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 朝は強い方でもないけれど、特別弱いわけでもない。二つの目覚まし時計を駆使して、家を出る一時間前に起きる。カーテンの向こう側から差し込む光が、今日の暑さを物語っている。まだ七月に入ってまだ一週間も経ってないというのに、昨日だって既に夏真っ盛りのような気温だった。そのまま勢いよくカーテンを開けると、眩しいくらいの光に思わず目を細める。今日もいい天気だ。

「おばーちゃん、おはよー」
「おはようなまえちゃん」

 朝食の準備をしているおばあちゃんの背中に声を掛ければ、目玉焼きを焼きながらおばあちゃんは振り返ってにこにこと柔らかい笑みを浮かべた。ダイニングチェアに誰も座っていないところをみると、おじいちゃんはどうやらまだ寝ているらしい。
 先に顔洗ってらっしゃい、というおばあちゃんの言葉に促されて洗面所へ向かう。毎朝のひどいぐしゃぐしゃの寝ぐせ頭はすっかり見慣れてしまったけれど、昔、万次郎があれを初めて見たときは「何オマエその頭! ヤッバ!」と笑われたっけ。自分の方が今でもよっぽどひどい寝癖をしているくせに、どの口が言うんだと思う。

「あれ、なんか目玉焼き多くない?」

 とりあえず洗面所での支度を済ませてダイニングに戻ると、テーブルには三人分のお皿。しかしその中のわたしの分だと思われるひとつには、ふたつの目玉がどっしりと鎮座していた。

「ぼーっとしてたらね、お母さんの分まで焼いちゃってたの。もうひとつ焼く前に気付いて良かったわ。食べれたらなまえちゃんふたつ食べてね」
「うん、わかった」

 わかったと言いつつ、時間的に食べれるか微妙なところだ。卵大好きだから胃的には何の問題もないけれど。でも危うくお父さんの分まで焼かれていたら、この胃に朝から卵を三個も詰め込むことになっていたと思うとそれは少し恐ろしい。おばあちゃんが途中で気づいてくれてよかった。

「あの子たち、次はいつ帰ってくるのかしらねえ」
「うーん、もしかしたらしばらく帰ってこないかもね」
「なまえちゃんだってこんなに大きくなって。ずっと待ってるのにねえ」
「あはは、そうだねえ」

 おばあちゃんと会話をしながらも私は必死にベーコンやら何やらを口に詰める。なんだかんだ言いながらも今日も寝癖はなかなかの曲者で、かなり時間を取られてしまったのだ。
 目玉焼きをひとつ食べ終えたところで時計を見ると、もう出る時間もとっくに過ぎていた。まずいまだ着替えてないのに! おばあちゃんには悪いけれど、このもうひとつの目玉焼きは食べれそうにもない。ごちそうさま! と早口で言い終えてから、わたしは二階の自室へと向かった。制服を着替えるのに要する時間は一分ちょい、朝のチャイムまで、あとニ十分。

*

 結局予鈴に間に合いはした。間に合いはしたけれど、それはもうギリギリだった。友達に遅かったねーと笑われながら自分の席に着けば、寝坊か? と隣から声が飛んでくる。マイキーのこと言えねえな、と楽しそうに言われたけれど、ちがうし、寝坊じゃないし。
 けれど汗にまみれた身体でわざわざ否定するのも億劫で、うっさい、と一言だけ口にする。チャイムの音を聞きながら、わたしはカバンから制汗スプレーを手に取った。

 そんなバタバタしていた朝だったのに、お昼も過ぎればただの笑い話になってしまう。休み時間にメールを返して、いつも通りお弁当を食べて、午後の授業を受けて。当たり前の学生の日常というのは、びっくりするほど早く過ぎていく。
 さて、今日は何をしようか。友達と別れてひとり帰路につきながらそんなことを考える。仮にも受験生なんだから勉強を、なんて頭はない。普段の成績は比較的良い方だし、難関校に挑戦するわけでもないので、寒くなってきてから軽く勉強の時間を取るだけで十分だろうから。
 佐野家に行ってエマと遊ぼうかなーなんて考えていたとき、なんだか遠くから怒声のような野太い声が聞こえた。

「え、なに?」

 ガラの悪い男たちの声、それも恐らく何十人といる。わたしが今いるこの場所から少し見下ろせば、下に続く階段から広場にかけて男たちがわんさか。半円になっていることから、中心部で何かが行われているようだ。物騒だなあ。ヤンキーは流行らないというけれど、実際この場所だけでこれだけの人数がいるのだから、やっぱりそういうものに憧れる、男の子の根本的なところって変わらないんだろうな。
 少し目を凝らして中心部を見てみると、そこにはひとりの傷だらけの男の子がガタイのいい男にボコボコにされている。うわ、ひどい。周りの男たちがヤジを飛ばしているところをみると、ギャラリーを集めてそういう見世物にしているというところだろうか。趣味、わっる。どうしよう、警察呼ぼうか。

「引けねぇんだよ!!!!」

 どう思って携帯を手にしたとき、ぼろぼろの男の子の声が耳に響いた。

「引けねぇ理由があるんだよ!!! 東京卍會、キヨマサ……勝つにはオレを殺すしかねーぞ」

 ぞわり。ほんの一瞬だけ、背筋が粟立った。――あの子、笑ってる。
 しかしそれもすぐになくなり、それよりもわたしは今聞いたひとつの単語で頭の中を塗り替えられる。彼、東京卍會って言った。発言の内容からして、多分男の子をボコボコにしているガタイのいい方が東卍のメンバーなのだろう。となると、連絡すべきは警察ではなく。
 着信履歴の一番上にある彼の名前を選択して緑色のボタンを押そうとした瞬間、大勢の不良たちが何やらざわついてることを感じ取り、視線を再び広場の中心に戻す。そこには先程までいなかったふたりが、男たちに九十度の角度で挨拶されていた。
 見慣れた金色の辮髪がひとりと、今まさに電話を掛けようと思っていた人がもうひとり。なんだ、と安心して持っていた携帯をポケットにしまった。

 そのまま彼らのいざこざをしばらく見続ける。うーん、想像するに、これの主催があのガタイのいい東卍メンバー。東卍がこんな趣味の悪いことをするはずがないから、彼が好き勝手やった結果がこれなのだろう。嫌だなあそういうの。
 彼が主催の男に蹴りを入れ、そのまま来た時と同じようにふたりで何事もなかったように帰っていく姿を見て、わたしも階段を駆け下りる。ギャラリーの男たちは大勢いるけれど、呆然と立ち尽くしている分、その間をすり抜けるなんてことわけなかった。

「あ」

 すぐに彼らに追いつこうとする身体をぴたりと止める。ボコボコにされていた男の子は大丈夫だろうか。あれだけやられていたのにあんなことが言えるなんて、あんな目が出来るなんて、そうとう覚悟を持った人。振り返ると、男の子は座り込んだまま彼の後姿を目で追っていた。瞬間、ぱちりとわたしと目が合う。こんな場所に女がいるなんて男の子も思わなかったのだろう、動揺したような表情をした男の子に、わたしはひらりと手を振ってみた。うん、多分骨とか折れてなさそう。良かったね。
 大丈夫なことを確認したわたしは、今度こそくるりと踵を返し、少しだけ遠くなってしまった背中を追う。

「万次郎!」

 ぺたぺたとサンダルの音をさせながら学ランをはためかせていた彼が、わたしの声を聞いてすぐさま振り返る。瞬間、なまえ! と腕を大きく広げられたので、すぐさまわたしはその目の前で止まった。

「いやそこはオレの胸の中に飛び込んでくるとこだろ!」
「暑いからヤダよ」
「つかなんでなまえがここにいんの?」

 わたしの言葉なんかまったく聞かずに抱き着いてこようとする万次郎を手で食い止める。そんなわたしたちの様子なんて全く気にせずに尋ねてきたドラケンに、わたしはああ、と口を開いた。

「学校から帰ってたら丁度見かけた。東卍って聞こえたからさ、万次郎に電話しようと思ったところで本人登場したからびっくりしたよ」
「え、オマエあそこにいたの? 危ねぇからああいうとこからはさっさと離れろよ」
「ごめんごめん」
「あ、わかってねえ。言うこと聞かねーならオレ四六時中なまえの傍にいるかンな」
「うわそれはやだ! てかちゃんと自分の学校行きなよ! 今日は行ったの?」
「給食だけ食べに行った!」
「出たそれ……」

 にかりと笑って何故か得意げの彼にはあ、とため息をつく。一応学校に顔は出してるみたいだけど、そんな生活続けてたら、そのうちいつかどこかの誰かさんみたいにダブっちゃうんじゃないかな。

「つかさーこれからケンチンとオレん家でバイクいじる予定なんだけど、なまえも来る?」
「いくいく! ていうか元々行くつもりだったんだよ。エマと遊ぼうと思って」
「おーじゃあ早く行こーぜ」

 ドラケンの言葉に応えるように、わたしたち三人は連れ添って歩き出す。そういえばさっきの男の子、なんか万次郎に話しかけられてたなあ。万次郎がああやって他人に話しかけに行くのって珍しいから少し気になって、あのさ、とわたしはまた口を開いた。

「さっきの男の子」
「ン? ああ、タケミっち?」
「タケミ…? 知り合いだったの?」
「さっきオレのダチになった。何? オマエアイツのこと気になるの?」
「いやそういうわけじゃなくて! ……ダチって……万次郎が興味持つの珍しいなって思って」

 ずい、と顔を寄せてきた万次郎の質問に慌てて否定すれば、なーんだと安心したように言われる。無茶苦茶な万次郎のことだ、この様子だと先ほどのあの瞬間に今日からオレのダチ! なんて一方的に言ったと考えるのが妥当だろう。それでも彼があの子に興味を持ったという事実は変わらないわけで。

「ウン、ちょっとね」

 しかしそう言って笑った万次郎の横顔に、わたしもそっか、と一言返すことしか出来なかった。けれどその瞬間、その横顔と誰かの顔が重なって、さらにそれがまたほかの誰かと重なった。たぶん、なんとなくだけれど、ちょっとだけ彼があの子に興味を持った理由がわかったような気がした。