今日は最高に気分が良い日だった。仕事も行き詰まることなくさくさく終わるし、上司は何故かご機嫌で、近くのケーキ屋で買ってきたというシュークリームをくれた。先輩には今日のメイク可愛いねと褒められて、何より休憩時間に回したガチャが神引きだった。るんるんで定時で上がって、ご機嫌だから何かおいしいものでも買って帰ろうかな、と職場から駅までの道を歩きながらそう思っていた。そんな時だった。
「みょうじなまえさんですね?」
突然呼ばれた自分の名前に、は? と反応することすら出来なかった。視界に映った黒いスーツの男たちと、黒くて大きい、高そうな車。何だこれと思ったときには、既に私は男たちによって車の中に押し込められていた。すぐさま発進した車、窓の外を流れる景色、そして後部座席の真ん中に座らされた私の両サイドには大男たち。あ、これもしかしてヤバイ状況なのかもしれないと、さすがの私でも一瞬で理解した。
けれど、だからといってどうすることもできない。所詮私は女で、相手は男複数人。力で押し負けるのは目に見えてるし、何かしてみれば逆上される恐れだってある。そしてそれ以前に、恐怖で、声が出なかった。手の震えが止まらなくて、それを誤魔化すようにぎゅっと身体を縮ませる。ああこのために防犯ブザーがあるのだと、持っていた当時は特に感じていなかった有用性に今更ながら気づいた。
私はこれからどうなってしまうのだろう。殺されるのかな、ボコられるのかな、強姦されるのかな。やだ、こわい、どうしよう。じわりと視界が潤んで、世界がぼやける。それを零さないように留めようとするが、雫は私の意志には従ってくれずに無様にぽたりと服にシミを作った。助けて夏目。脳内で思わず口にしてしまったのは大好きな人の名前で、人って本当に窮地に立たされた時、そういう人を思い浮かべてしまうんだな、と恐怖の中でバカみたいに冷静に分析してしまった。
「そんなに怯えることないですよ」
そんな私に突然かけられた言葉。この場にいる人間から発されたとは思えないほど優しい声で、けれどこの車の中には大男たちしかいない。もしかしなくて今の声ってこの男の中から発されたのか……? だとしたらギャップありすぎだろ。頼むもっかい喋ってくれ。あのふわふわ中低音ボイスを聞かせてくれ。予想するに多分私の左隣の男だと思う。何かこの人だけ雰囲気違うもん。ネクタイに差し色のワンポイントついてるもん。絶対そう。そう思って、また喋らないかこっそり左隣の男の口元を見ていたら、それは意外にもすぐさま開かれた。
「と言っても、やり方がやり方なので信用されないと思いますがね」
違ったわ最悪大失敗。格付けチェックだったら存在が今ので私の存在が消えた。じゃああの優しい声誰だよ。前の運転してる人か?
「まあもうすぐ着きますから、その時に坊ちゃまからお話を聞いてください」
私多分格付けチェック出れないわ。いやもう存在消えてるしそもそも出る機会もないけど。マジでさっきの声誰だよ。もう恐怖とかそれよりもそっちが気になって仕方がなくなっちゃったよ。だってベテランの超人気声優に声質似てたんだもん。オタクだからすぐ声帯気にする! というか今坊ちゃまって言った? 坊ちゃま? って誰? 私の知り合いに坊ちゃまと呼ばれるような人いたっけ。少なくとも友人たちにそんな立派な家柄を持つ人物はいなかったと思うけど。
そうこう考えている間に、車はやがて大きなビルの前で止まった。それは見知った、とまではいかずとも、少なくとも見たことがあり、私がとっくに存在を認知している建物だった。
「さあ、ESに着きましたよ」
いや優しい声は右隣の一番ガタイがいいお前かよ。
*
「やあ、よく来たねなまえちゃん」
ビルの十階。恐らくミーティングルームだろうと思われるそこに案内された私は、ようやく首謀犯と対面した。車を降りて特に拘束もされていなかったからいつだって逃げることは出来たけれど、そうしなかったのはこのビルと「坊ちゃま」という単語でおおよその犯人が予測できたからだ。恐怖感は、とっくのとうになくなっていた。
そしてやはり予想通りの人物は綺麗な笑みを浮かべながらそこに佇んでいて、あまりの美しさに思いっきりその顔をぶん殴ってやりたくなった。
「何の真似ですか、天祥院さん」
「君は僕と顔を合わせるといつも怖い顔をするね。君の恋人に似たのかな。まあでも今回は僕もかなり手荒なことをしてしまったからね、不審に思われても仕方ない」
「自覚はあるんですね」
「さすがにね」
緊迫感のある空気ではないと思う。お互い、相手が「悪い人」ではないから。それでも決してこの場に漂う空気は和やかなものではないし、私はもちろんこんな意味のわからないことをした天祥院さんに正直ブチ切れそうになっていた。大人だからキレませんけど!
というか前に会った時は確かまだ私と夏目は友人関係だったはずだけど、この人ナチュラルに私と夏目の今の関係を知ってたな。まあ特に驚きはしない。つむぎくんとかがポロッと零してる光景がおおよそ想像がつくし。そういえば天祥院さん、前に私の情報色々入ってきてるって言ってたな。一般人の私にプライベートはないんか?
そんな私の心の中を読み取ったかのように、彼は眉を下げてごめんね、と口にする。たった一言の謝罪じゃ収まらないし、そもそもなんでこんなことをしたのか全くわからない今の状態では、それでじゃあ許しますってことにはならないけど。
「まあ、事情は彼が来てから話すよ。多分もうじき」
その瞬間、バン! と荒々しい音で扉の開く音がした。見るとそこには、恐ろしい形相をした夏目が息を切らしながら立っていた。
「……何の真似ダ、クソ皇帝」
「ふふ、全く同じセリフだ。近しい距離にいると性格や言動が似てくるというのを見事に体現してくれたね」
しかしそんな天祥院さんの言葉を無視してつかつかと部屋に入ってきた夏目。かなり機嫌が悪い、というか怒っているのは、誰が見ても明らかだった。
夏目、と声をかける前に、私の手はその熱い手に掴まれる。そしてぐい、と思い切り引っ張られて、そのあまりの勢いにぼうっとつっ立っていた私の足はあやうくもつれそうになってしまった。
「ちょ、ちょっと夏目」
そんな彼をなんとか制しようとする。確かに私もあんな乱暴に連れてこられて気分が悪いし、さっさとお家に帰りたい気分だけど、まだ天祥院さんから何も話を聞いていない。
それでも夏目は私の手を離そうとしなくて、いよいよ部屋から出てしまうという時、天祥院さんが再び口を開いた。
「あれ、もしかしてつむぎからきちんと話を聞いていないのかい? 彼が僕を極端に悪く言うとは思えないけど……。というか君、いい加減僕の着信拒否を解除してくれないかな。普通に仕事の連絡とかで困るんだよね」
いやそれは早く解除した方がいいと思うよ夏目くん!? 仕事に不都合が出るのはまずいでしょ! というかこの感じだと、つむぎくんからこのことを聞かされた感じなのかな。確かにあの人のいいつむぎくんが、まさか「英智くんがなまえちゃんを誘拐したらしいですよ」なんて言うはずないだろうし。そもそも天祥院さんが自分のしたことを誘拐とは認識していない……だろうし。多分。頼むしていないでくれ。誘拐だとわかって誘拐をする人間だとはさすがに信じたくない。
「忙しい僕がわざわざこんなことをしてまで君たちを呼んだんだ。重要な話だと思わないかい?」
ともあれ、天祥院さんがつむぎくんを使って夏目を呼び出したこと。そして部外者であるこの私を無理やり攫ってこのビルに招き入れたことは間違いない。どうしてそこまでするのか。そうする理由が、彼にはあるからだ。
ドアの目の前で足を止めた夏目はゆっくりと振り返ると、ぎろりと冷たい視線を彼に送った。それはとても肯定的な態度とはいえないが、「足を止めた」その事実だけでも、夏目が天祥院さんの話を聞くことを受け入れたと察するには十分だった。
「君のことだからきちんと僕から話があると最初からわかってたはずだけどね。まともに聞こうとしなかったのは、僕に対する嫌悪感、もしくはなまえちゃんへの庇護欲かな」
「話すならさっさと話してヨ」
「そうだね、こうやっていつも話が脇道に逸れてしまうのは僕の悪い癖だ。それじゃあさっそく、とは既に言い難いけど、話を始めようか」
前置きが長いな、と思うのは、別に今に始まったことじゃない。しかし恐らく簡潔に終わる話ではないだろう。私は握られたままだった夏目の手をそのまま引っ張り、机を挟んだ天祥院さんの真向かいの席に座る。本当は夏目が前に座るべきなんだろうけど、私が先導しないと絶対に彼は腰を下ろさないだろうから仕方ない。そんな私を見て、夏目も渋々と隣の席に座った。
「さてなまえちゃん。君のことは信頼している。あの五奇人が認めた子だからね。前も言った通り余計なことはしないと思ってるし、アイドルと付き合ううえでの良識もきちんと弁えてる。あるとすればなにかヘマをしないか心配ではあるけど」
「謎に信頼があるのは嬉しいですね。私とほとんど面識がないのに私のことを知った風に言うのはちょっと腹立ちますけど」
「今更だろう? むしろ喜ばしいことじゃないか。僕は君のことを知っているからこそ、逆先くんとの交際を認めているわけだからね。どこぞの馬の骨にだったらうちの大事なアイドルはやってないよ」
「やめろ虫唾が走ル」
「ていうか勝手に調べて勝手に認められてもね……」
本当に、一体なんなんだこの人。言っていることがわりとめちゃくちゃなくせに、表情が一切変わらないあたり恐ろしい。
彼はその透き通ったビー玉のような瞳を私、そして夏目に向けてから、私たちの言葉に対して何も返さずにまた口を開いた。
「そこで僕は聞きたいんだ。君たちが今後、どうしていくのか」
「どうしていく……って」
「単刀直入に聞こう。結婚はするのかな?」
「は!?」
あまりの突拍子のない発言に、思わず椅子から立ち上がってしまいそうになった。そんな漫画みたいなリアクションなんて現実じゃ滅多にすることはないけれど、それをしてしまいそうになるくらい、意味がわからなかった。何がどうなってその発言に繋がってくるんだ!
「……何故そんなことを聞ク?」
一方でやけに冷静な夏目が、ゆっくりと疑問を投げる。……いや、これは怒っているのか、それともこんな場でわざわざそんな話題を出してくるんだから、夏目にとって――私たちにとって天祥院さんから何かあるのか。未だ続く緊張感に我に返って、私もゆっくり息を吐いた。
「大前提として君はアイドルだ。ファンも大勢いる。それに加えて君はああいう売り出し方をしているから、所謂リア恋、ガチ恋と呼ばれるファンが大勢いることもわかってるいるよね」
「それが何。皇帝サマがなまえの嫉妬でも心配してくれてるワケ? 残念ながらこの子はいちいちファンに嫉妬するようなカワイイ子じゃないヨ」
「どうだろうね? 乙女心とは以外に複雑なものだよ」
「お前が乙女心を語るナ」
「絶対に今これ関係ない話が始まったことはわかる」
「ふふ、そうだね。早々に話を戻そうか」
ふふじゃねえよ。というかなんだよ夏目のその言い方。私だって嫉妬くらいするもん!
「僕はね、心配しているんだよ。スキャンダルされるなんて最悪のパターンを避けられたとしてもだ。君たちの関係を今後隠し通せたとして、じゃあいざ結婚発表をしたときにどうなるか。普通のアイドルならよく隠し通せました、おめでとう。あとはまあまあのリア恋と呼ばれる人達が休暇をとって終わりかな」
……え、何この空気。なんで二人ともさっきの空気からそんなガチな感じに切り替えられるの? これが普通なの? 私がおかしいの!?
「でも君は売り出し方が普通のアイドルとは違う。その場合どうなるか? 賢い君ならわかるよね。アイドルと一般人の自分という線引きが出来なくなった者たちに、裏切り者と糾弾される。おかしい話だよね、最初から何も裏切ってなんかいないのに。こちらはただ夢を魅せて誘導しただけであって、彼女らはアイドルという偶像を信じきって勝手に自滅した、それだけだ。けれどそういう騙すようなやり方をしたのは君であり、それで最悪君に実害を与えられるということも、考えられなくはないよね」
そう淡々と話し続ける天祥院さんの言葉の数々で、ようやく私にも緊張感が生まれてきた。
逆先夏目というアイドルが、世間でガチ恋製造機などと呼ばれていることは知っていた。ファンを子猫ちゃんなどと呼び、魔法使いのくせに『Knights』ばりの王子様っぷりを見せつけ、得意は流し目ウインクだ。そりゃあみんな好きになっちゃうだろう。私が今更彼のそのスタイルをどうこう思ったりすることはないけれど。
「でもここまでやってきたものはもう戻れないし戻らない。なら未来を変えるしかない。つまり僕は、逆先夏目というアイドルの売り出し方を変える提案をしているんだ」
「戻れないし戻らなイ、ネ。どの口ガ」
「僕だからこそ説得力があると思わないかい?」
「自虐ネタは今時流行らないヨ」
「流行らずとも、一定の需要は未だにあるよ。可哀想と思うことで、無意識に自分を優位だと考えることは、人間にとってかなりの快楽だからね」
「とにかク、言いたいことはわかッタ。けどそれはニューディの所長や副所長であるセンパイが言うことダ。それ二、わざわざなまえをここに連れてきた意味がわからない」
確かにそれはそうだ。今の話の流れからして恐らく、「もし結婚するんだったとしたらその売り出し方で本当にいいのか」という、夏目に対しての問いかけなんだろうけど。それにしたって私がわざわざ連れ去られてまでここに来させられた意味がわからない。
ぎろりと夏目の鋭い視線が天祥院さんを突き刺す。しかし天祥院さんはそんな視線なんかまったく気にも留めていないようで、まるで優雅なティータイムのような口ぶりで話し始めた。
「まず前者の説明をしようか。知ってのとおり、ニューディの所長くんは海外を飛び回っているし、こちらの細かい事情なんて知りえないんだからまず話すことは出来ないよね。そのために代理としているつむぎだけど、彼は君に甘い節があるからね。君の言うこと、やることを尊重して行動している。それに口を出して捻じ曲げるなんてこと、よっぽどじゃない限り出来ないんじゃないかな。ちなみに一応彼の為に言っておくと、この件に関してつむぎは全く関係なくて、僕個人で行っていることだよ。ニューディが所属しているESの代表として、僕が君たちを心配して起こした行動だ。僕にはその権利があるからね」
「センパイについては何も疑ってないヨ。あの人はお前と一緒になまえがこの部屋にいて、さらにボクがお前に呼びつけられてるって話を伝えてくれただけダ」
「さすが、ユニットの絆ってやつかな。前よりつむぎに対して毒を吐く頻度も少なくなったみたいだし、すっかり信用しているみたいだね」
「ボクはたダ、センパイがわざわざお前なんかと一緒にこんなことをする動機がないって言ってるだけなんだけド」
わあツンデレ、なんて今この場で言ったら、私こそあの鋭い視線に突き刺されて死ぬんだろうな。そんなことを考えるくらい余裕になっているのは、多分二人の話が長すぎて頭に入ってこなくなっているからかもしれない。これいつ終わるの? なんて空気の読めないことはさすがに私も大人なので言わないけど、それでも心の中では存分に言わせてほしい。これいつ終わるの?
「ともあれ、後者の質問に対しては簡単だ。もし決断するならその場にいた方が話は早いだろう?」
「決断?」
「そう。僕が提案しているのは2つだ。1つは逆先くんのアイドルとしての売り出し方を変える。そしてもうひとつは、今以上にファンを増やして恨みをぶつけられないように、早々に君たちが結婚するか」
「ハア!?」
「ええ……」
思わず漏れ出た声に天祥院さんが「いや何その反応」みたいな目でこちらを見る。むしろそんなことを言われて今の反応で済ませてるんだから尊敬してくれても良いところだと思う。というか夏目がそれこそさっきの私みたいに大きな声を出してくれたから今ので留まっているということもあるけれど、しかしそれ以上に、もうなんだかこの人についていけなかった。だってもう意味わからないでしょ。筋が通ってるようで通ってないよこの話。君たちはどうしたいの? 結婚するの? から今ここで結婚を決断しない? はおかしいでしょ。
夏目に手を引かれたあの時に帰っていれば良かった。まあどちらにしても帰ったところで、タイムライン周回や動画サイトの徘徊をして無駄な時間を過ごすだけなんだろうけど。
そんなことを考えている私の横で夏目はあからさまにイライラしていた。普段私よりよっぽど冷静に物事を考えられる彼がこんな態度を取っているのは、やはり相手が天祥院さんだからなのだろう。
ある意味正反対と言える態度を取っている私たちのことをわかっているのかどうなのか、天祥院さんはそのままするすると話し続けた。
「これは真面目な提案だよ。早ければ早いほどいい。人気売り出し中のアイドルならまだしも、『Switch』ほどになれば人気を危惧しての状況を読む必要も無いしね。それに今のうちだったら、発表後の不安要素などは揉み消せる規模だと思うけど」
「……わざわざいちアイドルのために権力を使うって言ってるノ?」
「その選択肢もあるってことだよ」
ぴり、とした空気が、もはや本物なのか、それとも彼によって作られたものなのかわからなくなってきた。天祥院さんはあくまで真剣で、その眼差しはテレビで見るような優しいものや、アイドルらしいキラキラしたようなものではない。きっとこれが彼の経営者の顔なのだろう。……けれど、それにしたって、夏目の言う通りだ。入れ込みすぎじゃないか。自分が所属しているユニットでもない、たったひとつのユニットの、たったひとりのアイドルに。
「……くだらなイ」
絶対におかしいんだ、天祥院さんがこのすべてを大真面目に言っているだなんて。
「今はどっちも必要ないヨ。確かになまえに危害が加えられる危険性はあル。けド、そうならないために僕がいル」
「へえ、お姫様を守る王子様かい? 敬人や真緒が好きそうだな。まあ、君たちも実際そうなのかもしれないね。人気アイドルと幼馴染の一般人。よく出来た少女漫画じゃないか。でもここは現実だ。空想上の逆転勝利も、出来すぎた展開も、優しい世界も存在しないんだよ」
「ゴタゴタゴタゴタうるさいナァ。あのネェ、皇帝に指図されなくたッテ、僕たちはやっていけるヨ。自分で考える頭も持ってるシ、お前なんかよりよっぽど好意的にこの世界を俯瞰できる目も持ってるからネ。誰が老害の見世物になんかなるカ」
「あれ、バレちゃったか」
その言葉は、今までの天祥院さんの少し冷たい声色ではなく、ふわりとしたなんだか気の抜けるような音で聞こえた。途端に空気も変わる。私が薄々感じていたことはやはり間違っていなかったようだった。呆れか、安心か。とにかくその事実にどうしようもないくらい疲れてしまって、私はふっと自身の身体の力が抜けるのを感じた。
「『存外皇帝はお茶目なところがある』……何がお茶目ダ。人を見せ物にして笑ってるだけダ。本当に胸糞悪イ」
「心配しているのは本当だよ。提案自体も本当だ。じゃなかったらわざわざここまで舞台を用意しない」
「どうだカ。建前がないと自分の気持ちが言えない虚しい人間なだけじゃなイ?」
「手厳しいなあ」
夏目がイライラしているのはもうずっとだが、事実が明るみになったことからその怒りは余計に増しているようだった。吐き捨てるように言った言葉に、天祥院さんは慣れているかのようにふふ、と小さく笑った。
つまり、結局は最初から天祥院さんの戯れだったということだ。いや、戯れにしては些か本気度が高いから、冗談半分……うまい言葉が見つからないけれど、すべてのすべては本気でなかった。今回あまりにも時間と労力をかけすぎているから本気の圧力を感じてしまったけれど。
「それで、僕の提案は本当に飲んでくれないのかい?」
「そんなキラキラした目で言われても」
「だってそれこそ少女漫画のような恋愛、間近で見てみたいじゃないか」
「コイツに権力を握らせるべきじゃなかったと心から思うネ」
「先ほども言ったけれど、すべてを冗談と受け取ってもらっても困るなあ。君たちはこのままの状態でこの先後悔はしないの?」
冗談半分、なのだろうか。いや、きっとそうではない。本気ではあるんだ、何もかも。天祥院さんが頬杖をつくと、さらりと細い金糸のような髪が揺れる。その髪の間から見え隠れする瞳がじっとりとこちらを見つめていて、逸らしたくなるほどの光にほんの少しだけ目を細めた。
決めるのは私じゃない。夏目だ。……いや、結婚うんぬんに関しては私の意志がもちろんついてくるけど、そもそもの話、私がここにいる理由はその部分だけなのだから。
隣に座る彼を見てから、夏目、と小さく声を掛ける。すると彼はちらりとこちらを見て、それから一瞬、ふっと優しく笑った。しかし天祥院さんに向き直った次の瞬間には、既にその横顔は険しく変わっていた。
「自分の人生モ、売り出し方モ、自分で決めル。それによって生まれた悪意がどんなに強大でモ、ボクは被害に遭うなんてヘマは絶対にしないヨ。それニ、さっきも言ったヨ」
釣りあがった目元。鋭い視線。天祥院さんに対する隠そうともしない嫌悪感。先ほどの一瞬の微笑みが嘘だったのかと思うほど、夏目はまるで別人のような顔つきでそこに座っていた。
――ああ、なんとなく、わかったかもしれない。あの一瞬の優しい微笑み。大嫌いであろう天祥院さんに見せないことはさておき、他の誰かに対しても、あんな表情をしているのは見たことがない……と、思う。確証は出来ないけど。
『君しか知らない彼のことがたくさんあると、僕は思うんだけどね』初めて天祥院さんと会ったときに、確かそう言っていた。そうだ、多分あれは、あの表情は。
「なまえは、何があってもボクが必ず守るから」
きっと、私だけの。
「バカらしイ。話聞いて損しタ。帰るよなまえ」
「……え、あ、お邪魔しました……?」
「うん。また来てね、なまえちゃん」
「二度と来るカ」
「結婚式には呼んでくれると嬉しいな」
「死ネ」
気づいてしまったのは、散々夏目のことを意識していた中、不慣れで照れくさくて、まぶしい単語が飛び交っていたからかもしれない。
がたりと席を立って歩き出した夏目につられるように、私も立ち上がって彼の後ろを付いていく。ちらりと振り返って天祥院さんを見れば、彼は全くの無害そうな笑顔を浮かべていて、何を思う訳でもなく、すぐさま私は夏目の方へと向き直った。
つかつかと私の前を歩くのは、きっとここがビルの中、自分の職場でもあるからだ。私も無暗に話しかけられない。けれど、外に出たたところで夏目は数々の発言について言及しないだろう。嘘つきのくせに、本当に大事なことは誤魔化すことすら出来ない。そういう性格だ。天祥院さんが言ったように、これから強大な闇を見ることになることになるかもしれない。その場所は思っているよりも明るくないのかもしれない。でもきっと大丈夫だ。だって私には夏目がいるから。
「ねえ夏目。まだ夕飯食べてないなら、ハンバーガーでも食べようよ」
だからこれからも永遠に、ずっと一緒にいられたらいいな、なんて。