「風邪ですね」

 そうですよね、と言いたい気持ちを抑えて頷いた。なんとなくどんよりした待合室で過ごした時間は信じられないほど長かったのに、いざ自分の番になってみればそんな一言をかけられて一瞬で用事が済んでしまうのだから、病院ってものは残酷だ。お大事に、と優しく声を掛けてくれた受付のお姉さんが、仕事だということを抜きにしてもなんだかすごく優しく思えた。
 家に帰って買ってきたスポーツ飲料やラ冷えピタやらを投げ出し、手洗いうがいをしてからそのままばたりとベッドに倒れ込む。気が抜けたのか、家に帰った瞬間に身体の重さやだるさが倍増したような気がした。朝、ベッドに置き去りにしていた体温計を手に取って脇に挟む。しばらくして鳴った電子音に応えて画面を見ると、そこには「38.2℃」と表記されていた。

「だる……」

 普段あまり風邪をひく人間ではないから、7度台でも大問題なのに8度は正気の沙汰じゃない。多分今日中に治すのは無理だろうし、明日も仕事休まなきゃかなあと思いつつ、溜まっている仕事の数々を脳裏に浮かべて、それこそ頭が痛くなった。
 けれど今回風邪をひいてしまったことはあまりにも自業自得案件だ。とりあえずいつもの流れで友人にメッセージを送る。「お腹出して寝てたら風邪ひいて熱出た」。平日の午前中、数分後に返ってきた内容は「小学生かよ」というたった一言だけだった。あんたも仕事中じゃないのかよ。
 なんだか頭がふわふわしてきて、画面を見ることに集中できなくなってきた。とりあえず寝よう、寝たら何かを食べよう。回復するためにはそれしかない。袋から冷えピタを出して雑におでこに貼る。冷たいと一瞬しか感じることのできないまま、私は毛布を重ねた布団の中に潜り込んだ。
 そうだ、今日夏目と晩御飯行く約束してたから、夏目にも連絡しなきゃ……。

 軽快な着信音で目が覚めた。身体を起こそうとするも、先ほどよりも全身がだるい。うう、と唸ったら地獄の底から這い出たような声が出た。それでもなんとかスマホに手を伸ばし、画面を見る。逆先夏目と表示されたその画面の通話ボタンと、それからスピーカーのボタンを押すと、すぐにもしもシ、といつも通りの夏目の声が聞こえた。

「もしもし……」
『うわすごい鼻声。どうしたノ』
「風邪引いた……からごめん、今日無理になっちゃった」
『いいよそんなノ。ていうかキミが風邪ひくなんて珍しいネ』
「お腹出して寝てた」
『ウワア……』
「引くな引くな」

 あれ、私意外と元気じゃんと自分で思った。頭は痛いし、声はガラガラだし、鼻水も止まらないし、身体中熱くてだるいけど、なんか夏目と喋ってると元気になってる気がする。気のせいかな、これが惚れた弱みってやつかな。それは違うか。

『でも大丈夫? お見舞い行こうカ』
「ダメ絶対来ないで来たら別れる」
『過激派』
「だってもし夏目に移りでもしたら私責任取れないもん、無理だよ私夏目の代わりにアイドル出来ないよ」
『やる可能性一ミリもないヨ』
「あと初めて部屋に呼ぶのにこんな荒れ放題なのは普通に女としてのアレがアレすぎて無理」
『そこは今気にするところじゃないと思うけド』
「とにかく絶対来ないでね!」
『まあ元気そうではあるしわかったヨ。しっかり休んでお大事にしてネ』
「うん、ありがと〜」

 通話終了ボタンをタップして、はあ、と息を吐いた。よ、良かった。免れた。これで夏目が部屋に来るなんてことになったらおちおち寝てられなかった。私だって一応、こんなんでも女の端くれだ。彼氏が初めて部屋に来るとなったらせめて最低限の掃除はしておきたいものだ。とにかく彼のお部屋来訪イベントはまた今度の機会ということで、今の私がすべきことは体力回復に努めることだ。
 そう、頭ではわかっている。けれど身体がうまいこと動かない。何か口に入れようと思ってはいても、動く元気がない。やっぱ夏目に来てもらえばよかったかな、なんて一瞬ありえない考えが浮かぶ。だめだ、こんなんじゃだめだ。とにかく何か口に突っ込んで寝てしまおう。買ってきたスポーツ飲料を飲み、手軽に摂れる10秒チャージのゼリー飲料を口に詰め込んで、流れるように薬を飲み、私は再び布団の中へと潜り込んだ。
 窓の外から人の話し声や電車の走る音が聞こえる。どうして床に伏せていると、自分だけ世界から切り離されたような感覚になるんだろう。普段仕事なんか休んで家にひきこもりたいと思ってるくせに、いざそうなると外に出ている人達が羨ましくてたまらない。あーあ、なんだか寂しいなあ。なんで今日に限って風邪なんか引いちゃったんだろ。いや私のせいでしかないけどさ。せっかく夏目と会える日だったのになあ……。



「じゃあ、それぞれ決めた班ごとに集まって、遠足の役割を決めてください」

 夢だ、と即座に思った。班とか遠足とかすごい久しぶりに聞いたわ。この光景には見覚えがある。中学一年生の春、クラスで交流を深めようというイベント。そう、よく覚えているよ。このときの私は親友とクラスが別れて、同じクラスに気の合う友達もいなくて、毎日が地獄だった。
 そんな地獄の生きうつしのような表情を浮かべた、「中学一年生の私」が渋々と決まってしまった班の元に向かっていく。これはあれだな、本来こうして見ている私は神目線ということだな、なるほど。
 私が向かった先には何となく見覚えがある女の子二人と、男の子が三人。一人はあからさまに興味が無いオーラを出していて、少し浮いているような。そうだ、ほんとに最初の始まりはここからだったんだ。

(えっ夏目めちゃくちゃかわいいな……? 中学生って何? 赤ちゃんじゃん。赤ちゃんだよ実質あんなん。ほら女子めちゃくちゃ夏目の事見てるもん! 本人今すぐ帰りたそうだけど! ていうか夏目は自分の意思で話し合いに参加してないけど、参加したくてもできない私マジでいたたまれねえな! 誰かかまってやれよ! 過去の私めちゃくちゃかわいそうだな!)

 走馬灯にするには見せる場面のチョイスが微妙だし、そもそも走馬灯を見させれるほど危機的状況じゃない。ただの風邪だぞこっちは。けれど過去の追体験をしているようなこの夢は妙に楽しくて、そのまま事の成り行きを見守っていたら、夢あるある。急に場面が変わり、周りは草原のような森のような、とにかく自然に囲まれた空間になった。
 ここが先程までの教室では無いことは間違いない、というか、ここは恐らく遠足先の自然公園だろう。たしかここでバーベキューとかしたんじゃなかったっけ。私ほぼ食べなかった気がするけど。
 私はどこにいるんだろう、ときょろきょろと辺りを見回す。すぐに見つけることが出来たのは、過去の自分だからということではなく、一人みんなの輪から離れたところでぽつんと座っていたからだろう。いや、このときの私マジで悲しすぎんか?
 可哀想な私は誰かと話すこともできず、かと言ってバーベキューを取りに行く勇気も出ず、一人空になった紙皿を見つめてぼんやりとしていた。いたたまれなさすぎるよ私。わりとこのときの私はぼっちな中学生活を覚悟していたと思う。でもそんな私の覚悟とは裏腹に、今後私がこういうイベントを一人で過ごすことは無かったんだ。一人の男の子がゆっくりと近づいているのが、今の私にははっきりと見えていた。

「逆先くん……?」
「そんな寂しそうにしてるの二、ほっとけるわけないよネ」
「さ、寂しくなんかないし! 逆先くんだって一人で寂しそうだったくせに!」
「ボクは自ら一人を選んでたノ」
「じゃ、じゃあ私だってそうだもん」
「ならボクがここに来たのは完全なるお節介だったんだネ、失礼しましタ」
「ヤダヤダヤダ行かないで!!」

*

 夢だった、と即座に思った。目を開けてぼやぼやと視界に映ってきたのはいつもの天井で、身体を起こそうとすれば相変わらずのだるさに頭が痛くなった。それでも薬が効いてきているのだろう、先程よりは身体の熱がなくなっている気がする。時計を見るとあれからかなり時間が経っていて、外はすっかり暗くなってしまったようだった。
 先程見た夢が本当に走馬灯じゃなくて良かった。今よりだいぶ可愛さが増している夏目を最期に見れることはきっと幸せではあるだろうけど、私にはまだまだやり残したことがあるのだ、こんなところで死んでいられない。
 でも夏目、変わってないな。彼の優しさに思わず笑みがこぼれる。夢のお陰で、少し元気になってきたのかもしれない。
 スマホを見れば、いくつかメッセージが届いていた。仕事が終わったであろう友人から改めて心配の言葉、仕事の連絡、それから。

「……え」

 そのメッセージを見た瞬間に、文字通りベッドから飛び起きる。重たい身体なんてどこへ行ったか、バタバタと大きな音を立てながら、私は冷たい廊下を通り抜けて玄関へと向かった。
 いつも通りの自宅の玄関。そのレバーハンドルをゆっくりと押し下げると、いつもとは違う明らかな重みが手に伝わる。それがドアの向こう側で落ちないように恐る恐るドアを開けると、目に飛び込んできたのはレバーハンドルに引っ掛けられた大きなレジ袋だった。中を見てみると、そこにはレトルトのお粥やカップスープ、スポーツ飲料にプリン等、風邪ご用達セットと言っても過言では無いものの数々が大量に入っていた。

『あんな寂しそうな声してたの二、ほっとけるわけないでショ』

 そう書かれたメッセージと、うちのレバーハンドルに掛けられたレジ袋という光景を写し出した写真。じわじわ、ぽかぽか。心の奥から色んなものが湧き出てきて、私はぎゅっと唇をかみしめた。

「……寂しくなんかないし」

 やっぱり夏目、変わってない。でもきっと私も、変わってない。