頭が少しだけふわふわする。それでも足取りはお互いにしっかりとしている。いや、もしかしたら夏目は私より酔っていないのかもしれない。私と彼は同じくらいのお酒の強さだと思っていたけど、ほんのちょっとだけあっちの方が強かったりするのかな。まあそれも団栗の背比べで、競ったところで何も変わらないけれど。
 ネオン街とは程遠い、それでも自宅のある方に比べたらお店の明かりがぎらぎらと眩しい。そんな道を歩きながら、私たち二人は二軒目のお店を探していた。いつものようにいつものお店で飲んでいて、この間のライブのことや、愚痴やらなにやらくだらないことも含めて十時くらいまで色々話して。そしていつもならそこで解散って流れになるはずなんだけど、今日は予約が立て込んでいるとのことで、少し早めに追い出されてしまった。お酒に弱い分飲み足りないなとは思わなかったが、話し足りないなと思った。それは私の淡い恋心から直結しているのか、それとも単純にもっと話したいことがあるからか。……まあそんなことはどうでもいいんだけど。
 とにかくそんなことを思ってたら、なんと夏目の方から二軒目の提案をされた。こんなこと初めてだったからちょっとびっくりしたけれど、素直に「私も行きたいと思ってた!」と言葉に出した。という訳であてもなくいいお店はないかとふらふら歩いているところだが、よく考えたらお店選びも普通の感覚だとちょっとまずいよなあ。大衆酒場みたいなところだと、夏目が身バレしちゃうかもしれないし。
 横を歩く夏目をちらりと見る。マスクと帽子に覆われたその横顔で、琥珀色の瞳だけが妙に存在を主張していた。

「ねえ、この辺大きなチェーン店とかばっかだしさ。身バレ考えるなら個人経営の小さなお店とかがいいんじゃない? バーとか」
「ボクもそう思ってたけド、ボクたちあんまりそういうのに詳しくないからネ。調べたってろくに出てくるもんじゃないシ」
「だよねえ。んーちょっと横道入ってみる?」
「えエ、……まァいいヤ。もしかしたら何かいいお店がある可能性も否定できないしネ」

 ちょっと渋ったのは多分、暗めの細道だからだと思う。一人や女友達とだったらさすがに選ばない道だろうけれど、まあ夏目と一緒なら大丈夫だろうと勝手に判断しての提案。夏目もそう思ったのだろう、私たちは普段なら絶対行かないだろう細道に足を踏み入れたのだ。

 少しの違和感に気づいたのは、それからしばらくしてのことだった。大きめの建物、さっきの大通りに比べたらキャッチもいなく、静かだ。ここまではいい。ただ、妙にカップルが多い。むしろ男女二人組しかいないのでは? と思うくらいだ。ギラギラ輝くネオンに照らされた、看板に書かれた文字。休憩、宿泊。私も立派な大人だ、瞬時にその意味を理解してしまった。
 さっきこの道を選んでしまったことを後悔した。嫌でも「そういうこと」を連想させてしまうこの道は、恋人でもない男女二人で来るべきじゃなかった。

「なまえ、ちょっと早歩きできル?」

 そしてそのことに夏目も気づいた、いや、もしかしたらもう少し前から気付いていたのかもしれない。先ほどから少しだけ夏目の歩くスピードが速くなっていた。多分無意識だったのだろう、そのスピードの追いつけず遅れ始めた私に、彼はそう声かけた。私も何も言わずに頷く。が、多少なりともお酒が入っているからか、うまく足を速く進めることができない。夏目、と声をかけようとした途端、ぎゅ、と右手を握られた。誰に、だなんて考えなくても、繋がれた手の主は一人しかいない。

「多分もう少しでこの道抜けるかラ」

 そう言いつつも、夏目はこちらに顔を向けず、真っすぐに進む方向を見ている。確かにこの道を真っすぐ進んだ通りに出れば、この、……ラブホ街ってやつを出れそうだ。そう思ったとき、カッと頭が熱くなった。思春期かよ、私。でもきっとそれはこの繋がれた手のせいでもあって、がっしり掴まれたそこを見てきゅん、と胸の奥が鳴る。別に手を繋ぐのとか、初めてじゃないのに。いや最近はないけど、中学の時とかそういう機会あったし。でも、でも、そういえば再開してからは初めて、かも。わかんないけど、とにかく私が意識しはじめてからは間違いなく初めてだ。だってこんな手を繋がれただけで、少女漫画みたいなドキドキを味わった記憶なんてない。

(夏目の手、おっきいな)

 一見華奢なのに、感じるのは男の子らしいがっしりとした手。私の手と全然違う。
 ああ、本当に私はどうかしてしまったのかもしれない。もう少しで通りを抜ける。そうしたら、夏目は振り向いて私を見るだろうか。だったらそれまでにこのドキドキと、恐らく赤くなっているであろう顔を何とかしなくてはいけない。もしそれが見られたらなんて言い訳をしよう。一気に早歩きしちゃったから息切れしちゃったなんて、そんな運動不足すぎる言い訳通用するだろうか。……いや、通用するかもしれないな。だって私、おうち大好きインドアの社会人オタクだし。

 そこを抜ければ、ちらほらと小さなお店が点在している通りに出た。独特の雰囲気の場所を抜けられた安心感からか、ほんのりと気持ちが落ち着いてくる。そのまま少し歩き続けて、やがて夏目はくるりと振り返った。

「ごめン。あんまり良くない場所だったネ」
「い、いや! そもそも横道入る提案したの私だし! ていうかその、謝らないでよ! な、なんか悪いことしちゃったみたいじゃん! 私たち一応立派な大人なんだからさ!」
「……さすがに動揺しすギ。そんなに嫌だっタ?」
「そ、そうじゃ、なくて、」

 気が動転してしまっているのは私だけなのだろうか。夏目はいつもと全く変わらない素振りでこちらを見る。慣れてんの、かな。私と一緒にいるから気を遣ってくれただけで、ああいう場所自体に、夏目は慣れているのかな。……やだな、こういうこと考えるの。せっかく夏目と一緒にいるのに、もやもやする。さっきまでのドキドキが一気に消えてしまって、心の中で渦巻く毒のガス溜まりみたいになってしまう。
 嫌とかそういうことじゃなくて、でも今私の思っているこの気持ちを全部言葉にすることなんてもちろんできるはずもなくて、何か代用できるものはないかと助けを求めるように目を泳がせる。そしてそのとき目に映ったオシャレな看板を見て、私は半反射的に口を開いた。

「あっなんか良さげなお店じゃない!? 入ってみようよ!」
「エッ、随分急だネ……まあ確かニ、これ以上時間を費やすのは勿体ないシ、良さそうだから入ってみようカ」

 っしゃ誤魔化せた! 良さげなお店があってよかった。というかそもそもそれが目的だし、あそこを通り抜けたにしろお店が見つかったなら万々歳だ。
 小さなお店の窓から、オシャレな明かりが中で煌々としているのが見える。お客さんはほんの数人だけの雰囲気のよさそうなバー。ここなら身バレの心配もないだろう。夏目が入り口の小さなドアを開ければ、ちりんと小さくドアについたベルが鳴った。お店のマスターと思われる店員さんが、こんばんは、と柔らかく声をかけてくれる。咄嗟に目についたお店だったけれどここなら大丈夫そうだ。漫画とかならトラブルに巻き込まれてそうだが、生憎ここは夢も希望もない、それでも平和な現実世界だし。
 横並びで席に着けば、すぐさまマスターが何にします? と聞いてきた。

「グラスワインください。ええと、赤で」
「畏まりました。彼氏さんは?」
「ボクも同じのデ。……あト、この子とはそういうのじゃないでス」
「ああ、そうなんですね、すみません。ウチに来る人、カップルが多いんで。それじゃ、少々お待ちください」

 ……地雷だ。少なくとも、私にとっては。もっと言えば今の私にとっては。さすがに夏目の言葉に傷ついたりしない、だってそれは事実だし。けれど本当に、……ここに来るまでの流れがよくなかった。

「良かったね、いいお店で」
「そうだネ」

 夏目は何とも思ってないんだろうな。何か思っていたとしても、私がここまでいろいろ考えてパニックになっていることなんて知りもしないんだろうな。そう思うとどんどん馬鹿らしくなるが、自分じゃどうしようもできないんだから仕方ない。
 マスターが私たちの前に赤い液体が入ったグラスをふたつ、ことりと置く。色鮮やかなそのワインの香りが、少しだけ鼻に抜けた。
 乾杯、とふたりで小さく呟いて、グラスを重ね合わせる。そのまま一口グラスに口をつければ、赤ワイン独特の風味、そして葡萄を感じさせるような甘さがほんのりと舌に広がった。美味しい。語彙力がなくて何とも言えないけれど、オシャレな味だ。
 雰囲気のいいお店に、優しいマスターに、美味しくてオシャレなお酒。文句を言うところなどひとつもないはずなのに、お互い言葉を発しないのはどうしてか。私は単純に、もう頭が恋愛方面に傾いてしまっているからだけど。
 ……どうしよう、チャンスではある。聞いてみようか、好きな人いるかって。いや聞いたところでどうするわけでもないけど、聞きたくなってしまうというのが乙女心というやつだ。でもそれでいるって言われたらどうしよう、ショックで打ちひしがれそう。いないって言われたら安心できるけど、あまりにもリスクが高すぎないか? どくどくと鼓動が早くなる。聞きたいけど、怖くて聞けない。恋愛の話なんて一切というほどしてきていなかった私たちがそういう話をするのは、多分今しかないのに。

「ねェ」

 そうこう迷っていたとき。突然夏目に話しかけられて、ほんの少しだけびくりと身体を揺らしてしまった。けれどその動揺を悟られないように、あくまで平静を装うようになに? と言葉を返す。すると彼はそノ、と珍しく歯切れを悪くしながら言った。

「彼氏とカ、いたことあるノ」
「……へ」

 聞き取りずらい、小さな声。はっきりと聞こえたはずの言葉だが、思わず耳を疑ってしまった。え、今の私に向けて言ったんだよね。え、え? まさかそういう感じの話題をあっちから振られるとは思わなかったから驚いた。夏目もこういう空気に当てられてしまったのだろうか。
 けれどやっぱり今までばかみたいに気を遣わずに話してきた私と、そういう話題をするのは恥ずかしいのだろう、夏目はこちらを見ずに、不自然に自分のグラスに視線を落としている。
 ……正直に答えるべき、だよね。何かいい答え方があるのかもしれないが、生憎私はそういう知識を持ち合わせてないし。

「え、っと、いたことは、ある。けど、あるって言っていいものかわかんない……。なんとなくで付き合って、好きでもなかったし。すぐ別れちゃった。やっぱ私には二次元しかいないなーって思ったよね」

 自分の恋愛遍歴(遍歴っていうほどのものでもないけど)を話すのがこっぱずかしくて、末尾に照れ隠しのようにいつものノリで言葉を付け足す。まあ実際、別れた時はそう思ってたし。そうとしか、思えなかったし。
 なんだか私も夏目の顔を見れなくて、ちらりと横目で彼の様子を窺う。けれどそれが気づかれることもなく、夏目は相変わらずその視線を下に向けていた。

「……私が言ったんだから夏目も教えてよ。その、……いたの? 今までに彼女」

 でも、あっちから流れを作ってくれたのはありがたいと思った。私が聞きたかったのは好きな人の有無だけれど、ここまできたら似たようなものだ。さっき言動が慣れているように見えたし、どう考えても夏目に彼女がいなかったなんてことないだろうし、そう考えるといたという事実を聞いてショックを受けることも少ないだろう。あれ? もしかしたら好きな人を聞くよりも先にこっちを聞いた方が私のメンタル的にも良いのでは?
 それでも心臓は落ち着いてくれなくて、どきんどきんとしながら彼の返事を待つ。先ほどより少しだけ量の減ったワインが、照明に照らされて不自然なほどに美しく見えた。

「いたヨ。キミと同じで好きでもない人と付き合っテ、すぐに別れタ。まァ当時から仕事は忙しかったシ、特にそういうのを気にしたりはしなかったヨ」
「そ、そうなんだ」

 あまりにも似たり寄ったりの返事がきて、思わず即座に返してしまった。でもそっか、意外にも夏目も私と同じような感じなのか。確かに仕事はめちゃくちゃ忙しそうだし、恋愛なんてしてる暇なさそうだもんなあ。それに、「占いに集中したいからそういうのは必要ない」と言っていた中学の夏目の言葉は、そこにアイドル活動というものがひとつ増えただけで、今も健在らしい。まあわかってたし、いいけどね。別にこの気持ちを伝える気持ちは毛頭ないから。
 うるさいほど鳴っていた心臓が、ようやく少しずつ落ち着いてくる。それに併せてゆっくりと夏目の方を見れば、驚くことに、彼はこちらをじっと見つめていた。予想外にその瞳と目が合い、再び心臓が速く動き出す。だって、てっきりこっちを見ていないと思ったから。

「な、なに」
「……いヤ」
「じゃあなんで私のこと見てたの」
「自意識過剰じゃなイ? ボクは遠くの絵画を見てただけだけド」
「ねえ本当言い方ムカつくから気を付けた方がいいよ」
「安心しテ、他の人の前ではちゃんと繕ってるヨ」
「私の前で繕わなくていいけどせめて気を遣って!?」

 完全にいつものノリになってしまった。何だったんだ今までのそれっぽいドキドキラブストーリー的な流れ。私の高鳴り損ねた心臓の鼓動返してほしい。
 はあ、とひとつため息をつく。いいけどさ、お陰で私たちには似合わない空気が一気に吹っ飛んでいったし。夏目もこっちを見て笑ってるし。こういういつもの感じが楽なのは事実だし、ね。それに、さっきの夏目の言葉。他の人には繕ってるけど、私の前では繕わないってはっきり言った。それはもしかして、私だけが知ってる夏目の部分だったりするのかな、と前に天祥院さんに言われたことを思い出す。いやでも扱い的にはつむぎくんと一緒だし、宙くんの前の夏目だって素ではある。でもひょっとしたら、私の見ているこの夏目は私しか知らないのかも。軽口叩いて笑って、満足したようにまた笑う。それがもしかしたら、なんて。そうやって考えるのは自由じゃないか。
 なんだか楽しくなってきたのはお酒のせいだろうが、そんなことどうでもよかった。単純に今夏目と一緒にいられることが嬉しくなってしまって、ふへへと抑えきれない笑みを浮かべる。思い込みだろうが、それだけでこんな幸せになってしまうのだから、私はだいぶ低燃費だ。

「何笑ってんノ」
「えー? へへ、お酒が美味しくて」
「奇遇だネ、ボクも今そう思ってたとこだヨ」