視界に入るのは人、人、人。どこを見回しても人だらけ。空気は相当冷たいが、このひんやりとした感じなんて、始発で家を出たあの瞬間に比べたら十分暖かく思えるくらいだった。それがただの錯覚だったとしても、少なくともここにいる人たちはこれからの期待も相まって寒さなんて気にも留めていないようにも思えた。(さすがにそれは言い過ぎかもしれないが)まあ私はそれでも寒いけど。
 ポケットの中に手を突っ込んで、朝開けてきたカイロで手を温めつつ隣を見る。眉間に皺を寄せた夏目は、私と同じようにポケットに手を入れつつも寒そうに身を縮こまらせていた。

「寒イ」
「わかる」
「帰っていイ?」
「それはだめ」

 チェ、なんていいつつも、それが本気じゃないことなんてわかりきっている。まあ本気だったとしても帰らせる気なんて毛頭ないけどね。無理を言ってここまで連れてきたんだ、彼には最後まで付き添ってもらう。そのためにあっちが提示してきた交換条件だって吞んだんだから。
 コミケという戦場。夏よりマシだというものの、大みそかに、オタクじゃない彼氏を巻き添えにして連れてくるなんて色んな意味で普通はあり得ないだろう。私だって他の人がそう言ってるのを聞いたら彼氏に同情すると思う。だからこそ今まで夏目にはこういう同人イベントに付き合わせたことはなかったし、これからもそうするつもりもなかった。……はずなのだが、今回ばかりは事情が変わった。
 まず、普段あまりイベントに参加しない好きなサークルさんが今回の冬コミに出ると言い出した。それも一つや二つじゃない。ジャンルもバラバラ。大手とかもある。なのになぜかタイミングが合致した。何? 一揆でも起こすの?
 それに加えて、いつもの友達が今回は参加を見送ると言ってきた。彼女はだいたいサークル参加で写真集を売っていて、私もそのサーチケで入場することが多かった。だから実はこうして一般参加の列にいるのはわりと久しぶりなんだけど、まあそこはどうでもよくて。他に誘えるようなオタク友達も多くはなく、そうすると一人参加すればいいだけの話なんだけど、前述したように壁の大手サークルがジャンル違いでバラバラに配置されているため、どう考えても一人じゃすべてを勝ち取ることは出来ない。いや、運が良ければ、もしくはサークル主さんが馬鹿みたいに在庫を準備してくれていれば希望はあるかもしれないけれど、ぶっちゃけそんなの読めないしわからない。私も毎年毎回コミケに参加しているわけじゃないし。
 ということで窮地に追い詰められた私は、30日に無事仕事を納めた夏目に頼み込んだ。ちなみに今年は珍しく年越しライブがなく、大みそかに仕事がなかったらしい。めちゃくちゃ申し訳ない気持ちはあったけど、欲には抗えなかった。だって神の新刊が欲しいから!!

「じゃあ今度キミの家行かせてヨ」
「エッ」

 そして頼み込んだ結果、提示された交換条件がコレだ。確かに付き合ってから夏目の家にお邪魔したことはある。(付き合ってから初めて行ったときは色々思い出してちょっと死にたくなった)でも私の家に呼んだことはなかった。……いや、夏目を家に呼ぶのが嫌なわけじゃないよ? ただちょっと、掃除があまりにも面倒くさくて。足の踏み場もないとまで言わないが、さすがに、ほら。綺麗にしたいじゃん? けれど言ってしまえば掃除すればいいだけだ、それで神の新刊が手に入るなら安いもの。どこまでも思考がオタクだけど、それで結果ウィンウィンになるなら問題ないだろう。
 そんな脳内会議を僅か一秒もしない間に繰り広げたわたしは、既にわたしの出す返事をわかっているだろう彼に、そのくらいなら、との条件を吞み込んだのだった。

 スタッフさんたちが大声で列整理をしている。決して静かな空間とはいえないのに、妙にしんとしているように思えるのは気のせいだろうか。みんな妙にそわそわしている。簡易的な折り畳みの椅子に座っていた人たちが立ち上がる。陽は、いつの間にかすっかり昇ってほんのり暖かい光が私たちの頭上を照らしていた。

「最終確認ね。まずは渡した紙に書いてあるサークルさんを一番上からお願い。列の形成具合とかあんま考えなくてもいいよ。どう見たって隣のサークルのがすぐ買えそうってときはアレだけど、そこは夏目の判断に任せる。とにかくその星マークついてるサークルさんの新刊を勝ち取ってくれれば天才! あ、差し入れもちゃんと渡してね! 小銭はさっき渡したよね?」
「もらってル。……この人数が今からこの中に入ることを考えるとゾッとするネ」
「それが戦争というものだよ夏目クン」
「怖いんだけド。ていうか本当にボク眼鏡とかかけなくて大丈夫なノ?」
「大丈夫、オタクはそれどころじゃない。あと眼鏡は曇るからオススメしない。夏目の場合マスクもしてるから余計やばいと思う」
「ハ? 曇る? なんデ?」
「さっ開場だぞ〜!!」

 速攻で帰ってきた彼の疑問には答えず、私も気合を入れるように軽くジャンプをする。だってその理由言ったら、夏目絶対嫌そうな顔するもん。まあサブカル的なところも含めて知識豊富な夏目は、すべてわかってここまで来ているのかもしれないけど……さすがにアレは実際体感しないとわからないだろう。まあ、夏よりマシだし、大丈夫大丈夫。不安そうな夏目を横目にしながら、私はこれから手に入れる新刊に思いを馳せてその時を待つ。
 さあ、時は満ちた。

*

「あのあのあの、新刊と、あとこの既刊ください! 前に入手し損ねて……今日手に入ったのめっちゃ嬉しいですありがとうございます……! アッこれささやかですが差し入れです良かったら……! わーもう、すいませんなんか挙動不審で……! これからも応援してます大好きです……!!」

 やり切った。見事にやり切ったぞ私は。大手サークル一つの新刊だけ残念ながら逃してしまったけれど、それ以外は全部購入できた。これなんていう奇跡? 今みたいな言葉をオタク特有の早口で色んな応援してるサークル主さんに投げかけてきたから、もしかしたら各所で引かれてるかもしれないけど、まあでもオタクってみんなこんなもんだろ! めちゃくちゃ大偏見である。でもこれで私の最低ミッションはクリアだ!
 どう思った途端に、安心感からか達成感からか、すっかり鈍っていた色んな感覚が一気に身体に戻ってくる。戦利品によってつくられた愛はずっしりと重く、じわじわと肩と腕に負担をかけていく。とりあえずからからに乾いてしまった喉を潤すために人混みをかき分けて一旦ホールの外に出た。少ない数しか置かれていないベンチは当たり前に埋まっていたため、近くの柱に寄りかかりつつ、どさりと荷物を下ろす。
 水分補給をしつつスマホを開いてみたけれど、未だ夏目からの連絡はない。初めてのイベントだし、手こずっているのかもしれない。まあもうちょっと休憩してから気になるサークルさん巡ってみるかあと思っていれば、タイミングを見たかのように夏目からメッセージが届いた。とりあえず買えた、という簡潔な文章。とりあえずというところをどういう理由で言っているのかはわからないが、あちらもミッションが終わったならひとまず合流した方がいいだろう。今このホールのこの出口の近くの柱のところにいるよ、と現在地を示す文章を送る。もしかしたら人多いしこれだけじゃわかりにくいかな、と思ったところで、ちょうど「なまえ」と声を掛けられた。

「夏目! お疲れありがとう!」
「一応メモに書いてあったサークルの本は全部買えたヨ」
「マジで!? 天才じゃん!」

 見ると彼が持っているバッグは別れる前よりもだいぶその存在を主張していて、見るからに重たく膨れ上がっている。なんだ、ということはあのメッセージに書いてあった「とりあえず」という言葉は、単なる修飾語だったということか。

「え〜マジでありがとう。ていうかすごいね、全部買えたって。でも疲れたでしょ」
「すごい疲れタ。熱気すごすぎル。キミが眼鏡曇るって言った理由がわかった気がするヨ、なんかみんなギラギラしてるシ」
「おっ、体感して理由解明。あ、椅子空いたよ、座る?」
「座ル」

 ちょうど空いた二人分の椅子を指さしながら言えば、肯定の返事をしながらも夏目は一目散に椅子に向かっていく。すごい、こんな夏目滅多に見ないぞ。相当疲れたんだろうな。
 無事に椅子を死守した夏目の元に私も向かって腰を下ろせば、足腰の疲労が一気に身体にのしかかった。うわ、これはひどい。まだそんなにたくさん歩いたわけじゃないのに。学生の頃はこうじゃなかったのにな、疲れるのは家に帰ってからで……。うう、悲しくなるから思い出すのはやめよう。
 ふう、と隣で息を吐いた夏目にもう一度ありがとね、と声を掛ける。この様子だと、かなり揉まれたんだろうな。

「なんカ、……こウ、やっぱり皆好きなものを前にしているからそれへの愛が伝わるというカ。気迫がすごかっタ。コミケが戦場と評される理由が痛いほどわかったヨ」
「洗礼を浴びてしまったか……」
「あとなんかすごい見られタ。バレてないとは思うけド、なんかこウ、好奇心が込められた視線というカ……」
「あー女性向けジャンルだからかな。男性人口少ないからかも」
「アーなるほド」
「もしくはマスクの上からでも夏目のイケメンオーラが出ちゃってたとか。うわそれありえるな」
「まあバレてなければなんでもいいけどネ」

 ごくごくと水分補給をしながら言う夏目を横目に、一応SNSで彼の名前を検索してみる。会場も騒ぎにはなっていないし、SNSも特にそれっぽい書き込みはないから恐らくその心配はないだろう。いや、もしそういうことになってたら私が全責任を負うしかありませんが……。それはともかく、理由としては多分イケメンっぷりにざわつかれただけだろうな。例えば夏目がBL本を買ってたならそりゃ視線は集まるだろうけど、一応そこは私も配慮したから、夏目に行ってもらったサークルはオールキャラとかばっかだし。なんでも大好きな雑食オタクで良かった。

「あア、差し入れ皆喜んでたヨ」
「ありがと!」
「これは最後の一冊を死守しタ」
「ありがとー! もうなんか本当にありがとうしか言えない」
「あと頼まれてないけド買ったやつがあッテ」
「えっありがとう何」

 完全に戦利報告の流れだったから勢いでお礼を言ってしまったけど、頼まれてないものってなんだ。夏目が欲しかったもの? なんてある? 夏目も私の影響で知らない間にこのジャンルを好きになってくれた……とか。いや、さすがにそれは考えにくいか。
 がさごそと戦利品の入った袋を漁る夏目は、やがてひとつの小さな紙袋を取り出した。紙袋といっても、持ち手のついているような大きいものじゃない。本当にそのままの意味の紙の袋だ。それは、本というにはあまりにも小さすぎて。例えばそう、まるでパワーストーンでも入っているんじゃないかというくらいの大きさで、こういう同人イベントではあまり見ないようなものに思えた。
 開けてみテ、という彼の言うままにその袋を受け取って、かさりとその袋の中に指を突っ込むと、何か小さなものが手に触れた。

「えっ……えっ!?」

 それは、小さなピアスだった。ころんと丸みを帯びたそれは、二つ並んできらきらと静かに揺れている。かわいい。いやそうじゃなくて、これは、このカラーリングは。

「な、夏目、これ、」
「お金はボクが払ったから安心しテ」
「そうじゃなくて! いやそれもツッコみたいけど! これ、これあれじゃん! 私が欲しかったやつじゃん!!」
「エ、そうなんダ。キミの推しイメージのアクセだったかラ、欲しいかなと思ッテ」
「いやだってこれ、すごい。欲しかったんだけどルート的にも時間的にも買えないかなって思ってて、え、うわ……!」

 何、なんだこれ。すごい、サプライズにしてはあまりにもすべてを「わかり」すぎている。 私の手の中で光るそれは紛れもなく作品投稿サイトのお品書きで見たものだ。私の愛する推しをイメージしたそれ。欲しかったそれ。写真で見るよりも実物は何十倍も可愛くて、はあ、と息が漏れる。可愛い、可愛すぎる最高すぎる。

「ありがとう夏目大好き愛してる」
「はいはイ」

 いつも通りの愛の安売り。けれどいつも通り気持ちがこもっている。欲しかったものが予想外に手に入って嬉しい、ピアスが可愛くて嬉しい。でもそれ以上に、私の好きなものを夏目がきちんと理解してくれていて、私を思って買ってきてくれたことが嬉しかった。もしかしたらこれが推しのアクセじゃなくても、いや、それどころか全く意にそぐわないものだったとしても、私は喜んでしまったかもしれない。すっかり絆されてしまっている自分はあまりにも情けないけれど、それもこれも全部、この男がかっこよすぎるのが、悪い。

「夏目ってほんとかっこいいね」
「なまえは本当にわかりやすいネ」
「それ褒めてる?」
「さア?」
「まあ何でもいいや。今の私は大満足してるから」
「……そう言いつつ立ち上がるのは何デ?」

 すくりと立ち上がった私に、夏目が怪訝そうな目を向ける。なんでも何も、だって今買った分は事前にチェックしていた分。通りすがりに気になったサークルさんのところとかを巡りにいかなきゃ。もちろん夏目は連れていかない。疲れているだろうし、かわいそうだし。だからこそ依然戦利品はこうして置いたままなのだ。たったひとつの小さなものを除いて。

「じゃ、荷物番ヨロシク!」
「正気じゃなイ……」

 呟いた夏目の言葉を背中に受けて、私は再び戦場へと舞い戻る。ゆっくりと歩きつつもきらりと光ったピアスを再び紙袋に入れ、バッグにしまう。この同人イベント会場という慣れ親しんだ場所で感じた、未だ慣れない感情に、自然と頬が緩んだ。

 自分が彼に渡したメモを見返して、その表紙タイトルに相違がないかを確認する。自分のミスで夏目が買ってきてくれた分の中に一冊、オールキャラでもNLでも夢でもないものが混ざっていたと気づいたのは、その翌日のことだった。