そんな私の今日の現場は映画館である。もちろん『Switch』は関係ない。私が前から推してる俳優が出ている映画の試写会だ。しかも舞台挨拶付き。2.5で舞台メインの俳優が映画に出ることは最近では珍しくない。今までだって推しが映画に出たことはある。ただ、やはりどうしても全国の大きな映画館で上映されるような映画には出演していなかった。が、なんと今回の映画は主演がテレビや映画に出まくっているような人気アイドルで全国上映。推しはその主人公の友達(ただし出番はそんなに多くない)という役回りである。そんな推しにとっての大きな仕事。そして舞台挨拶に推しが出ると言われたら、そりゃあ全力でチケットを取るしかないだろう。
人気アイドルが主演となればもちろんチケットも戦争だったらしいが、なんと奇跡的にお席がご用意された。私の日頃の行いがいいからかな、徳を積んでいて良かった。席位置も映画館の真ん中あたりと良席すぎるくらい良席だ。やっぱり推しが舞台に上がると言っても演技をするわけじゃないし、映画は首が痛くならない適度な位置で観たい。
ずっと前から楽しみしていた今日の舞台挨拶。悲しくも平日開催で定時ダッシュをしても間に合わない時間から上映だったので、ウキウキで会社早退をキメた。うんまあ、前から今日は早退するって言ってあったし大丈夫。明日までの仕事全然終わってないけど、明日頑張ればいいから大丈夫。
推しの姿をこの目に直接入れるというのに、髪を巻き直す時間すらないのが悲しい。最低限化粧は直したが、もしこれで接触イベに行けと言われたら目出し帽でも被ってるんじゃないかな。それ被ってる時点で多分会場入れないし、それどころか職質で警察連れていかれそうだけど。とりあえず今の状態でも人権は保ててるし、会社行くだけの恰好よりは大分マシなのでまあ大丈夫大丈夫、と思いながら現場に行ったら可愛い女の子ばかりでちょっと泣いた。
舞台挨拶は映画の上映後に行われるという。早退したといえど余裕をもった時間という訳では決してないので、席に座る人たちの前をすみません、と謝りながらこそこそと歩いて席に座った。この中の女の子たちの何人が私の推しのファンなんだろう。半数以上が主演アイドルのファンだと思うけど、推しのファンがいたら嬉しいな。いなくても私一人で何十二人何百人分の応援を推しに捧げるけどね。
そんなことを思いながら少し離れた誰もいない舞台と何も映し出されていない大きなスクリーンを見て、ようやくほっと落ち着けた。なんだかんだで仕事の後の予定って気持ちがそわそわと落ち着かないし、ここに来て現場という実感がわいてきたというか、なんというか。ああ、楽しみだなあ。推しの挨拶も楽しみだけど、もちろん映画も楽しみだ。この映画、どうやら原作が少女漫画らしいので、この間満喫で全巻読んだ。巻数がそこまで多くなくて助かったが、その少ない巻数で魅力がかなり伝わってきて、正直めちゃくちゃいい漫画だった。漫画の世界をどういう風に実写に持っていくかは気になるところだし、そういうところで批判が生まれて大コケした作品もたくさんあったが、今回の映画の監督はどの作品もいいものを作っているようだ。原作を大事にしてくれると評判があるので不安はそんなに大きくない。楽しみだなあ、全部。
左隣の席は私と同年代の女の人、右隣は未だ空席で、これから人が来るのかなあ、とぼんやりと思った。
「ちょっと悪ぃな」
そんな声が聞こえたのはちょうどそのときだった。私のいる列の前を申し訳なさそうに通ってこちらに向かってくる人がひとり。帽子にサングラスに……ヒゲも少し生えているし、体格的に男の人だろう。ばりばり恋愛映画の試写会で全体的に女子率が高いのに、男性とは珍しい。もう一人の主演である、相手役の女優さんのファンとかかな。
その人は私の前も通り、そしてすぐ隣の席に腰かけた。私の右隣の人だったのか。だからって別にどうというわけでもないが、初対面の人にすみませんじゃなくて悪ぃなって言ってくるような男の人、微妙に怖いな。ていうかもうその恰好が普通に怖いし。まあ隣の席というだけで話すわけでもないし、何も問題はないけど。
「映画、楽しみだなぁ?」
そう思ったその瞬間、右隣からそんな声が聞こえた。……連れ、いないよね、いなかったよね。独り言? にしては語尾が上がってて、まるで誰かに話しかけているような。そういえば前にもこんなことあった。あの時はゲーセンで、でも周りも男の人がいたから仲間内で話してると思ってて、でも結局あれはトリスタが私に話しかけてて……。うん、間違いない。右隣の人、私に話しかけて来てる。だってめちゃくちゃこっち見てるもん。視線感じるもん。やだなあ、変な人に絡まれた。そう思いつつも無視できないのが悲しい。だって無視して逆上とかされたら怖いじゃん。
「そ、そうですね……」
ちょっと声震えた。言いながら改めて隣の人を見るが、サングラスも帽子も未だ外してなくて怖い。なんで? なんでそんな隠してるの? その微妙に生えたヒゲがより怖さを倍増させてるんだけど。ていうかそのヒゲ似合ってないですよ?
「そんなビビんなくてもいーじゃねぇかよ。ま、確かに俺のこの風貌じゃビビるのも仕方ねーかもしれねーけどよ」
「や、そんなことないッス……」
「めちゃくちゃビビってんじゃねーか。嘘つくの下手だなぁ嬢ちゃん」
いやこの人、喋り方ヤの付く人すぎん? そういえばこの前夏目にこの試写会めちゃいい席で当たったーって報告したら、数日後に何故か「気を付けてね」って連絡がきたんだけど、まさかこのこと読んでた? それわかってたならさすが占い師ってのを通り越して予知だよ予知。
「原作のファンなのか? それとも出演者の誰かのファンか?」
「ど、どうでしょうね……」
「あれ、俺そこまで警戒されるほどかねぇ」
「鏡見てから言ってもらえます?」
言ってからハッとして思わず口元を抑えた。私の馬鹿! なんで急に本音が出てしまったんだ! これじゃ無視して逆上された方がよっぽどマシだった。どうしよう、絶対怒るよねこれ怒ったよね。これから何されるの私。死? 死ぬ? 試写会終わったら表出ろやとかやられる? うわ、無理だ。さようなら私の人生。せめてあの漫画が連載終了するのを見届けたい人生だった……。
と、私が生に別れを告げていれば、予想と反するに、彼はその喋り方に似合わずくつくつと静かに笑いだした。
「あれほど慄いておったのに、突然強気に出るとは。面白い子じゃのう」
「え、……は?」
そして突然のおじいちゃん口調。何、どうしたの? キャラ変? それとも若そうに見えるけど元々おじいちゃんだったの? キャラ作ってたの?
「我輩頑張ってキャラ作ったんじゃけど、やっぱりこの口調が一番落ち着くわい」
「やっぱ作ってたんだ……」
「のう嬢ちゃん。嬢ちゃんにとって『Switch』とはどういうユニットじゃ?」
「……は、え、なんで『Switch』……」
「嬢ちゃんは『Switch』が好きなんじゃろ? なぁに、年寄りの勘じゃよ」
彼は言いながらもまたくつくつと楽しそうに笑う。何、何なんだこの人。年寄りの勘って何、もう意味わかんない。ヤの付く人とかそういう意味じゃなくて、本当の本気でヤバイ人じゃないの。怖い、普通に怖いよ。世間話だとしても答えられない。頼むから早く映画始まってくれ。
私が何も答えないでいると、しばらくして彼はふうむ、と何か考えるように唸り出した。一体次は何を言おうとしているのか。一人で恐れる私に、彼はまた口を開いた。
「なら質問を変えよう。お主にとって、逆先くんとはどういう存在じゃ?」
ピンポイントで出てきたその名前に、私は反射的に彼の顔を見た。にこりと笑った口元。彼はこちらに顔を向けながら、ゆっくりとその目元にあるサングラスを外す。現れた紅蓮の瞳が、ゆらゆらと静かに燃えていた。
知っている。私はその瞳を知っている。だってその瞳を持つ人は、この映画の主演の人気アイドルだから。そうなれば、この独特なおじいちゃん口調も納得がいく。だってあの人はそういう人らしいから。プライベートでもそういう人だって、夏目から聞いたことがあったから。
「……大切、で。特別な存在です。なんだか昔色々あったみたいだけど、今、彼がああしてアイドルと占い師を続けているのが本当に嬉しくて。何が起きても、諦めずに前を向けば輝けるって。自分自身も周りも笑顔になれる、笑顔にしてくれる。……素敵だなあって思います」
どうして主演の人がこんなところにいるかなんてわからない。それでももはやそうだとしか思えなくて。そう感じたら自然と言葉がつらつらと出てきた。そこに恋愛感情というものがあってもなくても、私のこの気持ちは変わらない。皆に優しく魔法をかけてくれるところ。彼のそういうところが、私は昔から大好きだった。
元『五奇人』のひとりである、朔間零。そして夏目にとっての「にいさん」のひとり。よく見ればヒゲだと思っていたそれは妙に人工的で、恐らく変装用にシールでくっつけたものなんだろうなと思った。
「……逆先くんが言ってた知り合いがここにくるという情報、斎宮くんや深海くんから聞いたお主のこと。最初から心配などしておらんかったが、それでも気になってしまうのが老婆心というやつじゃ。けれど、安心したぞ。逆先くんのガールフレンドが、お主で良かった」
「は……はい?」
多分、私にしか聞こえないであろうくらいの声量。それでもこの耳にはしっかりと届いた。今なんて? ガールフレンドって言った? 前にも深海くんにそんなこと言われたけど、もしかして『五奇人』内でガセネタ広まってる? なんで? そうだとしても夏目は何も言ってこないし、たぶん夏目も知らないことなんだろうけど、いやていうか私の知らないとこで人気アイドル達に私の噂されてるって何、どういう世界線の話?
「おお、上映が始まるみたいだぞい」
なんかのほほんと言ってるけど、そもそも何でこの人なんでここにいるの? 私この状態で映画に集中できるのか?
そして約二時間とちょっと後。始まる前はあんなことを思っていた私だったが、始まってしまえばオタク特技の集中力を発揮し、最終的には大号泣していた。最高、青春ラブコメ最高。原作の雰囲気を壊さずにここまで作り上げてくれてありがとう監督。そして映画に関わったすべての人たち。そして推しは相変わらず最高だった。ありがとう……上映されたらたくさん観に行くからね……。
隣に主演がいることも忘れて、劇場にいる人と共に惜しみない拍手を贈れば、舞台袖から司会者の人が出てきた。予定通り、この後は出演者による舞台挨拶だ。もちろん、その中には私の右隣の人も含まれている。いや、どうすんのこれ。
司会の人が出演者や監督を呼んで、袖から続々と人が出てくる。もちろん私の推しも出てくる。あーー今日の衣装いいめちゃ良い。最高。推しはいつ見ても最高だけど。でも会場がかなりざわついている。そうだよね、だって主演がいないんだもんね。いないっていうかここにいるけど。
「さてここでサプライズ! なんと皆さんの中に、主演の朔間零さんが紛れ込んでいます!!」
しかし司会者が勢い良く発したその言葉に、ああそういうことかと納得した。つまり私は相当な豪運だったというわけだ。うん、何となく話が繋がったぞ。
私は夏目にこの席が当たったと伝えていた。そして夏目は朔間くんに知り合いが行くとでもいったのだろう。夏目のことだからわざわざ言わないだろうけど、まあ話の流れとかそんなんで。それで斎宮くんや深海くんから私のことを何となく聞いていた朔間くんが隣が夏目の知り合いである私だと確信し、話しかけてきた。多分、朔間くんが言ったことをすべて事実とするならばそんなとこだろう。それでもどうして私が夏目の彼女と言われているのかは全くわからないが。……本当、悲しくなっちゃうからやめてほしいよなあ。
そんなときにぎゃああ! と悲鳴にも近い歓声が上がる。声の主は私の後ろにいる人だ。サングラスは先ほど外し、上映中から帽子を取っていた朔間くんは、もはや変装と言えるようなものがチープなヒゲしかなかった。上映後にすぐバレなかったのが奇跡的なくらいだが、皆ステージに釘付けだったのだろう。まあそれも当たり前か。
その歓声は次第に広がり、やがて私の周りはもはやみんな叫んでいる状態になった。まさに女子の黄色い歓声ってやつ。どこにマイクが仕込んであったのか。いきなりスイッチが入ってやれやれバレてしまったのう、なんてわざとらしい声。劇場全体にそんな朔間くんの声が響き渡れば、それこそ悲鳴の大合唱となった。
右隣の人がゆっくりと立ち上がり、チープなヒゲをぺりぺりと剥がす。叫び声の中、にこにことその場で手を振る整った顔の彼の姿を見て、やっぱさっきの映画に出てた人なんだなあ、なんて当たり前の感想を今更抱いてしまった。