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いつも通っている道なのに、違う世界に迷い込んでしまったかのように感じた。太陽が昇ってまだほんの数時間しか経っていない休日の住宅街は、まるで住んでいる人が誰もいなくなったかのように静かだ。それが少しおそろしくて、心地いい。
頬を撫でる風はもうセミが鳴く季節と思えないほどひやりとしていて、その冷たさを味わうように大きく息を吸い込む。さっきまであんなに眠たいという感情で頭が支配されていたのに、こうするだけで口元が綻んでしまうのだから、我ながら至極単純だ。都会育ちのわたしにとって最高においしい空気だと思うけれど、そんなことを地方に住んでいる人に言ったらきっと笑われてしまうんだろう。
ペダルを踏みこんで、回し続けてからニ十分といったところだろうか。ようやく見えてきた目的地にふう、と息を吐いて、わたしは「佐野」と書かれた表札の前で自転車を停めた。万次郎とエマ、そしておじいちゃんが住むこの家にはよく足を運ぶけど、せめて徒歩で行けるくらい、もう少しわたしの家と近かったらなと思う。幼馴染というと家が近いと誤解されがちだが、実際は通う中学が違うほど距離が離れているのだ。じゃあ何故幼馴染なのか、それはここが彼らの「家」であると同時に、わたしが小学校まで通っていた「道場」であるからだった。
「おはよ〜! 来たよ〜!!」
既に敷地内に入り込みながら叫べば、すぐさま母屋から声が聞こえてくる。
「マイキー起こしてきて! もうご飯出来てるから!」
朝から彼女の声は可愛い。けれど返ってきた言葉は予想通りで、わたしは事前に用意しておいた了承の返事を叫ぶ。出来ることなら驚きつつ、そうなんだ! とでも言いたかったところだが仕方ない。万次郎が勝手に起きてくれていればいいというのは淡い期待でしかなないのだ。そもそも彼がそんなことを出来ているなら、エマが彼を起こす声も、ドラケンが平日に朝からくる必要もない。わたしだって別に今日、朝からくる必要なんてなかったよ。
母屋を素通りして万次郎の部屋である離れに向かう。そうしてその扉の前にたどり着くと、わたしは気合を入れるように頷いた。
なんだか、先ほどからこの家に住んでいる男と付き合っている女として信じられない発言をしているのかもしれない。いや、わたしだって万次郎には会いたいよ。けれど寝起きのお世話はしたくない。だって、だってこの男、
「万次郎〜! 朝! 朝だよ! 起きろ〜!!」
驚くほど寝起きが悪いのである。パンッ! と壊れるんじゃないかと思うくらいわざと大きな音を立てながら扉を開けて、わたしはずんずんと中へ入る。ベッドを見やると、万次郎は起きたのか起きてないのか、ぼろぼろのタオルケットにくるまれながらンン、とくぐもった声をあげた。
「なまえ……?」
「そーだよ来たよ! ほら起きて! エマがもうご飯出来てるって言ってたよ!」
すっかり端の方に追いやられている掛け布団を畳みなおしながら先ほどのエマの言葉を伝えるが、万次郎はちらりと薄目を開けただけで、またすぐに閉じてしまう。これで起きたら苦労しないよね。まーんじろーと何度も声をあげるが、やっぱり彼は起きる気配なんてまるでない。横向きになっている身体をゆさゆさと揺さぶれば、万次郎はまたうっすらと瞳を開けてわたしを見て、そして憎らしく呟いた。
「なまえがちゅーしてくれたら起きる」
「前それやって起きなかったじゃんもう信じないよ」
間髪入れずにそう答えれば、ええーと少しにやけていた口元が歪む。この人完全に起きてるな。とはいっても私が提示された条件をこなしたところで、すんなり身体を起こすとは思えない。前なんて何度してももう一回をせがまれてキスを繰り返していたところ、あまりにも遅いと痺れを切らしてやって来たエマにその光景を見られたことがある。今思い返しても穴があったら入りたい記憶だ。
とにかく一度やったことはもう二度と繰り返さない。わたしはひとつ大きなため息をつくと、やだやだとぐずる万次郎を置いて再び部屋の出入り口へと足を運んだ。
「万次郎起きないならわたしもう帰るからね!」
きっとこの後の行動は二択、言うことを聞いて起きるか、拗ねるかだ。まるで子ども騙し、中学三年生の男がそもそもそんな反応をするかと普通は思われるだろうが。
「ごめん起きる! 起きるって! つかんな怒んなよ〜そもそもオマエがウチ来たいって言ったんじゃねェか」
この男はしっかり反応を見せてくれるのだ。しかも今回はわたしが期待した方のやつ。慌ててベッドから飛び起きただろう万次郎ががばりと後ろからわたしに抱き着く。いや、抱き着くというよりしがみつくといったほうが正しいだろう。わたしは扉に賭けていた手を下ろし、背中にかかる重みを感じながら振り返る。ぼさぼさでまるでライオンのように爆発したピンクゴールドが、タオルケットと一緒にわたしを包んでいた。
「確かに映画借りたから一緒に見ようって言ったのはわたしだけど、こんな朝っぱらを指定してきたのは万次郎だからね」
ほら朝ごはん食べ行きな、と彼をわたしの身体から引っぺがして急かすと、なまえは? と聞かれる。わたしは家で食べてきたから早く行きなさい、と母親よろしくぴしゃりと告げれば、万次郎も渋々と部屋を出ていった。
確かに誘ったのはわたしだった。土曜日一緒にDVD見ない? って。けれど万次郎は午後からドラケンに誘われていて予定があるらしく、そうなると午前しか空いていないわけだが、映画ともなると朝早くから準備しなくちゃいけない。じゃあ今度にしようというわたしの意見を聞き入れずにオマエが早くウチ来ればいーじゃん! という彼の言葉には呆れたものだった。が、それに結局頷いてしまったわたしも、相当絆されているのかもしれない。
*
映画を観終わったお昼過ぎ。家に帰るはずのわたしを万次郎が引き留める。なまえも一緒に行こうぜと聞かない彼に渋々とついていってドラケンに会えば、じゃあ昼メシ食うかと提案された。ということで、今は三人で行きつけのファミレスに来ている。
わたしの隣に座っていつも通りにお子様セットを頼んだ万次郎は妙にご機嫌で、セットについてきたチープなおもちゃを手でいじくりまわしながらドラケンと会話を交わしている。が、万次郎の機嫌が変わるのは一瞬だ。
「旗が立ってねーじゃん!!」
先ほどまであんなに楽しそうだったのに、今ではすっかりむくれっ面である。お子様セットのチキンライスに刺してある旗に、わたしも確かに幼いころはテンションがあがっていた。けれどだからといって旗が刺してないことを理由に騒いで店員さんを呼び出したりはしなかったと思う。そもそも普通は小学生以下にしか提供していないメニューなのに、特別に注文させてくれているというだけでこっちは申し訳なさでいっぱいなんだけど。
それでも声を聞いて駆けつけてきた店員さんが謝るのと同時に、どこからともなく旗を取り出して万次郎の機嫌を取ったドラケンはさすがだと思う。わたしには出来ないよその所業。わたしとドラケンで店員さんに謝っている間も既に万次郎は食べ始めていて、本当にこういうところ自由だなと思う。まあ、そんなことにはすっかり慣れているから、別に特別嫌になることはないんだけど。
落ち着いてから、ようやくわたしも一緒に来たデミグラスソースのオムライスに手を付ける。とろけた卵にスプーンを差し込めば、そこから温かい湯気がほわりと飛び出す。まだまだ冷めていないそれを口へ運ぶと、デミグラスソースの旨味とチキンライスの甘酸っぱさ、そして卵の甘みがいっぱいに広がった。
「なーオレもソレ食いたい」
「あーそれオムライスじゃなくてただのチキンライスだもんね。いーよ」
当たり前のように口を開けた万次郎に、一口大のオムライスをスプーンですくって差し出す。一瞬にして口の中に飲み込まれたそれに、きっと彼も同じ感情を抱いたのだろう。もぐもぐと口を動かしながらうめ〜! と笑う万次郎に、だよね、とわたしもまたつられて笑みをこぼした。
「あ、ねえドラケンのハンバーグも一口ちょうだい」
「おー切ってそっちの皿移してやる」
「あ! ずりぃケンチンオレも!」
「わーってるからマイキーは騒ぐな」
こういうやり取りはもう何年も変わらなく続いていて、同時に居心地よさがあって、万次郎が今日誘ってくれて良かったな、と少し思ってしまった。
けれど、今日のわたしが彼らについていけるのは、お昼ご飯までだ。
「なまえ、悪ィけど」
ドラケンがそう切り出したのは、万次郎がご飯を食べ終わってから私の膝を枕にして寝始めてすぐのことだった。
「大丈夫だよ、何か用があるんだよね? むしろ先に二人が約束してたところなのに、一緒にご飯食べてくれてありがとー」
へらりと笑えば、ドラケンは寝言といびきがセットになった万次郎をひょい、とおぶる。そのまま二人で出し合って万次郎の分のお会計も一緒に済ませてから、わたしたちは店先であっさりと別れた。
万次郎をおぶりながら悠々と歩いていくドラケンの後ろ姿を見つつ、わたしはわざとらしく大きく息を吐く。さて、じゃあそろそろ、ずっとわたしたち……いや、ドラケンを見ている彼の相手をしようかな。
「で? なんでタケミっちはドラケンを見張ってるの?」
身体を動かさずにそのまま呟けば、ヒッ、と少し離れたところから声が聞こえてくる。うん、ファミレスにいたときからちらちらと金髪のリーゼントが見え隠れしていたよ。恐らくドラケンについていこうとしていたのだろう、声をあげたタケミっちは、ほんの数十メートル離れた建物の陰から恐る恐る顔を出した。
「ま、理由はいっか」
「いや、あの、いつから……」
「ドラケンと会ったときから」
「最初からスか……。あのオレ、ドラケンくんをどうしても尾行しなくちゃいけなくて、だからこのことは、」
「うん、いいよ。ドラケンにも、万次郎にも言わない」
「え?」
するりとわたしの口から出た言葉は、彼にとって意外なものだったのだろう。どうして、と理由を問う彼の質問には答えず、わたしはにっこりと笑った。
「その代わり、わたしも一緒に尾行させてよ」
*
普段はこんなこと絶対にしない。ついていく必要がないし、そもそもなまえはここまで、と切り離された時点で東卍関係のことだと思ったから。けれど今日は、これから始まる抗争、そしてその経緯を聞いたお陰で、彼らがどこに向かうかもなんとなくわかっていた。予想が外れればその時点でわたしは帰る。けれどやっぱり予想は当たってしまって、わたしは今、タケミっちと一緒に病院にいる。
パーちんの親友の彼女の入院先。ひどい怪我と後遺症を負った彼女は未だ目を覚まさずに、治療室の中で眠っている。土曜日の昼間だ、そこに彼女の親がいるのは当然で。そしてそこに「不良」である二人が現れれば、「不良」にやられたと知っている両親が彼らに敵意を向けることも、また当然で。
「……物事の善悪を判断するのは難しいね」
頭を下げた二人を物陰に隠れながら見て呟けば、タケミっちが静かにこちらに視線を向けた気がした。
「なんでも、ひとつの側面では図れない」
わたしは彼らをかっこいいと思っている。彼ら自身もそう思って不良として生きている。けれど一般的に言えば大きく括られた不良という枠組みは世間では良しとされないものであり、個々人がどんな信念を持っていたところで関係ない。それをわたしもわかっているから学校の友達に彼らとの繋がりを隠している。当事者ではないわたしは、それを隠すことなんてまったく抵抗がないのだ。けれどみんなはどうだろう。自分の生き様を隠すなんて、そんな情けないこと出来ない。それが出来るなら、そもそも不良なんてしてない。
だけどこうしてドラケンや、その心を受け渡された万次郎は、一般人が踏み込む世界ではないことをわかって、その覚悟をして頭を下げている。
本当は来てはいけないとわかっていた。不良でもないわたしを巻き込まないように、これ以上踏み込んでこないように。そう線を引いたドラケンの気持ちを、無下にするとわかっていた。それでも行動したかった。
どうしてわたしまで尾行を。タケミっちの問いには答えられなかったけれど、きっとわたしはもっと彼らを知って、心を見て、少しでも寄り添いたかったからだろう。そうでもしないと、わたしはいつかみんなに、万次郎に、置いていかれてしまうんじゃないかと。そう、思ってしまったのだ。