どうしよう、おれ、もしかしたら今物凄くピンチなのかもしれない。いや、ピンチというのは少し違うか。別におれに、おれたちに危機が迫っているわけではない。じゃあ何だと言われて代わりに出てくる答えは……わかんない。でも今の状況を他の何かにたとえて言うなら、……偶然同じ電車で大先輩のグループと乗り合わせしちゃった、とかそんな感じだ。
「それはほぼ今の状況と同じだから例えにはならないんじゃないかい?」
「うるさいなァ! てかヒロくん勝手に人の心読まないでよね!?」
「人の心を読めたなら苦労しないよ。というか、藍良は口に出して言ってたから僕に対しての言葉だと思ったんだけど」
「えっおれ口に出してた!?」
平然と言うヒロくんに愕然とする。やばい、おれ相当焦ってるのかも。自分の心の声が口から出てるって相当やばいよォ。そして今更ながらにさっきの自分の言葉が思ったより大きかったことに気付いてしまった。慌てて観葉植物を挟んでここから少し離れたテーブルに座る彼らを見る。……良かった、どうやら気づかれてないみたい。ああ、どうして変なところでおれの運が発揮されてしまうのかなァ。せめてヒロくんと一緒じゃないときが良かったよ。
「ところで藍良、一つ聞いてもいいかい?」
「何ヒロくん」
「どうして僕たちは逆先先輩から隠れるようにコソコソしているんだい?」
そう言って、ヒロくんはオレンジジュースをちう、と飲んだ。一方でおれはその言葉にガクッと崩れ落ちてしまう。まあそうだよね、いくら都会に馴染んできたヒロくんでも、こういうことは今まで関わってこなかったもん、わかるはずがないか。逆にもしおれと一緒じゃないときにヒロくんがこの状況に出くわしてたら、何も考えずに突撃してたかもしれない。考えただけでも恐ろしいよォ……。
だからこそ今ここにおれがいるのは不幸中の幸いなのかもしれない。おれはもう一度先輩と、そして同じテーブルに座る女の人を見る。未だこちらに気付く気配はない。おれははあ、とひとつため息をつくと、改めて目の前のヒロくんに向き直った。
「……あのねえヒロくん。おれたちは先輩たちと一緒にこのカフェに来たわけじゃなくて、ただ偶然、ここで先輩を発見しちゃっただけなの」
「もちろんわかっているよ。でも知り合いに会って、しかもそれが先輩だというなら尚更挨拶をしに行くべきじゃないのかい?」
「それは現場での話でしょ!? あのねェヒロくん、空気を読まなきゃいけないのこういうときは! どう考えてもそういう状況じゃないでしょ!」
「うーん、やっぱりわからないよ。逆先先輩が女の人と一緒に話しているだけだと思うんだけど」
「だからそれが問題なんだって!」
やっぱりヒロくんと話すのすっごく疲れる! この野生児になんて説明すればいいのかなあ、やっぱ直接的に言うしかないか。おれも一旦自分を落ち着かせようと、アイスミルクティーを一口飲む。少しガムシロップを入れすぎた余計な甘みが、口の中にぬるく広がった。
「どう考えても恋人同士のデートでしょ、アレ」
そして無駄にからからとストローで氷をかき混ぜながら呟く。お行儀が悪いと親には怒られそうだけど、そうでもしないと気を紛らわせることが出来ない。いや、そうしたところでおれのこの複雑な心境が変わるわけもないけど。
「逆先先輩のそういう噂聞いたことなくはなかったけど、まさか本当だったなんて……。どうしよう、こんなのスキャンダルモノだよォ。あ〜彼女さんの顔ちゃんと見たい! どんな話してるか聞きたい!」
ああ〜! と思わず出そうになる大きな声をぐっと堪えて、わざと声を低くくぐもらせる。同室の朔間先輩と天祥院先輩がそれっぽい話をしているのをちらっと聞いたことがあったけど、どうせまた先輩たちが後輩である逆先先輩をからかって遊んでるだけだろうと思ってた。どうしよう、こんなのアイドルオタクである血が疼く。おれだってもう立派なアイドルだし、こうしてヒロくんと変装しなければ街を歩けないくらいにはなったけど、それでもやっぱり好きなものは好きだ。逆先先輩はおれの尊敬しているアイドルのうちのひとりではあるけれど、おれは『Switch』の逆先夏目、というアイドルがそもそも好きなわけで。だから不謹慎かもしれないけれど、そういうスキャンダル的なやつが気になってしまうのだ。
「藍良、藍良」
「何ヒロくん! 今おれ必死になって欲望と戦ってるんだけど!?」
「そうなのかもしれないけど、逆先先輩たち、もう店を出るみたいだよ」
「エッウソ!?」
ヒロくんの声にすぐさま先輩たちの席の方を見ると、確かに二人は荷物をまとめて席から立ち上がろうとしていた。いや、でもそれが何だというんだ。おれたちはおれたちで収録帰りにここにお茶しに来ただけだし、先輩たちがどこへ行こうと関係ない。ただの後輩であるおれが先輩のプライベートに介入し、嗅ぎまわるような真似をするなんてのもありえない。ありえない、とわかってるけど。
「ッヒロくん! おれたちも行くよ!」
気が付いたときにはそう口に出していた。まだおれのミルクティーも、ヒロくんのオレンジジュースも半分以上残っていたけれど未練はなかった。よくないことだとわかっている。アイドルのおれがやめとけよと警鐘を鳴らしている。でもオタクのおれは抑えられなかった。ごめんなさい神様仏様! おれがただの一般オタクじゃないことを理由に許してください! 迷惑かけないようにするから!
突然立ち上がったおれに驚きつつ、待ってくれ藍良! と叫ぶヒロくんは本当に声量を落とす練習をした方がいいと思う。でもさすがに飲みかけのオレンジジュースは申し訳なくって、おれが支払わせてもらった。
でもよく考えたら、ヒロくんはついてこなくて良かったと思う。むしろついてこなかった方が色々スムーズにうまくいって、焦りも生まれなかったんじゃないか。
結局おれたちは、こそこそと逆先先輩とその彼女のことを尾行し続けていた。あのカフェを出て、ゲーセンに行って、それからおれもよく来るショッピングモールへと足を運んだ。男女がこうして色んなところを巡るのは傍からみたらデートでしかないけれど、けれどあのふたりは恋人特有の甘い雰囲気にはならない。むしろ、
「このサングラスかけてみなヨ、絶対似合わないかラ」
「ムカつくけどわかる私もそれ絶対似合わない自信ある。お笑い芸人になる自信ある。でもそれ似合う人のが少ないからね絶対」
「どウ?」
「あのねえイケメンは論外なんですよ! 何着てもつけても似合うから!!」
……むしろ、恋人がこんな会話をするかな。いや、長年付き合ってるとか、熟年夫婦とかだったら十分考えられる。けどあの抗争時代を生きた逆先先輩が、夢ノ咲時代以前に彼女がいたとは考えにくい。じゃあ結局あのふたりはただの友達なんだろうか。悶々と頭を抱えていると、少し声の大きさを学んだヒロくんがフム、と口を開いた。
「藍良はあの二人を恋人同士だと言ったね。けど本当にそうなのかな? 僕にはよくわからないけれど、愛し合っている二人というのはこういうものなのかい?」
「おれに聞かないでよォ……。ちょうどおれも今わかんなくなってきたところなんだから」
もしかしたらおれの早とちり、勘違いだったのかもしれない。そうだよ、普通に異性の友達というのだって十分あり得るじゃないか。二人でいるから恋人同士と決めつけるのは、あまりにも行き過ぎた考えだったのかも。
もう帰ろう。そもそも先輩を尾行するなんてよくないし、なんだかんだ言いながらもヒロくんをここまで付き合わせてしまった。ごめんねヒロくん、と謝りながら彼の方へと向き直ったとき、藍良、とまたヒロくんがおれを呼んだ。その視線は恐らく未だあのふたりを追っているようで。けれどもういいよ、と言いかけたおれの口は、次のヒロくんの言葉ですっかり固まってしまうことになる。
「あの二人、藍良がよく行くアイドルショップに入っていったよ」
……はあ? ……はあ!? 慌てて向き直ると、確かにそこにはおれの大好きな行きつけのアイドルショップ(と言っても最近は忙しくてご無沙汰だけど)に入っていく二人。先輩が自分のグッズも置いてあるだろうそこに自らの意志で赴くとは考えにくいし、となると女の人はアイドルファン? まさか、まさか先輩はファンに手を出して……!? いや、逆先先輩に限ってそれはあり得ない。おれの見解だけで判断すると、そういう人じゃない……と思う。じゃああと考えられるのは、敵情視察とか。いや、わざわざアイドルショップでグッズを見てまでそんなことはしないだろう。そうなると多分、一番考えられるのは気まぐれ、もしくは今まで聞いてきた会話から考えると、友達である先輩のグッズを女の人が冷やかす目的、とか。それって趣味が悪すぎない? いや、でもそういう関係もありなのかな。ああもうおれには訳がわからないよォ!
でもこんなことを考えてたって何も得られないし、多分真実にはたどり着けない。ついさっきまでもうやめようと思ってたのに、おれってばまたあの二人の様子を見たくなっちゃってる。何だかもうどうしたらいいのかわからなくなってしまって、じゃあ何も役に立たないだろうけどちょっと意見をもらおうかな、という気になって。隣のヒロくんに声を掛けようとした。が、
「……あれ?」
つい数秒までおれの隣にいたはずの赤頭は、すっかりどこかへいなくなっていた。ヒロくん!? と叫んでしまったとき、藍良! といつも通りの無駄にハキハキとした声が少し離れたところから聞こえた。
「ここからじゃ店の中がよく見えないからもっと近づいてみよう!」
「え、ちょ、何言ってんのォ!? あの店狭いから、店の中におれたちが入っちゃったら一発で気づかれちゃうって! 止まってヒロくん!! ああもうほんっとバカ!!」
おれの言うことなんか聞く耳をもたない(というか聞こえてない)ヒロくんはそのまま走って店の中に入ってしまって、おれも仕方なくその後を追う。長時間あの狭い店にいたら絶対にバレる。ヒロくん連れ戻してさっさと出なきゃ。
……そう思ったのに、やっぱりアイドルオタクのおれが店の中に足を踏み入れてしまえば、その楽園から抜け出すのはひどく難しいことだと思い知る。だってだって、新作のグッズめちゃくちゃ出てるんだよ!? おれの知らないグッズがこんなにたくさん!
「何この缶バッジ見たことないんだけど! えっ、このアクキーも知らない! あーブロマイドも新しいのめちゃくちゃ出てるよォ〜!」
気が付けばおれはここに来た目的なんかすっかり忘れて、新作のアイドルグッズに夢中になっていた。逆先先輩のことも、女の人のことも、ヒロくんのことも、頭から抜け落ちてしまった。だからこそ、散々ヒロくんに注意していた声の大きさを抑えるということを、おれは全く意識していなかったのだ。
「せっかく気づかないフリしてたのニ、そんなに声大きくされたら意味ないネ」
声が聞こえたのは、ちょうどおれが新作のアクスタに手を伸ばした時だった。瞬間、昂っていたおれの熱が一気に冷めて、さあ、と血の気が引いていく。おれ、ほんとバカだ。ヒロくんよりよっぽどバカ。怖くて後ろを見れないけど、身体は勝手に振り向いていく。視界に入るのは赤い髪、そしてきっと橙色の瞳なのだろう。しかしそんなおれの予想は、「え!?」という先輩とも、ヒロくんとも違う高い声に打ち破られることになる。
「えっ、えっ、えっ!? 『Branco』の! ちがう、『ALKALOID』の!! 藍良くん!?」
まず視界に入ったのは、そんな声をあげながらおれを見る、逆先先輩と一緒にいた女の人。そのすぐ後ろに呆れたような表情をしている逆先先輩。そしてすぐ近くにはきょとんとした顔でおれを見るヒロくん。ああもう最悪、偶然ですねって誤魔化したいところだけど、さっきの発言からしておれたちの尾行は間違いなくバレていたということだ。そうなったらおれたちがやることはただひとつ、全力で謝罪することのみだ。
「あのっ! すみません逆先先輩! おれたち」
「あっ、あっ、どうしよう夏目、本物の藍良くんじゃん……。可愛すぎない? 何? やばい手ぇ震えてきたやばい。え、でも話しかけない方が良かったんじゃない? 普通に買い物してただろうに」
「あのねェ、ボクたちずっとつけられてたノ。遭遇したらキミが絶対にうるさくなるだろうからあえて気づかないフリしてたノ」
「いや、あのおれ」
「は? マジで? え、何、夏目気づきながらもスルーしてたの? いやちょっとまってよ今私の情緒ぐちゃぐちゃなんだけどどうしたらいい?」
「知らないよあーめんどくサ、帰っていイ?」
「まって行かないで私に正しいアイドルとの接触方法教えて」
「……あの……」
これは一体なんだろう。なんで謝ろうとしたおれの話を一切聞かずに、ふたりが延々と漫才みたいなトーク繰り広げているんだろう。声をあげようとしたヒロくんも珍しく圧倒されているようで、口を開いたまま呆然としている。それもそうだ、だってこの女の人、見かけによらずよく喋る。そしてそれにぽんぽんと言葉を返していく逆先先輩は、ステージでもメディアでも仕事外でも、一切見たことがなかった。
けれどおれが声を発さなければ何も始まらない。もう一度固く決心して、今度こそ口を開いた。
「勝手につけてきてしまってすみません!」
「え、いいよね夏目! ていうかさ、あの、あの、ごめんなさい迷惑じゃなければ……握手してもらってもいいですか!?」
「……え?」
正直めちゃくちゃ怖かった。逆先先輩は基本的に優しいけれど、おれたちがやった行為は褒められるものではない。こっぴどく怒られるんだろうなァ。
そう覚悟したのに、返事をしたのは先輩ではなく女の人で。しかも唐突なお願い付きで、おれは思わず呆けた声を出してしまう。
人間というものは、あまりにも予想外の出来事が起きるとフリーズしてしまう。それを体感したのは人生でも覚えてる限り片手で収まるくらいしかないけれど、今ここでそうなったことは一生忘れないと思う。それほど話が繋がってなくて、意味がわからなかった。
そんな呆然とするおれに声をかけたのは、ずっと黙っていたヒロくんだった。
「逆先先輩との会話から察するに、多分この人は藍良のファンなんじゃないかな」
「おれのファン?」
「というよりきっと『Branco』のファンだろうね。『ALKALOID』より先にその名前が出てきたってことは」
「え、そ、そうなんですか……?」
さすがの観察眼を持つヒロくんの言葉を聞いて恐る恐る問いかける。た、確かに、今までの彼女らの会話を振り返ってみるtそうなのかもしれない。女の人はおれの問いかけにはい! と震えた声で返事をする。よく見ると女の人のカゴにはおれの、そして他の『Branco』の先輩たち面々のグッズが入っていた。
「あ、えと、おれで良ければ……」
「ああああありがとうございます! もう手ぇ洗いません!!」
「いや洗えヨ」
こんな即ツッコミする逆先先輩見たことある? 握手をしてから手を離すと、女の人はそれはそれは嬉しそうに握手した方の手をぎゅう、と反対の手で包み込む。ほ、ほんとにおれのファンなんだァ……。未だ状況が読み込めないおれに、ハア、とため息をついた逆先先輩は、おれとヒロくんに向かって何か言葉を選びながら喋り出した。
「ごめんネうるさくて面倒デ。でも先に後をつけてたのはキミたちだから」
「いやおれたちはいいんですけど……ええっと、その女の人は……」
さすがに彼女なんですか? なんてド直球な質問はもちろんできなくて、わざとそこで終わらせて返事を待つ。そしてすぐに声をあげたのは当の本人である女の人だった。
「みょうじなまえです! 夏目とは中学の同級生で」
「あ、そういう……」
同級生という言葉を聞いて、少しだけおれの中にあった緊迫感が緩む。なんとなくわかってはいたけれど、やっぱり友達だった。事実が判明すると、おれはこんなところまで何しに来てしまったんだろうと思う。同時になんだか先輩たちにすごく申し訳なくなってしまって、羞恥心もあって一刻も早くこの場を離れたいと思ってしまった。
「ええとあの、その、……すみませんでした! 失礼します!!」
だからもう耐えきれなくて、おれはヒロくんの手を引いて店の外へと飛び出す。あまりにも唐突すぎる行動に、きっと二人はびっくりしたと思う。現にヒロくんだって訳がわからないというようにおれの名前を呼んでいる。本当、訳がわからないよね。なんでおれってこう先走っちゃうんだろう。あの人はおれのファンだったという偶然があって嬉しいことは嬉しいけど、やっぱり恥ずかしさが拭えないよォ!
必死に走った。ショッピングモールを出るまで走った。
同級生という位置付けがあっても、それが友達か親友か、はたまた恋人なのかはまだわからないと気づいたのは、次の日ヒロくんに言われてからだった。