はあ、と息を吐いてみれば、口からまるで汽車から出る煙のような白が一気に広がって消えた。間髪入れずにまた同じようにすれば、今見た光景と似たようなものが広がる。周りに人がいないのをいいことに、それを歩きながら何度も何度も繰り返して、へへ、と子どものように笑った。
 冬は好きじゃない。朝はベッドから出られなくなるし、何もやる気がなくなるし、何よりも寒くて筋肉が固まって怪我もしやすくなるし。身体を動かす人にとって冷えは大敵だから、夏よりも冬の方が嫌いな人が多いんじゃないかと思う。勝手な憶測でしかないけど。
 けれどその寒さの中でただただ白い息を楽しんでいるくらいに、今の私は機嫌がいい。レッスン道具がいっぱいに入ったリュックや、右手に持つ買い物袋の重さだって気にならない。ブーツの中の指先は痛いくらいに冷えているけれど、やろうと思えばスキップもできるくらい浮かれていた。
 先ほどまでオレンジ色に染まっていた空が、あっという間に暗く落ちていく。スマホを見ると、画面の時計は十六時半過ぎを示していた。

 今日は泉が初めて私の家に来る。目的はこたつとお鍋だ。語弊があるように聞こえる言い方だが、実際そうなのだ。小さいこたつを買ったんだよ、という話から始まり、なんやかんやでそういう予定が立てられてしまった。
 予定が立った当初はめちゃくちゃ緊張したし、どうしようと意味もなく焦っていたが、部屋を片付けて、こうして当日になってみれば、自然と気持ちは落ち着いていた。
 泉は早くても十八時くらいになるって言ってたっけ。そしたら家に帰ってもう少し部屋の整理する時間あるなあ。昨日のうちにある程度はやっておいたけど、泉のことだ、細かいところで何を言われるかわからない。完全に恋人じゃなく母親や姑が来る時の様な反応になっているが、緊張しないという意味でそっちの方がいいのかもしれない。

 帰宅して手洗いうがいを済ませてから、買ってきたものを片付けるよりも先にこたつの電源を入れた。本当はこのままこたつに入ってしまいたいが、実際そうもいかないので電源を入れるだけに留めておく。そもそも電源を入れたばかりのこたつって結構冷たいし、暖かくなってきたらそれこそ出てこれないしね。
 購入品を冷蔵庫に入れてから、整理しきれなかった細かい部分をそれとなく片していく。泉が来ると決まってから思わず買ってしまった女の子らしい飾りをさらに可愛く並べ直しちゃったりなんかして、この光景をもし自分が外から見ていたら、相当浮かれているなと笑ってしまうくらいだろう。でも仕方ないじゃん、だって一大イベントであることには間違いないんだし。あとはお鍋に入れる具材の下準備をすれば完璧だ。この冬、一人で何回もお鍋をしているから具材を切るのも手慣れたものだ。お鍋っていいよね、楽だし美味しいし。
 すべての準備を終えてから、私は念願のこたつに潜り込んだ。そこはすっかり温まっていて、手足を入れた瞬間に冷えたそれらがじんわりと温まっていく。やっぱりこたつって最高。どうして買ったのかと問われれば、最高だからという答え以外の何物でもない。一人〜二人用だから大きさはかなり小さいけれど、それでも暖かさと満足感は十分だった。

「泉そろそろ来るかなあ」

 ぼんやりと呟いてから時計を見ると、時刻は丁度十八時。駅まで迎えに行くよ、と言ったのに、寒いし住所渡してくれれば一人で行くから待ってて、と断られてしまった。そのときはわかった、なんて了承してしまったけど、今思えばやっぱり行けばよかったなあ。だって駅から私の家まで歩いていく、なんて。……なんかちょっといいじゃん。具体的に何がとかうまく言えないけれど。
 テレビもつけず、時計の秒針だけがカチカチと静かに鳴り響く部屋の中で彼の到着を待つ。思えば付き合ったばかりのときは家に来てもらうなんてとんでもないって感じだったっけ。それで嵐ちゃんの家で皆で番組見たりしたなあ。あれから長い時間が経ったわけじゃないが、ちょっとは余裕できたかな、と思う。だってこうして家で落ち着いていることができているわけだし。
 そう思った瞬間、ぴんぽーんという単調な音が耳を突き抜けた。瞬間、どきりと心臓が高鳴る。はーい、なんて言いながら立ち上がれば、さらに私の中の音は嫌なくらいに大きさを増していって、何が余裕できたかなだばか、と、先ほどまでの自分に心の中で小さく悪態をつく。名残惜しくもこたつの中から足を引き抜いて立ち上がれば、途端に震えるような寒々しさが足元を突き抜けた。
 安いアパートにインターホン用のモニターなんてついてるはずもないので、泉だとわかっていながらも一応覗き穴から外を見る。一人暮らしをした当初はこの癖がついていなくて居留守を決め込めず、やれセールスやらやれ宗教勧誘やらに捕まったものだった。
 覗き穴の向こうには見慣れた姿が立っていて、それだけでなんだか不思議だなと思う。自分の家の前に泉がいるなんて、なんだか変な感じだ。そんな妙なくすぐったさを感じつつ、私はがちゃりと玄関のドアを開けた。

「いらっしゃい」

 あくまでいつも通りにそう言った私は、彼の目にどう映っただろうか。開いたドアの前に立った泉は、それこそいつも通りにお邪魔します、と一言呟いた。

「お肉とか飲み物とか、買ってきてくれてありがとね」
「お邪魔するわけだし、当たり前でしょ。なまえも野菜とかありがと」
「全然。あ、入って入って、寒かったでしょ外」

 泉から買い物袋を受け取って、彼を部屋に招き入れる。袋の中を覗けばやはりというか、案の定鳥のささみとむね肉が入っていた。とりあえず泉をリビング(といってもワンルームだからそんな大きなものでもない)へ通せば、彼は物珍しそうにきょろきょろと私の部屋を見回した。

「ふーん? 結構綺麗にしてんじゃん」
「そりゃあ泉が来るからね」
「まああんたの性格上、めちゃくちゃ汚いってことはさすがにないだろうけど」
「私の汚いの基準と泉の汚いの基準が違うかもしれないからそこはなんとも言えないなあ」

 あははと笑いながら私はキッチンへと戻り、受け取ったお肉と共にさっそくお鍋の準備をし始める。一瞬にして日常と化してしまったこの空間に呑まれて、泉と会うまで感じていたあのドキドキはすっかりなくなっていた。

「手そっちで洗ってね。ユニットバスだけど。ていうか泉ってユニットバスの経験ある?」
「何それどんな質問。当たり前でしょ、遠征でビジホとか使ってるんだから」
「え、泉レベルでもユニットバスのビジホ使うんだ」
「仕事内容にもよるけどねえ」

 なるほど、芸能界のことはよくわからないけれど、そういうもんなんだな。いや私もプロバレリーナだし、一応芸能界の端くれではあるけどさ。
 そんなことを思いながらがさがさと袋からお肉やらお茶やらを出したとき、ふと中身がそれ以外にもあることに気付いた。取り出してみると、レモンサワーと書かれた缶が二つ。それは最近私が微妙にハマって、たまに飲んでいるものだった。

「珍しい、お酒買ってきてくれたの?」

 基本的に彼はあまりアルコールを摂取しない。飲んでもポリフェノール豊富な赤ワインくらいか。お酒に強いわけでも弱いわけでもないらしいが、別に好きでもないし、飲んで身体に良いわけでもないから飲まない。付き合いでたまに飲むくらい。そんな話を以前聞いたことがある。けれど二缶買ってきたってことは私と自分の分だろう。
 ちょうど袋からそれを出したとき、手を洗い終えただろう泉がユニットバスから出てくる。たまにはね、なんて口にした彼だったが、私はそれだけのことがひどく嬉しかった。

「覚えててくれたんだ、私がこれ好きって言ったの」
「まあ、俺も飲んでみたかったし」
「あは、ありがと」

 こういう時、泉が目を合わせないのは照れてるってことだ。最近ちょっとわかってきた。男の人に可愛いなんて言葉を使うのは相応しくないのかもしれないけど、そういうところ、やっぱりちょっと可愛いなと思う。にやにやしながら鶏肉を切っていたら、ごつんと頭を小突かれた。最近、お互いに反応をちゃんとわかってきたと思う。

 泉が来る前に準備していた甲斐あって、お鍋の準備はすぐに終わった。キッチンのガスコンロでぐつぐつ煮込んでから、今日のメインその二ともいえるこたつまで泉がゆっくりとそれを運んでくれた。一方で私はお皿やらポン酢やらの準備をして、同じくこたつへと並べる。そして待ちに待ったその温かいこたつ布団へと久々に足を入れると、先ほど味わったのと同じ暖かさがまたじわじわと広がった。私と向かい合う形で泉もこたつに入ると、すぐさま彼の足が私の足に当たる。二人でも入れると謳っている大きさとはいえ、やっぱりこの大きさは二人で入ると狭い。特に泉は足が長いから、余計そう感じるのかもしれない。

「やっぱちょっと狭いね」
「わかってたことでしょ」
「うん、でもなんか一人で入るよりあったかい気がする」
「……ま、そりゃそうだろうねえ」

 体温というものは偉大だが、多分気持ち的な温かさもある気がする。同意してくれた泉にそういう部分が伝わっているかはわからないけど。
 テーブルの真ん中に置いた鍋の蓋を開けた瞬間に、中で蹲っていた熱気がたくさんの湯気と共に一気に部屋の中に広がる。色んな野菜やお肉の旨味がしみ込んだスープの香りが、お腹を空かせた私の食欲をひどくそそらせた。
 お互い取り分けてから、例のレモンサワーのプルタブを捻る。ぷしゅりと炭酸特有の音を奏でれば、それだけで期待値が高まった。

「じゃあ、えっと、……か、かんぱい?」
「何そのぱっとしない乾杯」
「だって何にも思いつかないから」
「普通にお疲れ様とかでいいでしょ」
「そっか、じゃあ今日もお疲れさまでしたー」

 気の抜けた会話をしてからカツンと缶と缶を合わせる。そのまま一口口に含めば、しゅわしゅわとした炭酸としっかりとしたレモンの酸味が気分を高揚させた。やっぱりこのレモンサワー美味しい。

「あ、本当だ。これ確かに美味しいね」
「でしょ。でも泉って缶のお酒似合わないね」
「それ褒めてるのか貶してるのかわかんないんだけどぉ?」
「褒めてる褒めてる」

 あはは、と小さく笑いを零す。こういういつもと変わらないような会話を私の家で、こたつを囲んでしているのはこれもまた、ちょっとくすぐったい感じだな。
 いただきます、と小さく挨拶をしてから温かいを通り越して熱いそれらをはふはふと口へ運ぶ。鍋の王道ともいえる白菜を嚙み締めればじゅわりとスープが広がり、同時に熱さで生理的な涙が出た。

「あっつ、おいし」
「そんな落ち着きのない食べ方してたら火傷するよ」
「だって本当に美味しいんだもん」

 言いながら、今度はお豆腐を口へ運ぶ。幸せだなあ、こういうの。初めてのお家デートでこたつでお鍋とか色気もへったくれもないけど、季節感を存分に感じられて平和で、心身ともにあたたかいこの感じ。こういうの、好きだなあ。

「にしても、こたつなんて久々に入ったよ。高校生の時以来かも」
「へえ、実家にはあったんだ?」
「いや、学院にね。当時『Knights』のやつらで溜まり場にしてたスタジオがあってねぇ。そこに皆私物持ち込みまくってたんだよ。こたつもその中の一つ」
「よ、よく許されてたねそれ……」
「それでれおくんなんか冬の間ずっとこたつと結婚する〜! って騒いでたっけ」
「言いそう……」

 本当バカだよねえ、とふっと目を細める泉の表情は少し珍しい。そもそもこうやって昔のことを語ってくれることもあまりないけれど、その表情はすごく柔らかなもので、きっと幸せな思い出なんだな、ということがひしひしと伝わってきた。
 それが私はなんだかすごく嬉しくて、同時にそのときの泉を見てみたかったなあという悔しい思いもあって、だから。

「ね、そういう話、他にももっと聞きたいな」

 ちょっとだけ、強請ってみる。そんな私に対して、泉は一瞬驚いたような表情をして見せたが、すぐに戻って、それから少し笑った。

「この俺の思い出話をつまみにするなんて生意気〜」

*

 お鍋を食べ終わって、後片付けをして。それからバレエのDVDを観ようなんてことになって、『ジゼル』というバレエ作品の映像をつけた。『ジゼル』は悲劇の物語だ。一幕で主人公であるジゼルは恋人の裏切りのショックにより亡くなってしまうのだが、二幕では森の中でウィリーという亡霊として登場する。暗い森の中でたくさんの真っ白なウィリーたちが踊り狂う姿は、狂気的でもあり幻想的でもあるのだが、……アルコールが入っている状態で、しかもこたつの中で観るもんじゃないと思う。
 案の定眠気に耐えられなかった私は、情けなくもとテーブルの上に両腕を枕にして突っ伏していた。起きてはいる。起きては、いる。寝たくないし、寝るわけにはいかない。けれど重たくなった瞼は言うことを聞いてくれなくて、するすると引きずりおろされ、視界が暗くなっていく。

「ちょっと、そこで寝たら風邪引くよぉ?」
「ん〜……」

 見かねた泉が口を出してくるが、既にその声も遠い。そんなことわかってるよ、寝ないよ、と言いたいところだが、実際口から出てくるのは言葉にもならない母音の羅列だ。テレビから流れるクラシック音楽が、心地の良い子守歌にしか聞こえない。
 そんな煌びやかな管弦楽器の音に混ざって、はあ、と小さなため息が聞こえた。それと同時に、足元から温もりが消えていく。おかしいな、こたつには入ったままのはずなのに。一種の物悲しさのようなものを感じて、思わずいずみ、と声を上げる。瞬間、ぺしり、と小さく頭をはたかれた。

「ほ〜ら、起きな。俺にあんたをベッドまで運ばせる気〜?」

 どうやら泉がこたつから出て、私の方に回り込んできたらしい。ゆさゆさと身体を揺すられて、んん、ともう一度唸る。やだなあ、寝たいけど、寝たくないけど、眠い。完全な矛盾を抱えながら一応瞼を開けようとしてみるが、びっくりするほど重たい。
 もぞもぞとしつつもやっぱりその場から動かない私を見てだろう、またひとつ泉のため息が聞こえた。うう、ごめんね泉。もうちょっとしたら起きるから……。
 そうして瞼の重みに抗うのをやめようとしたそのとき。さらりと彼の手によって自分の前髪が掻き上げられた。あ、手、あったかい。そう思うのと同時に、ちゅ、とおでこに熱が触れる。あ、ずるい、それ。ちょっとだけ心臓が飛び跳ねて、ゆっくりゆっくり瞼を開けて、上体を起き上がらせる。すると今度は唇に熱が、もうひとつ。……だめだ、こたつのせいで、眠いせいで、泉のせいで。身体も顔もぜんぶぜんぶ、熱くてたまらない。

「……ずるい」
「寝てるのが悪いんでしょ」

 当然のように言いのける泉と、うまく言葉を発せないわたし。この状況に相変わらず流れっぱなしのクラシック音楽はひどく不釣り合いだ。

「で、どうする? このまま寝るの?」
「……寝れるわけ、ないじゃん」

 熱くて、甘くて、悔しくて、私はキッと泉を睨みつける。泉はふふん、と挑発的に笑って、もう一度近づいてきた。私の視界は、いっぱいに覆われた。