家に帰って、試着してないけど大丈夫か? と急に不安になった。デザイン的には骨格大事故は起こさなさそうだけど……とわくわく半分、恐る恐る半分で着てみたら、大勝利まではいかないが勝ちに分類される感じだった。でも好きなデザインで着て大事故じゃなければ、ある意味大勝利に収まるだろう。それでもさすがにネットで見たモデルさんのようには着こなせないなあと少し悲しくなる。ダイエットしよ、ともう何度目かになる決意を抱いて、私はワンピースをハンガーにかけておいた。来たるその日への期待を胸に抱きながら。
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楽しみがある日が待ち遠しい、早く来てほしいとはいつも思うが、それまでの日数の流れる体感が早すぎる。あれこの間月初めだったのに、もう中旬になってる? という会話を毎月のように職場で繰り返しているような気がする。それが大人になるということだろうか、なんだか虚しい。小学校の時はたった十〜二十分の休みでも外に出て遊んでいた気もする。あの頃はそれがとても長い時間のように思えてたのだろう。今なんかスマホ触ってたらそんな時間秒で過ぎるのに。そしてこうやって懐古していること自体がもうあの頃には戻れないということを示しているようで、私は大人しく考えるのをやめた。
この間買ったグリーンのワンピース(ちなみに体重は減っていない)、それに合うようなピアス。いつも観劇の時に持っていくバッグと、ヒールの低い靴。アイドルのライブって激しめのアーティストでは御法度な服装も少しならできるからありがたいなと思う。うちわ、ペンライト。忘れ物がないかをしっかりとチェックしてから、私は家を出た。
今日は『Switch』のライブの日だ。大阪と東京だけの二都市ツアーライブで、今日は東京でのライブ最終日。この日のために私は仕事を頑張ってきたし、参戦服としてワンピースも買った。本当はグッズとかあればつけていきたかったんだけど、如何せん『Switch』のライブは初めてだし、そもそも今までちゃんと追おうともしてなかったもんだからグッズなんてあるわけない。だから今日はその分を(主に宙くんに)還元できるようにグッズを買おうと意気込んできた。お陰で開場時間よりかなり早い到着予定だが、それでもTwitterを見る限りかなり人が並んでいるようで、どこの界隈でもオタクはすごいな、と実感した。
タオルやら限定のペンライトも無事に買えて、時間まで一人カフェで時間を潰し、開場から少し経ってから入場する。人は数時間前にグッズを買いに来た時よりだいぶ増えていて、改めて彼らの人気を思い知った。さっきカフェで夏目にがんばれってLINE送ったけど、見てくれたかなあ。まあ見てなくても私はここからパワーを送りますけどね! と自分の席位置が書かれたチケットを見つつ、示されたその場所へとたどり着く。関係者が呼ばれるだろう位置ではない、あくまで一般的なブロック。それもそうだ、これは夏目から招待されてもらったものではなく、私が自分自身でお金を払って勝ち取ったチケットなのだから。
公式よりも一足早くツアー開催のことを本人から聞いた私は、その時点で自分でチケットを取ると覚悟していた。夏目は招待するのニ、と言ってくれたが、それはどうしてもチケットが取れなかった時の最終手段としたかった。だって自分で頑張りたいじゃん、それがオタクの性ってやつでしょ。
周りを見れば同じようにライブグッズを身に纏った女の子たちがたくさんいる。やっぱり十〜二十代が多そうだが、中にはちらほらとお年を召した人や、男性も。みんなを幸せにする魔法使いは、いろんな人に愛されているんだなあとしみじみと感じて、なんだか私が嬉しくなってしまった。
皆みんな、これから始まるライブへ期待に胸を膨らませている。この開演前の空気が大好きだ。ライブではアーティストとファンの一体感が〜なんてよく言われるけど、この開演前にファン同士は無意識にまとまりあおうとしているのかもしれない。だってそうでしょ、差異はもちろんありつつも、根本的に言えば皆『Switch』のことが大好きなんだから。
五分前の開演前アナウンスが流れる。それだけで、もうすぐ始まるんだとどきどきしてしまう。もうスマホの電源を切っとかないとな、とそれを取り出して画面を見ると、未だに夏目とのトーク画面のままだった。しかし最後に私が送ったがんばれの一言に既読の文字がついていて、見てくれたんだ、と安心して、それから少し笑ってしまった。
そしてそれから数時間後。先ほどまでずっと聞いていた歓声や、拍手の音、そして三人の歌声が頭から離れない。どんどんと人が出ていくライブ会場の中で、私はぽつんとその場にたたずんでいた。
休憩なしにライブは無事に駆け抜け、閉幕した。私の感想としては、「最高だった」、それしか言えなかった。『Switch』はテレビで見るのと全然印象が違った。かっこいいしかわいいしっていうのはもちろんそのままだが、なんだろう、やっぱり魔法の演出のせいだろうか。たくさん泣いて、たくさん笑った。そして身体はひどく疲れているはずなのに、何故だかそれを通り越した多幸感でいっぱいだ。これが本当の彼らの魔法というやつだろう。そしてこの魔法は、きっと解けたりしないのだ。私も立派な『Switch』のオタクになってしまったなあ。
「まだ会場に残っているお客様は早めの撤退をお願いしまーす!」
余韻に浸ってぼうっと突っ立っていれば、会場整理のスタッフさんの声が聞こえた。いけない、このままではただの迷惑客になってしまう。余韻は電車の中で味わうことができるし、とりあえずここから出なければ。そうして私はすぐさま手に持ったままだったペンライトやグッズを鞄にしまって、慌てて出口へと足を進めた。
「ねえ君」
そう声をかけられたのは、会場の出口がもうすぐそこに迫った時だった。早歩きをしていた私の背後からそんな声が聞こえて、思わずぴたりと足を止めてしまった。いつもなら今のは私に話しかけたのか? とかなんとか葛藤するところだが、何故だか今回ばかりは今の声が私に向けられたものだと確信してしまった。それが背中感じる視線のせいか、それともひしひしと伝わる存在感のせいかはわからない。ただどうしてもそれを無視することはできなくて、私はほぼ無意識的に振り返ってしまった。
「みょうじなまえちゃんだよね」
そこにいたのはスラっとした細身の男の人。帽子にマスクに、細いフレームのおしゃれな眼鏡。もはや私のとって見慣れすぎたそのスタイルだが、そんなことをしていなくても彼はすぐに存在が周りにバレてしまうんじゃないか。ありえないほどのオーラと存在感。けれど恐ろしくなってしまうくらいのそれに今まで誰も騒がなかったということは、彼は自分の纏うそれらをうまく隠す術を身に着けているのかもしれない。そして多分、人が少なくなった今、それを解放した。……いや違う。多分私に話しかけるためだ。思い上がりじゃない、だってその証拠に、彼は私の名前を知っていたのだから。
「……私に、何か用ですか」
声が震えた。突然のことに脳が追い付いていないのかもしれない。それとも、勝手に恐怖を感じてしまっているか。テレビで見る彼はとても柔らかで、おちゃめさも併せ持った可愛くてかっこいよくて気品のある人だ。恐怖なんて感じる必要は全くないはずなのに、そう思ってしまうのは私が夏目からいろんな話を聞いてしまったせいだろうか。
彼がゆっくりとマスクを外す。あまりにも綺麗な口元が、柔らかく弧を描いた。
「とりあえず一旦外に出ようか。ここにいては邪魔になってしまうからね」
耳からは先ほどと同じ言葉をひたすらに繰り返すスタッフさんの声が聞こえる。ふと周りを見渡せば、未だ会場に残っている人たちは私たち以外にほとんどいなかった。
断る術もなく、二人揃って会場を出る。そしてそこから少し離れた建物の陰にて、彼は足を止めた。彼が私に何の用があるのかは知らないが、立ち話を指定してくるあたりきっと長話にはならないのだろう。
「それで、本当に何なんですか、天祥院さん」
にこにこと笑っている彼にそう言えば、天祥院さんはやだなあ、と少し眉を下げて言った。
「そんなに警戒しないでほしいな。でもその様子だと、逆先くんに僕のことを聞いたんだろうね。大丈夫、別に脅しに来たわけでもないよ。本当にたまたま、君を見かけて話しかけてみただけなんだから」
「その割に不自然に会場に残ってたみたいですけど」
「良いものを観たあとというのは思わず余韻に浸ってしまうものだろう? 特に娯楽というものはその傾向が強く、だからこそ数々の人に影響を与えて様々な思想や行動が生まれる。現に君もそうだったじゃないか」
鳥のさえずりの様な美しい声色が、さらりと耳を撫でる。こんなに綺麗で、一見害のなさそうな人が話に聞いたような悪どいことをしたとは到底思えない。それでも聞いてしまって抱いてしまった気持ちというのは消えることはない。けれど私は直接彼が何かするところを見たわけではないし、語り手が夏目だったため、私は一方的な立場からの話しかわからない。彼が過去に行ったことを責め立てる権利はない。むしろ、一般人としてはアイドルとして彼を愛すくらいの勢いのほうが正しいのだろう。
私はにこにこと笑う天祥院さんに対抗するように、ゆるりと自分の口角を引き上げた。
「それもそうですね。でも初対面なのにいきなり名前を呼ばれたし普通に怖いですよ。なんで私の名前知ってるんですか」
「それは企業秘密というやつだね。僕はES代表だ、所属アイドルのプライベートのことを知っていたって、何もおかしくはないだろう?」
「おかしいと思いますけど」
「心外だなあ」
口ではそう言いながらも、天祥院さんは楽しそうにくすくすと笑う。いまいち何を考えているのかわからない人だ。何にせよ、ESの情報網がおかしいことに変わりはないが。でもESがかなりの力を持ったここ数年は社会全体がアイドルに吞まれがちというか、アイドル社会と化してしまっているから、実際私が信じられないくらいの情報が内部にはあるのかもしれない。そう考えると目の前にいる彼は本当にめちゃくちゃすごい人なんだな。そもそもがお金持ちだし、ボディーガードとかつけてなくて大丈夫なのかな。
「僕は単純に君に聞きたかっただけなんだけど。逆先くんが、本当はどういう子か」
「は……?」
「僕、どうも彼に嫌われていてね。基本的に悪意のある言葉しか吐かれないんだよ。それも仕方のないことだとは思うけれど、僕としては仲良くしたいんだよね」
どの口がそれを言うか、と思わず言いかけた。確かに過去のことかもしれないけど、それを許すか許さないかというのは個人の話だし、夏目がそういう態度をとったところでとやかく言うことはできない。けれどこの男はそれをわかりながらも仲良くしたいとのたまうのか。色んな意味で末恐ろしすぎる人だ。
ごくりと唾を飲み込む。色々な思いが渦巻いて、気づかれないように細く長く息を吐いた。
「あの、本当に用はそれだけなんですか」
そして一言そう言えば、天祥院さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。だってあの天祥院英智が、知人と関係のある人物を見かけたからって、それだけのためにわざわざ時間と労力を使って交流しにいくとはなかなか考えにくい。となると、他に何か考えがあるとしか思えない。
しかし彼はそれからすぐにふふ、と息を漏らして静かに笑い始めた。
「君は僕を悪代官か何かと勘違いしているのかい? お望みなら帯でも回してみようか」
「純粋にそう思ったから聞いただけですよ」
「そう怖い顔をしないでよ。まあ君が僕をどう思おうと関係ないけどね。憎まれ役は慣れているし、君も無理して僕を愛そうとしなくても構わないよ」
その口調は最初から全く変わらない。本当の本当に用はそれだけのようだ。
細められた目の中でエメラルドグリーンの瞳が静かに私を映している。しかし、この人には何でも読まれてしまう。気持ちの通じ合いとかそういうことではなくて、きっと単純に頭がいい。だからその頭の良さで人の思考を読んでしまう。それくらいしないとこのくらいの権力者にはなれないのかもしれないけれど、私の年の差一つでここまでの人間になれるものか。それはきっと彼の努力の結果なのかもしれないけれど、それを目にしていないから、人は能力を持つ誰しもを天才と崇めたくなってしまうのだ。
「君と逆先くんは仲のいい友人関係。それ以上や以下になったところで、別に引き離そうとも考えていないよ。アイドル活動に支障が出るなら、君を無理やり国外に飛ばすことだって可能だけれど、僕の前に五奇人の彼らが見守ってくれているはずだしね。彼らもアイドルだ、いくら可愛い末っ子だからって、本人に害を成す存在だったらとっくに消しているはずだよ。そこにわざわざ僕が介入する必要もないだろう?」
「言い方、物騒だって言われませんか」
「昔からよく言われるよ。けれど弱者が強い言葉を使うならともかく、僕のような立場だとむしろ積極的にそういう物言いをしていったほうが、何事にも有意義に働くからね」
アイドルという大衆に愛されるべき立場であるのに、人に好かれようとする振る舞いを見せないのは、今ここに立っている彼がアイドルの偶像として生まれた天祥院英智ではなく、天祥院英智という人間そのものだからか。それはもはや私をただの一般人とみなしていないのと同義だが、私の立場的にはそれも仕方のないことだろう。そして恐らく、私が外部に余計なことを漏らさないという謎の信頼もあるんだろうな。
しかし本題に入っていないというのに、立ち話にしては随分話し込んでしまった気がする。思わずため息をつきそうになったが、慌ててその気持ちをぐっと堪えた。
「あなたと話していると、本題がわからなくなります」
「それもよく言われるよ」
「でしょうね」
ちょっと夏目と似ている、とか言ったら片方はともかく、もう片方には絶対に怒られそうだけど。でもそうやって難しい言葉を出して長々と話すのは、特に昔の夏目の人との関わり方を思わされる。相手を探るような、そういう素振り。今私と話しているときは全くそんなことはないけれど、たまにテレビでそういうところを見かけると、ああこの人と夏目は関わりが薄いんだなと思うこともあった。
そう思うと、やっぱり私は比較的夏目と近いところにいるんだろうな。ちょっと嬉しい。けれど、私が天祥院さんにわざわざ話すような夏目の話題はない気がする。むしろ、私なんかよりも同じユニットのつむぎくんと宙くんのほうが知っていると思うけど。
「で、さっきの質問の答えですけど。私に聞いたところで、何もわからないと思いますよ。皆さんが知らない夏目を答えられるとするならば、それは過去の話だけでしょうし」
まだ子どもの、お酒も飲めなかった頃を思い出す。今彼と関わりがある中で過去のことを知っているのは私くらいだろうからそこについては自信をもって話せる。けどその部分だけだろう、私が突出して話すようなことは。そんなこと、それこそ天祥院さんはわかりきっていると思うのだけれど。
彼はそんな私の言葉を聞いて、それはそれは楽しそうに、けれどその漂う上品さをそのままにまた笑った。それはまるで、ちいさくて無邪気な子どものように。
「ふふ、かわいいね、君たちは」
「かわ……え?」
その笑顔があまりにも綺麗で、それこそかわいくて見とれてしまいそうになるが、果たして今の会話に「かわいい」と評されるところがあっただろうか。というか、「たち」って。複数形? それって多分私と夏目ってことでしょ。なんでそうなるの。考えれば考えるほど訳が分からなくなってしまって言葉に詰まれば、天祥院さんはにこにこと笑ったまま言ったのだ。
「君しか知らない彼のことがたくさんあると、僕は思うんだけどね」
金色の色の様な細い髪がさらさらと揺れる。それは私を買いかぶりすぎですよとか、そもそもあなたはそこまで私のことを知らないでしょとか、頭の中では色々な文言が飛び交ったが、結局それらを口に出すことはできなくて。
「そんなことないと、思いますけど」
ただ一言呟く。そうだったらいいなと自分で思ってしまうことが、少し怖かった。期待して、勝手に歓喜して、一人で潰れていくのは誰だって恐ろしい。今以上のことを望んでしまうのは、あまりにも強欲だ。それは相手が私だからとかそういうこともあるけれど、そもそも夏目にとって、私の「そういう気持ち」は邪魔でしかないから。
それでも悲劇のヒロインぶるつもりはない。私は私で幸せなのだから。だから本当に、これ以上余計なことを言わないでほしい。
天祥院さんは美しかった。それこそ本当に、儚くて朧気で消えそうな、幻のようだった。