ソースや醤油など、味の濃い匂いで口の中に唾液が溜まる。しかし数歩歩けば砂糖の甘い匂いが鼻いっぱいに広がって、今度はそれだけでこれから口にするものを思い浮かべて胸が躍る。
 お祭りといえど、浴衣の人が少ないのは今この時期が真夏というには涼しすぎるからだろう。私たちを含め、行き交う人々は大抵みんな薄手の長袖を羽織っている。九月の夜というのは、思った以上に寒くなるものなのだ。それに加えてこのお祭りには夏の風物詩である花火がない。わざわざ出店のためだけに浴衣を着て、髪の毛をアレンジして、と面倒な工程を踏む人も少なくなるのも頷ける。
 それでもこのお祭りは、元々花火があったものだった。それが度重なる雨で延期し続け、とうとう出店だけでこの夏も過ぎたころに開催されることになってしまったというわけ。

「あーあ、夏目と海行きたかったな〜」
「絶対ヤダ」
「じゃあプール」
「もっとヤダ」
「だって夏デートしたかったんだもん」
「今してル」

 横目でこちらを見る彼の意見は正論でしかないが、そもそも私だってまともに言い合うつもりもないからそうだね〜と適当に返す。
 夏目が今でも泳げないと知ったのは、つい最近のことだった。それを聞いてすぐ海かプールに行く提案をしたものの、海は時期的にもう寒く、シーズンも終わりかけで海の家もやってない。プールも近くには屋外のものしかなくて、近々今シーズンは営業終了。絶対水場は嫌だという夏目は梃子でも動かなくて、結局私の「夏目と一緒に海かプールに行く」という夢は儚く消えた。くそ、来年こそは絶対に行ってやる。
 けれどこのお祭りも元々の日程では夏目のスケジュール的に行けなかったものだったし、正直会場に来たばかりの今でも既にめちゃくちゃ楽しい。

「さっ夏目、何食べる!?」
「食べること前提なんダ」
「いやまあね、うん。とりあえずぐるっと一周しよ!」
「ボクから揚げ食べたイ」
「夏目だって食べること考えてんじゃーん」
「キミが聞いてきたんでショ」

 屁理屈だー! とまるで思春期の子どもみたいにけたけたと笑えば、うるさいナァ、といつも通り気だるげな返事。私たちの日常。浮き足立って隣を歩く彼を追い越してホップステップと前に飛び跳ねてみる。数歩先を行ったところで立ち止まり、はやく行こうよ、と振り向いた。零れてしまう笑顔をそのままにしていたら、すぐさま夏目が追いついてきて、私の左手を取る。迷子防止、と言われてぎゅう、と握られた温かい手の感触がうれしくて、やっぱりにやけを抑えることはできなかった。

 それからふたりでシェアを基本に、焼きそばを食べて、から揚げを食べて、チョコバナナを食べて、大好きなキュウリの一本漬けも食べた。好みが渋いかもしれないけどおいしいんだから仕方ない。これじゃ食べ歩きツアーだネと言われたけど、だってやりたかったスーパーボールすくいがなかったんだもん。金魚はすくったところで飼えないし。
 そうしたら射的をやろうってことになって、私も夏目もやったことがないくせに、じゃあたくさん景品取った方が次食べる冷やしパインおごり! と、いかにもな勝負をしてみた。結果は引き分け。ゼロ対ゼロ。初心者の私たちはひとつも景品なんか取ることが出来ず、屋台のおじさんに残念だったね〜と笑われながら参加賞のクリームサンドビスケットをもらった。

 結局ほとんどが食べ歩きだったと思う。大人になってしまえば、ヨーヨーだって水に流れるきらきらしたおもちゃも、家に帰ればがらくたになってしまうんだから仕方がない。滞在時間もそこそこに、私たちは駅までの道のりを歩く。

「ね、ラムネひとくちちょーだい」
「ン」

 私はいいやと夏目しか買わなかったラムネがやっぱり少し欲しくなった。ねだってみれば、彼は短い一言と一緒にそれを手渡してくれる。ありがとーとお礼を言ってから、その冷たいビンの口にキスをする。しゅわしゅわと甘い炭酸が口に広がって、ごくりと喉に流し込めばその冷たさが食道まで響くような感じがした。おいしーと言いながらビンを返すと、夏目もそのままそれを一口飲む。中に入っているビー玉が、それに合わせてビンの中でゆっくりと上下した。

「二次創作みたい」
「……一応聞くけどどういう意味?」
「え、わかってよ」
「いや言いたいことはなんとなくわかるけド。あのサ、今更間接キスでドキドキでもしタ?」
「ごめんだけど全くしてない」
「したって言えば可愛いのにネ」
「チョコバナナでも焼きそばでもパインでもやった後に言われても」

 むしろそんなのあの頃から何度も繰り返しやってきたじゃん。それでドキドキしたなんて言ったら逆にビビるでしょ、いい大人が。絶対そっちのが夏目反応に困るじゃん。あ、ならわざとそう言ってみた方が良かったのか。いや、でも夏目がそんな私のバレバレの嘘に騙されるわけないか。
 そんなことを思いながらバッグの中に手をつっこみ、がさがさと感触だけで目的のものを取り出す。先ほど射的の参加賞でもらった小さな袋を開けると、中にはさらに小さなビスケットが四枚入っていた。昔これよく食べたなあ。
 ん、と短い言葉でひとつそれを隣に手渡せば、どうモ、とあちらも短くお礼を言ってくる。私も一つ食べると、懐かしい優しい甘みがすっかりチープになった口の中を癒してくれた。

「久々に食べるとおいしいねこれ」

 思えば駄菓子なんて最近すっかり食べなくなったものだ。子どもの頃は小銭を握りしめて駄菓子屋に〜なんて年でもないが、少ないお小遣いを握りしめてコンビニに行ったっけ。よく漫画で見る、老夫婦が経営している小さな駄菓子屋さんは今でも憧れるなあ。コンビニの駄菓子コーナーもいいけれど、やっぱりたくさんの駄菓子を目の前にしたときのワクワク感ってすごいんだよね、商業施設に入ってる、それこそ昔の駄菓子屋さんを再現したようなチェーン店でさえもめちゃくちゃテンションあがっちゃうんだから。ああ、そんなこと思ってたら駄菓子食べたくなってきた。
 ちょうどそんなときに遠くに見えてきたコンビニの明かりは、私の気持ちをすべて読んでいたかのように眩しく光っている。スマホで時刻を確認すれば、デジタル時計は二十一時少し前を表示していた。

「ね、夏目。もうちょっと付き合ってよ」

*

 私たちはなんだか夜、二人でベンチに座る機会が多い気がする。気のせいなのかどうなのかわからないけれど、いつかの合コンの帰りに酔っぱらってた時もベンチに座って話したっけ。あの後色々あったことで、色んな意味で思い出深い、のかもしれない。
 夜の公園は昼間と雰囲気が一転しひどく静かで、見方を変えれば少し不気味だ。一人だったらあんまり近づきたくない。そんな中でどっかりと座った私たちの間に、カシャカシャと音の主張が激しいビニール袋を置く。その中から買ったばかりの缶チューハイをひとつ取り出して彼に渡し、私も自分で選んだそれをひとつ手に取ってプルタブを開ける。ぷしゅりと小気味いい音をたてたそれは、一応「大人の飲み物」という枠ではあるけれど、実際入ってるアルコール分なんて三パーセントのジュースみたいなものだ。お酒飲みたてのまだキラキラしていたころはこれでも少し酔っていたけれど、もうそれもすっかり昔になってしまった気がした。

「お酒に駄菓子とカ、なんか背徳的」
「ちぐはぐで可愛いでしょ」
「路上飲みと可愛いって言葉は多分一生相容れないヨ」

 袋の中を覗きこむ夏目はウワア、と口では言いつつも、なんだか少し楽しそうだ。それもそのはず、お互いコンビニのお菓子コーナーでしゃがみ込んで、一番下の段に置いてある高くて百円ほどの駄菓子を吟味したくらいだし。それでも結局選べなくて、買いたいものをすべてぽいぽいとカゴに詰め込んでいってしまった結果、袋の中は小さな駄菓子で埋め尽くされていた。駄菓子の大人買いってやつ。子どもの頃の私が見たら飛んで跳ねて喜んでいただろうなあ。
 どうしてこんなことをしているかって、そりゃあ駄菓子が食べたくなったからだ。それと、なんだか少し帰るのがもったいなかった。浴衣なんて着ていないし、夏目が持っていたラムネの瓶もコンビニのごみ箱に捨ててきてしまった。お祭りに行ってきた形跡は欠片もないけれど、それでも、もう少しこの感じを味わいたいな、なんて。

「なにたべる?」
「ソースカツのヤツ」
「え、それ私も食べようと思ってた」
「最初から二個買えばよかったじゃン」
「いいやじゃあフルーツ餅食べる」
「ほら半分あげるかラ」
「ならフルーツ餅ひとつぶあげる」
「全然見合ってなイ」

 開けたばかりでまだ口もつけていない薄っぺらいソースカツを目の前に出されて、そのままかじりつく。これ完全に一口しか食べれないやつじゃん。半分くれるならそれごと渡してくれないとなんだけど。まあ一口で懐かしのソースの香りと全くカツじゃない油っぽい感じにわりと満足してしまったから別にいいんだけど。私もひとつぶフルーツ餅をつまようじで刺して夏目の前に突き出す。大人の私たちが食べるにはあまりにも小さすぎるそれは、ぱく、とあっという間に彼の口の中に飲み込まれた。

「これこんな味だったッケ」
「思った、でもおいしい」

 私もそのままひとつぶたべてみると、今度は甘ったるい砂糖といちごの香料の味。人工物でしかないのに、駄菓子の味というのはどうしてこんなに癖になるんだろう。
 なんだか口の中が甘ったるくなってきたので、お祭りに行った時からずっと入れっぱなしにいていたペットボトルの緑茶をバッグから取り出す。何時間も連れまわされたそれはすっかりぬるくなっていたけれど、甘さで重たくなった口の中をリセットするには何の問題もなかった。

「ボクらはフィクションの登場人物にはなれないネ」

 ふと、夏目が呟く。なんの話だと一瞬思考を巡らせたが、既にああ、と合点がいった。さっきの二次創作みたいという話か。私はオタクだからすぐ二次創作とか言ってしまうけど、意味合い的には一次創作である漫画やドラマといったフィクションと変わらないもんね。
 フルーツ餅をひとつぶじゃ飽き足らず、ふたつぶ一気にまとめてつまようじに刺してたべる。缶チューハイを飲む夏目の横顔が、街灯に照らされて少し青白く見える。たぶん彼から見た私も、同じように見えているんだろう。

「アイドルと一般人。設定的には百点満点なのにね」
「ボクたちを主人公にするにはロマンティックさが足りなさすぎるヨ」
「わかる。多分主人公たちはこんなところで酒飲んで駄菓子食べない」
「現実的」
「日常」
「泥臭イ」
「青春もとうに過ぎて」
「毎日毎日仕事に追われテ」
「うん、ぜんぜん、まったくキレイじゃない」

 ベンチにだらしなく散らばった駄菓子、ビニール袋に乱雑にしまわれたゴミ、やっすい甘い缶チューハイ。どれもこれもリアルでしかなくて、うつくしさなんて見出せない。

「でも、私は好き」
「だからこそ、ボクは好き」

 瞬間、思わずふたりで顔を見合わせる。とろけるようなやさしい夏目の魔法の声がぴったりと私と重なって、なんだか聞いたことのないくらい不思議な調和になってしまった。それがなんだか無性におかしくておかしくて、私たちはお腹をかかえてけたけたと笑ってしまった。
 花火の音も祭囃子も何もない、社会人ふたりの「あたりまえ」。たぶんそれはフィクションなんかにはならずに、これからもずっと、かけがえのないリアルとして続いていくのだ。