とても広くて綺麗で、それでいて趣がある露天風呂。タイミングよく入れたせいか周りに人は少なく、まるで貸し切りかと錯覚するくらいだ。私が小さい子どもなら、きっとこのお風呂の中でばかみたいに泳ぎ回っていたことだろう。さすがに今はそんなことしないけど。
ここの露天風呂は雑誌やテレビなど、各メディアにも掲載されたことがあるらしい。それもそうだ、夏目が予約して連れてきてくれたこの旅館は、私が思ってた以上に立派なところだった。それこそ、彼が費用を払ってくれているという事実が改めて申し訳なくなるくらいに。けれどまたそういう話題を出すといい加減しつこいと言われるのが目に見えているので黙っておいた。
ぱちゃぱちゃと音を立てて、手の中で温かいお湯を弄ぶ。家で入るお風呂と違って、なんだか柔らかくてなめらかな手触りのような気がする。これが源泉かけ流しというやつだろうか。そういうことに詳しくないし全く分からないけど、その地域に行った気になれると謳っている入浴剤はどうやったって本物には勝てないんだと思った。
一通りお湯で遊び終わると、今度は外の景色に視線を移す。高い位置にあるこの温泉は、通ってきた温泉街や遠くに見える大きな山まで、とにかく辺りの景色を一望できるようになっていた。さっきまでいた聖地はあの辺かなーと湯気に包まれながらぼんやりと眺める。
楽しかったな、聖地巡礼。ご飯もおいしかったな。これから夕飯だけど、一体どんなものが出るんだろう。きっとなんでも美味しいしなんでも大歓迎だけど、好物が出たら嬉しいなあ。ていうかそろそろお風呂出た方がいいよな、のぼせちゃう。夏目ももう出てるだろうか、先に部屋戻ってそうだな。部屋、……部屋、かあ。
段々ぼんやりとしてきたのは、いつの間にか鼻の下までお湯に浸かっていたせいか。いよいよ本当にのぼせてしまうと思ってゆっくりと立ち上がったが、火照った身体は既に手遅れだと言っているようだった。
お風呂から上がって浴衣を着る。雑に化粧水やら乳液を顔に塗りたくり、また雑に髪の毛をドライヤーで乾かす。その間もやっぱり少し頭がぼうっとして、案の定軽くのぼせたことを感じさせた。
部屋に帰るついでに自販機に寄って水を買う。本当は先ほど売店で見た地域限定の謎サイダーを飲んでみたかったけれど、今この状態で飲んでまずかった場合のダメージが多すぎることを考えてやめた。一瞬コーヒー牛乳かフルーツ牛乳が飲みたいとも思ったが、ここは銭湯ではないことを即座に思い出してそれもやめた。
ごくりごくり、とゆっくりと水を飲みつつ部屋に向かう。水分を摂取したせいか身体は先ほどより幾分かマシだが、それでもまだ少しだるい感じがした。
「あ、やっぱり夏目先に帰ってた」
部屋の前で静かに深呼吸したことは悟られないように。平常心を保ちつつ襖を開ければ、座椅子に座っていた夏目がスマホから視線を上げた。私と同じ浴衣を着た夏目の姿はなんだか少し珍しい。確かESの中でも和風っぽい着物をよく着ているユニットがあったはずだけど、『Switch』はそういうの少ないからなあ。少し襟元を緩めてさらっと着ているの、ちょっとかっこいい。
「随分と長風呂だったネ」
「いやあ温泉気持ちよくってさあ。ちょっとのぼせちゃった」
「……だからちょっと赤くなってるのカ」
「え? そんな顔に出るほど? う〜、しばらく休むか……」
押し入れから座布団を引っ張り出し、雑に床に投げてそのまま倒れ込む。寝転がった瞬間にさっきまであった身体の重だるい感じが少し楽になったから、やっぱり思っていたよりのぼせてしまっていたようだ。まあでもどうせすぐに元気になるだろうし、夕飯の時間まではもう少しあるし。しばらくこのまま寝転がらせてもらおう。
目を瞑ってふう、とひとつ息を吐く。お水が飲みたいけど、さっきのペットボトルテーブルに置いちゃったし、どちらにしろ飲むためには起き上がらなくちゃいけないから面倒だなあ。寝転がったまま楽に飲み物が飲める方法を人類は早く編み出した方がいいと思う。多分風邪の時とかめちゃめちゃ役立つよ。
そんなことを思っていた時、ふわりと前髪が風で揺れた。いや風? なんで? 室内だが? 不思議に思って目を開けて、風が吹いてきた方向へと寝転がったまま顔を向ける。すぐ近く、私の頭の隣。また涼しい風が吹く。優しくて柔らかなそれが、心地よい風量で一定のペースで届く。いつの間に来ていたのだろう、夏目がそこに座って、団扇をこちらに向けて扇いでいた。
「団扇」
「引き出しに入ってタ」
「涼しい」
「そう感じさせるために扇いでいるからネ」
ぱたぱたという音も相まって、火照った身体を冷やしてくれる。その気持ちよさに、思わずうっとりと目を細める。
「優しいなあ、夏目は」
「目の前でのぼせられてるんだかラ、優しいどうこうの話でもないでショ」
「そういう風に思えるんだから、やっぱり優しいよ」
「半分は自分のためだけどネ」
「え、どういうこと?」
「キミがあまりにも熱そうってこト」
「いや暑いよ、のぼせてるんだもん」
「そうだネ」
なんだか微妙に会話がかみ合わないのは気のせいだろうか。いや、そうだとしてもきっとそれは私の頭がいつもより回らなくなっているからだろう。
夏目が先ほどのペットボトルを手に取って渡してくれる。欲していた水分が手元にきたことに感謝しつつゆっくりと上体を起こしてから、そのキャップを緩めた。
「……浴衣、着崩れてるから早く直してネ。どうせ暑いからって緩く着たんだろうけド」
「んええ、別に見えてるわけじゃないしもうちょっといいじゃん。暑いよ」
「すぐ冷えるの目に見えてル。ほラ、後ろ向いとくから」
そう言って後ろを向く夏目は優しいんだか、強引なんだか。別にこれくらい大丈夫じゃないかなあ、と思いながら自分の緩まった襟元をみるが、彼がわざわざそうしてくれているんだから大人しく従うほかないだろう。浴衣といってもあまりに簡単に着脱できるそれの紐をしゅるりと解いて、速やかに綺麗に戻していく。そうして文句もつけられないくらいのにぴしりと着て、もういいよ、とその後ろ姿に声をかけた。
振り返った夏目はただひとつウン、と頷く。ちょっと安心しているように見えたのは、多分それこそ、きっと私の気のせいだろう。
*
そのあとに出てきた待ちに待った夕食は、それはもう豪勢なものだった。なんだかもう「味わった」とか「美味しかった」とか、そういうよく使う言葉の次元では言い表せない。「舌鼓を打った」くらいの表現でようやく及第点というくらいの食事だった。一体何の点が加算されているのか謎だし、自分でも何を言っているかわからないが、とにかく食べている間はひたすらに「美味しい」という言葉を繰り返していた。多分私は食レポできないと思う。
そして旅館の人の勧めで、夕食を食べた後は旅館周りの散歩へ出かけた。どうやらここの散歩コースというのも旅行ガイドで特集されていて、これを目当てに泊まりに来る人もいるらしいから驚きだ。けれど、実際に見てみれば人工物と自然物が綺麗に組み合わさった景色や、和を感じさせる雰囲気が非常に美しくて、それも十分納得できた。
そういう今目に見えているものの話とか、いつもの私のオタク話とか、たまに夏目の話も聞いたりして。本当に会話内容はいつも通りでしかなかったから、多分このときの私は完全に忘れていたんだと思う。
部屋に帰って目に映ったのは、綺麗に並べられた二組の布団だった。
「あ、……旅館の人、並べてくれたんだ。丁寧なサービスだね」
自分でも思った以上に平常の声が出た。想像していたからかもしれない。けれどあんなに緊張していたのにいざその状況になってしまえば、実際大したことがないような気がした。寝るのにはまだ少しだけ早いような気もするが、ぶっちゃけ歩いたし喋ったし、温泉で癒されたにしろ体力的には限界だ。今日の予定としてあとはソシャゲを回すだけにして、寝てしまうことに越したことはないだろう。
そう思っても、夜寝るまでの計画なんてそうそううまくいかないものである。ソシャゲの他にも動画を見たりして、寝る準備を整えて。結局布団に入ったのは、部屋に入ってから二時間後だった。
「電気消す?」
「多分まだ寝ない気がするからつけといテ」
「おっけ〜」
言いながら隣に目をやると、夏目はこちらに背を向けて寝転がっていた。私みたいにスマホいじってるんだろうな。まあ私はもう寝るけど。
おやすみ、と一声かけて目を閉じる。いざ寝ようとしてみると身体が思っている以上にくたくたに疲れていることがわかった。布団に重たい身体がゆっくりと沈み込んでいくような感覚。ああ、これはすぐに眠りにつけそうだ。
……そう思ったはずなのに、どうしてか私は眠れないまま、悶々と頭を悩ませていた。それはたぶん、恐らく、隣で寝転がっている男のせいだ。そもそもなんで私は夏目と一緒の部屋で寝てるんだっけ? いいんだっけこれ、倫理的に、世間的に良いものだっけ? 別に大丈夫だと思っていたのに、実際は眠れないくらい惑わされている私って何なんだ。思春期か? それこそ中学生だったあの頃……いや、あの時同じ状況になったとしていても、私はきっと何も考えずにぐっすりと寝こけていただろう。戻りたい、あの頃に。元気に二次元のことだけ考えて生きていたあの頃に戻りたい。ていうかこれ考えすぎて余計眠れないやつだよね。いや眠ろう。何か不都合があった修学旅行だと思おう。私は学生で、これは単なる修学旅行。だから隣に夏目がいることだって全然おかしくない。
「……ねえ、夏目って好きな人いる?」
けれどどうして突然こんなことを聞いてしまったのか。私は恐らく、この先一生わからないだろう。