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 廊下の真ん中をどすどすと音を立てながら歩く彼は、明らかにみんなに恐れられていて、彼と、その後ろを続くもうひとりの周りにだけ空間が出来たようになっていた。その姿はさしずめモーゼの十戒といったところか。前まではそんな光景、この学校ではほぼ毎日のように行われていたものの、今日それを見るのはなんだかひどく久しぶりのような気がした。

「今日、パーちん来てたね」

 担任による簡単な連絡事項と挨拶が終わった終礼直後。未だ最後の授業の内容が書かれた黒板を見つめたまま呟く。昼休みに見た、隣のクラスの彼らの廊下での様子が脳裏に浮かぶ。一見誰に向けたのかわからないそれは、しっかりとわたしの隣に座る彼の耳に届いていた。

「……そうだな」

 三ツ谷は何かを言おうとして、けれどすぐにそれをやめた素振りをした。

「最近学校来てなかったもんね」
「別に珍しい事でもねぇだろ」
「うん。まあ東卍みんなサボったりは普通だしね」

 明日使う教科書、そうでない教科書。仕分けして、明日使わないものだけをカバンに乱雑に詰めていく。そんなとき、なまえー! と教室の出入口から声がして、見るとエマがにこにこと笑いながらこちらに手を振っていた。今日はエマと放課後デートの予定だから、わざわざ別学年の教室まで迎えに来てくれたのだろう。楽しみな気持ちが全く隠せていない彼女に軽く返事をして、がたりと椅子から立ち上がる。

「じゃあ三ツ谷、また集会で」

 瞬間、彼の目が少しだけ見開かれる。けれどすぐに悟ったのか、ふっとその強ばった表情を崩して、おー、と零した。

 わたしと約束していたにも関わらず、「ちょっと一時間後くらいにまた合流って形にしていい?」とエマが言ったのは、学校の正門を出てすぐのことだった。そのときの彼女はなんだか少しだけいつもと様子が違って、何かを誤魔化すように視線を空に泳がせている。
 エマがこんなことを言い出すなんて珍しい……いや、もしかしたら今までに一度もなかったかもしれない。隠し事をするような彼女の様子が少し気になったが、きっと追及したところで答えてくれないだろう。一時間後ならそれでも遊ぶ時間は十分にある。そう考えたわたしは、わかった、じゃあまた後でね、と了承して、人が行き交う街中で申し訳なさそうにする彼女と別れた。

 万次郎に呼ばれなければ、わたしは集会には出向かない。喧嘩の詳細だって聞けば教えてくれるけれど、彼自ら話してくることはほとんどない。しかしそれはあくまで「普段は」という話だ。今回みたいなのはまた別。東卍をはじめから見てきたわたしに、彼は創設メンバーに関わることだけは必ず教えてくれる。そしてそのことをメンバー全員に話す集会に行くか行かないかの判断を、わたし本人に委ねてくれる。
 昨晩万次郎に、パーちんの親友、その彼女が他のチームにこっぴどくやられたということを聞いた。ひどい話だ、彼女はボコボコにされた親友の前で強姦されたらしい。
 東卍は仲間がやられたら黙っておけないチームだ。その仲間はたとえ本人でなくても、本人の大事にしているものにまで及ぶ。大多数が、大事なものを傷つけられれば自分がやられたように心を痛めることができる優しい人だからだ。
 最終的に「やる」や「やらない」かの判断を本人に任せて決める今日の集会。どうなるのかは何となく予測できる。

「おっきな怪我、しないといいなあ」

 相手は年上中心の大きなチームだと聞いている。贅沢にコーンでダブルにしたアイスを食べながら呟けば、どうしたの急に、と先ほど合流したばかりのエマが、プラスチックのスプーンを口にくわえながら純真な瞳でこちらを見た。離れていた一時間で一体何をしてきたかわからないが、戻ってきた彼女は少し複雑そうな表情をしていた。話を聞いた方がいいのか、それとも聞かない方がいいのか。しかしその考えは一旦脇に置いておいて、ひとまずわたしは彼女の問いに答えるべく、んー、と言葉を漏らす。
 わたしと違って集会に自由に行き来できる彼女も、今日の集会には珍しく顔を出すと言っていたが、内容はいつものわたしのように詳しくは知らないのだろう。ううん、万次郎はわたし以上にエマには喧嘩のことは話さないから、きっとエマはわたしよりもまぶしくて、澄み切った青空のように純粋なのだろう。決してわたしやみんなが汚れているとかそういうことではなくて、わたしたちは、彼女よりほんの少しだけ、社会を知ってしまっているだけだ。

*

 辺りは徐々に暗くなり、オレンジ色に染まっていた空がじわじわと彩度を失っていく。きっと武蔵神社に着くころには、街灯なしでは歩けないくらいになっているだろう。
 アイスを食べてからいろんなお店を回ってデートをしたといえど、結局はウィンドウショッピングだ。持っているものは学校を出たときと同じ肩にかけたスクールバッグのみで、わたしたちは相変わらず空いた手のひらをぶらぶらとさせながら、並んで歩を進める。今日は昨日の時点で集会に行くことが決まっていたから、下着など簡単な荷物は持ってきたけれど、それすらもバッグの中でかさばるほどの量はなかった。部屋着も何もかも、佐野家に置いてしまっているんだから当たり前なのかもしれない。
 横を通る大きなエンジン音をさせたバイクと、それに乗るいかつい男たちが、わたしに向かってお疲れ様です! と走りながら声を掛けてくるのにももう慣れた。エマだって万次郎の妹なのに、わたしばっかり挨拶されるのはおかしいと思う。まあわたしと万次郎が付き合っているのはバレバレだとして、エマが総長の妹ってことは知らない人の方が圧倒的に多いから仕方のないことだけど。
 武蔵神社がもうすぐだと判断するのは昼間よりもずっと早い。神社そのものの姿が見えたということではなく、大量のバイクの光が集まって、遠くまでその光を伸ばしているからだ。

「なまえ、エマ」

 その声が聞こえたところがひときわ大きな光だと感じるのは、ただの身内びいきか、それとも彼のオーラ、カリスマ性ゆえか。バブにまたがる万次郎の隣にはやはりエマの想い人であるドラケンもいて、隣の彼女がぴっと背筋を正したのがわかった。

「二人で一緒に来たんだな」
「うん。デートしてきたの」
「良かったなエマ。なまえと遊ぶの楽しみにしてたもんな」
「……そうだよ! めちゃくちゃ楽しかったんだからね!」

 にっと歯を見せて笑いながら言うドラケンの言葉に、エマはいいでしょ、と言わんばかりに返す。語気が少し強めに感じたのは、わたしの気のせいではない気がする。というか、やっぱりエマはわたしと遊ぶのを楽しみにしてくれていたみたいだけど、じゃあ尚更あの一時間は何だったんだろうか。

「ねえエマ、さっきの、」
「エマ〜!!」

 今更ながら話を聞いてみようと思い口を開く。が、その言葉は本題に入る前に、聞こえてきた女の子の声に打ち止められた。見ると、誰かの彼女だろうか。女の子たちが数人集まっている中で、ひとりがエマに向かって手を振っている。集会で知り合った友達なのだろう。エマ、わたしと違ってすぐ人と仲良くなるからなあ。いや、わたしは女の子より男の子のほうが仲良くなりやすいってだけかもしれないけど。
 呼ばれたエマは何〜? と大きな声を出して、彼女らの方へ駆けていってしまう。まあ、この後いくらでも聞く機会はあるし、そもそも今まで聞いてこなかったんだから悔やむほどではない。

「やっぱ来たんだな」

 金色の髪を揺らす彼女の背中をぼうっと見ていれば、遊ぶような、それでいてどっしりとした彼の声が耳を撫でる。万次郎の方に向き直れば、彼はその口元を緩めず、けれど目元はやわらかいままわたしをじっと見ていた。

「うん。でもわかってたでしょ」

 わたしが今日ここに来るか来ないかは昨日彼には伝えなかった。わたしの判断で集会に来るときはいつもそうだ。わたしの気持ちをいちばんに優先したいから、自分の欲や雑念が入らないようにオレには伝えるなと、いつの間にかこの制度が染みついていたときに万次郎に言われた。

「オレとしては皆が傷つけられてるのは見せたくないけど」
「……うん、ごめんね。ありがとう」

 万次郎はやさしい。きっと集会でわたしを呼ばないときは、普通の中学生には考えられないような少し危ない喧嘩の話をしているんだと思う。だから東卍に仲が良いメンバーがたくさんいる、ただの女子中学生のわたしに、そういうみんなの「いつもの違う面」を見せないようにしている。でも、だからこそ、大事な皆に関わることは包み隠さず話してくれる。結局、わたしは彼のやさしさに甘えているのだ。甘えさせてくれる万次郎は、ひどくつつましやかだと思った。

「それで、パーちんは?」
「あそこ」
「あ、ほんとだ。……声かけようかと思ったけど、絶対うまく言葉にできない気がする」
「なまえ不器用だもんなー」
「うるさいなあ。万次郎に言われ」
「おっ」

 言葉の途中で万次郎は何かに気付いたのか、わたしの背後、奥の方を見て小さく声をあげた。まだわたし話してるじゃん、と思いつつも、わざわざ改めて言うほど大事なものではない。そしてわたし自身、そんな自分のことより彼の見るものが気になってしまうのだ。

「ようタケミっち」

 振り返る。そこには金髪リーゼント、けれど体格はとてもじゃないけど不良とは言えないような男の子。その彼はどこか見覚えがあった。タケミっち、そう呼ばれた彼は、確か喧嘩賭博と呼ばれる趣味の悪い催しでボコボコにされていた人だ。万次郎が興味をもった、あの、真一郎くんに似てる、……かもしれない人。その隣にはかわいらしい女の子が少しだけ身を縮めている。ドラケンが彼女をヨメと言ったことから考えるに、ふたりは何も知らないタケミっちを集会に呼び出して、あの女の子もついてきてしまったといったところだろう。
 ヒナちゃん、と呼ばれた女の子は、しかし何故かこの前はゴメンな、と近づいてきたドラケンに謝られていて、わたしは思わず眉をひそませる。

「え、二人ともさっそく迷惑かけたの?」
「うっせーワケありなんだよ」

 わたしも彼らに近づいて半分文句のようにドラケンに言えば、エマちゃんに向けた笑顔とはまるで違う表情と雑な言葉か返ってくる。はあ、とため息をついていれば、タケミっちがわたしを見てあ、と声を漏らす。

「あのときの子」
「あ、うん。みょうじなまえです」
「タケミチくん知り合いなの?」
「前にちょっと……」

 そんなやり取りを繰り広げる二人を前にしながらも、ドラケンはヒナちゃんのためを思ってだろう。先ほど駆けていった彼女の方に顔を向けて叫んだ。

「オイ! エマ!!」

 その名前が彼女の耳に届いた瞬間、他の女の子たちと話していたエマが間延びをした返事をしながら再びこちらに近寄ってくる。呼ばれたエマがふわふわと嬉しそうなこと、ドラケンは気づいていないんだろうなあ。

「このコタケミっちのヨメだから。しっかり守っとけ」
「りょ〜か〜い」

 こういうとき護衛係を頼まれるのはいつもエマだ。わたしだってたまにはそっち側に行きたい。けれどわたしの定位置は総長と同じ高さの脇の方。わたしはいつも集会に来ているわけじゃないし、メンバーでもないし、何より恥ずかしいから正直あそこはやめてほしい。他の女の子たちがいるところに行けば、わたしもエマみたいに他の子たちとも、ヒナちゃんとも仲良くなれるかもしれないのに。
 もやもやとした考えが頭に渦巻く。そんなに気にしているわけではないし、絶対嫌というわけではないけれどね。しかしそんなことを思っていたわたしの思考は、次のエマの発言に一瞬にして戻されることになる。

「よっいくじなし君♡」