目の前に見慣れない光景が広がる。道いっぱいに通行止めの柵が立てられていて、置いてある立て看板に描かれた工事員のイラストがこちらに向かって深々と謝罪をしていた。所謂、工事中で通行止めというやつである。そういえば、朝ここを通ったときこの看板を見たような。今の時間は工事はしていないようで柵の向こうに人がいる気配はない。が、どちらにせよこの道は通れないということだろう。
 ここを通れないのであれば、駅へ続く道は細い通路の先の裏通りしかない。街灯も多いとは言えないので、昼間ならともかく、夜は積極的には通りたくないような道だ。けれどまあ、こればっかりは仕方ないか。駅までもう少しだし。そう思って、私は裏通りへと歩を進める。先ほどの曲が流れ終わったイヤホンからは、とっくにランダムで別の曲が再生されていた。

 カツカツとヒールの鳴る音が、イヤホンの外から薄っすら聞こえる。どんなにうるさくなってもいいから早く、と私はさらに歩くスピードを速めた。
 誰かに付けられている、と感じたのは、裏通りに入ってすぐのことだった。後ろに感じる人の気配。気のせいじゃなく、間違いなく自分に突き刺さる視線を感じる。どうしよう、どうする? 振り返ることなんてできないし、立ち止まって様子を見るなんていうことも出来ない。恐怖感で心臓がばくばくする。怖い。でも周りに人はいない。駅までもう少し。なら、走り切るしかない!

「あ、ちょっと!」

 走り出した瞬間に、後ろから何か聞こえた。何を言っているのかは聞こえなかったけれど、低かったから多分男の人の声。それだけで恐怖感が一気に増す。だって私が走り出した瞬間に何か言ったってことは、勘違いじゃない。ああ、こんなことならタクシー使っておけばよかった。不用心すぎって前に言われた夏目の言葉、全然響いてないじゃん。懲りてないじゃん、私。
 日ごろの運動不足が祟ってはあはあと息が乱れる。ヒールで走っていることもあって、足がもつれて転びそうになる。それでも駅まで止まるわけにはいかない。もう少し、あと少し。ここを右に曲がれば、もう目の前は駅前だ。だから大丈夫……!

「っ!?」

 少しだけ安堵したその瞬間だ。右手首を、後ろから誰かに掴まれた感触。一気に全身の血の気が引き、息が止まる。振り返りたくない、見たくない。そう思っているのに身体は言うことを聞いてくれなくて、私は恐怖に慄きながらその姿を目の当たりにしてしまった。
 黒いマスクに、キャップを被った若い男の人。そして隣にもう一人。この人はなんかおしゃれな帽子にサングラスをつけている。顔が見えなくて怪しい風貌。けれど私は、何故だかその姿を見てほっと安心してしまった。どうしたって、目の前の彼らに悪意など感じられなかったからだ。

「あ、の」

 それでも恐怖を感じた心はすぐさま落ち着くこともなくて、呼吸を整えつつ声を出したはずが、それもうまく言葉になっていない。が、そんな私の様子を見て、目の前の男の人はんああ! と何やら不思議な声を上げてから慌ててその手を離した。

「ごめんなあ、びっくりしたよなあ。でもおねーさん、急に走り出すんやもん。呼んでもイヤホンしてたから気づかへんし、どないしよと思ったわあ」
「え」

 彼は言いながら眉を下げた。優しい、柔らかい関西弁。そんな声で呼ばれていたのか。そういえば、いつのまにやら曲は聞こえなくなっていると、そこでようやくイヤホンが自分の耳から外れていたことに気づいた。恐らく走っている間に取れてしまったのだろう。首の後ろでコードを回して使うタイプのものなので、どこかで落としたということもなく、イヤホンはぷらんと私の首にぶら下がっていた。完全ワイヤレスじゃないイヤホンで助かった。

「ごちゃごちゃ無駄口を叩いていないで、早く渡すのだよ」
「あ、せやな! はいこれ。おねーさん、ハンカチ落としてたで?」
「え、あれ、ほんとだ!?」

差し出されたのは見覚えのある小花柄のハンカチ。まさかと思ってそれが入っていたはずのバッグの外ポケットを見てみれば、案の定何も入っていなかった。そうか、単純にこの二人は私の落としたハンカチを届けに追いかけてくれたということか。それに気づいた瞬間、一気に身体の力が抜けるのと同時に、ひたすらに申し訳なさが溢れ出てきた。とりあえずハンカチを受け取りつつも、全力で頭を下げる。

「す、すみません逃げたりして……!」
「んああ〜そんな頭なんか下げんといて! でも無事届けられて良かったわぁ。な、お師さん」
「ふん。僕は君がどうしても届けなきゃと言っているからついてきただけだけどね」
「本当にすみません……ありがとうございました」

 謝罪と感謝を述べつつも、推しさん? なかなか聞かない愛称だな、と思わず反応してしまう。人の会話に反応しちゃうのオタクの悪い癖だよね。
 そしてハンカチを渡してくれた男の人があまりにもわたわたするから、この人多分めちゃくちゃ良い人なんだろうなと思う。頭を上げれば、彼がマスクの下でにっこりと笑っているような気がして、私もつられてへらりと笑ってしまった。

「ほななあ、気を付けて帰るんやで〜。あと暗い道ではイヤホン外して歩いた方がええと思うわあ」
「あはは……そうですよね、ありがとうございま、」

 そうして二人と別れようとしたその時。ぱしり、と再び手首を掴まれる感覚。え? と疑問に思うよりも先に視界に映ったのは、関西弁じゃないほうの男の人が先ほどの事象を繰り返しているように私の手首を掴んでいる光景で。推しさん(この意味で合ってるかはわからない)どないしたん? と関西弁の人は相変わらずわたわたしてるし、私も言動には出さないが内心わたわただ。えっと……? とその行動の意味を問うように言葉を投げれば、サングラスの彼ははっとしたようにすまないね、と一言呟いてその手を離した。そうして、彼は少し言いづらそうにしつつもゆっくりと口を開いた。

「……君は、小僧の……」

 小僧? いやそれ誰。そう思うと同時に、関西弁の彼がへ? と可愛らしい声をあげる。

「小僧ってそれ、『Switch』の逆先くんのことやんなぁ?」
「え、夏目?」

 突如出てきた、ここ最近自分の中で何度と繰り返したその名前に、思わず声を上げる。この人たち夏目のこと知ってるの? いや夏目のことはもちろん知ってるだろうけど、そうじゃなくて。そういえば、この人たちなんか見たことあるような、ないような……? うーんわからない。何度も言うが私はそんなに芸能人には詳しくないのだ。さすがに夏目関連で実際に会ったことある人たちは覚えたけどさ。
 サングラスの人は少し考えるように黙ったが、それからしばらくしてその目元にかけたサングラスを静かに外す。現れた竜胆色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。

「……僕は『Valkyrie』の斎宮宗だ。暗かったから遠目では気づかなかったが、ここに来て君の顔を見てようやく気付いたよ。以前、君と小僧がセゾンアヴェニューで一緒にいるところを見てしまってね」
「え、あ、あ〜! 『Valkyrie』! そっか、ESアイドル……!」

 納得した。そりゃあ見たことあるようなないような感じがするわけだ。『Valkyrie』、あまりメディア露出が多くないアイドルユニットだ。噂に聞くとかなり格式高いユニットらしく、ファンの民度が異常に高く訓練されているらしいと聞くが、如何せんテレビに出ないせいでいまいち私の記憶には残っていなかった。
 小僧ってずいぶん乱暴な言い方だけど、わざわざそんなことを名乗ってまで私に言ってくるということは、夏目と仲が良いのだろうか。いや、気にかけているという感じなのかな。この人すごく大人っぽいし、私たちより年上な感じがする。

「というかおねーさん、逆先くんと知り合いなん?」
「あ、えと、中学の時の同級生で……」
「そうなんやぁ。あ、おれ『Valkyrie』の影片みかっちゅーねん。よろしゅうな〜♪」
「え、あ、よろしくです……?」

 マスクをずらして、関西弁の彼……影片くんはにかりと笑う。可愛い。なんでよろしくされたのかはわからないけれど可愛い。もはやアイドルに遭遇することがステータスになっているんじゃないかと思うほど最近の遭遇率がすごいので、驚きも薄くなってしまったが、やはり生身のアイドルはみんな顔が整っているなあ。

「そうか、同級生……」
「お師さんどうしたん? そんな考え込んで」
「いや、……君」
「あ、はい」

 斎宮くんに呼ばれて思わずぴしりと姿勢を正す。なんかすごいオーラがあるなこの人。『Valkyrie』のステージは芸術品というのを聞いたことがあるけれど、それもなんとなくわかる気がする。私服めっちゃオシャレだし。そんな風にごちゃごちゃと考えていることもなんだか見透かされてそうで、私は急いで色んな雑念を取り払った。

「小僧のことを、よろしく頼むよ」
「……へ」
「ほらさっさと行くのだよ影片! 既にタクシーを手配しているからね!」
「えっもう行っちゃうん? 待ってやお師さ〜ん!」

 ……え? 何も理解が出来ないまま、『Valkyrie』の二人はそのまま歩いて行ってしまった。一方で私はぼうっと二人の背中を見送ることしかできなくて。しばらく経ってから、思い出したように私もまた駅へと歩を進める。
 一体、今のは何だったんだろう。よろしくって、ただあれを言うためだけに斎宮くんは名乗ってくれたのかな。夏目、もしかしてそんなに友達少ないのかな……。いやいや大丈夫、だって明星くんも深海くんも友達だったし、大人になれば友達なんて数人いれば十分だし。うんまあよろしくされたし、とことん私は夏目と仲良くする気ではいるけど。……正直、いつまでこの関係でいられるかもわからないよなあ。

「立派な占い師にとって恋愛は特に必要ないって言ってたっけか……」

 昔の記憶がぼんやりと蘇る。まったく、どうしてこう、嫌なことを思い出してしまうのか。

「逆に、ずっと今の関係のままっていうのはあるかもしれないなあ」

 駅が近づいて、周りには人がちらほらと出てくる。駅の発車アナウンスがホームでもないこの場所まで聞こえて、この時間まで飲んでいた酔っ払いたちの笑い声が響く。私の小さな独り言なんて誰にも聞こえない。誰にも、伝えない。
 スマホを見てみれば、仕事が終わったときに返した夏目へのLINEに返事が来ていた。私は先ほどの二人のことを思い出しつつ、『Valkyrieの二人に会ったよ』とだけ打ってメッセージを送信した。