硬くて冷たいコンクリートの上で、今日も目が覚めた。体を起こすと、手首と足首につけられた鎖の金属音が部屋の中に響いた。最初はあんなに動きにくかったのに、もう慣れてしまって日常動作くらいはこなせるようになってしまった。まあ、普通の日常など僕にはないが。一体、ここに来てどれくらいの月日が経ったのだろう。もしかしたら、何か月、何年も経っているのかもしれない。この灰色の四角い部屋に来る前のことは、何も覚えていない。名前も、年齢も、家族や友人、大切な人がいたのかどうかも。僕はなぜここにいるのか。どれだけ考えても、何も思い出せない。からっぽの僕だけがいつも残る。
「おい、8260! 出番だ!」
乱暴に部屋のドアが開いた。この部屋のドアが開くのは食事の時だけだ。今日は早いなと思ったが、ドアを開けた男は食事ではなく、ボロボロの布を持っていた。男は手に持っていた布を脇に抱えて、胸ポケットから鍵を取り出した。
「おとなしくしてろよ」
手首と足首の鎖を男が外す。乱暴に外される様子を眺めながら考える。これから何をされるのだろうか。もしかしたらここから解放されるのか、と思ったがそんなことはなさそうだった。
「これに着替えろ」
男が手に持っていた布をこちらによこしてきた。どうやら布ではなく、服のようだ。おとなしく今まで着ていた服を脱ぐ。あばらの浮いたお腹と棒切れのような手足には、ここから走って逃げられる筋肉はついていない。僕が服を着たのを確認して男はまた鎖をつけた。今度は手首だけだ。
「ついてこい」
何が起きるんだろう、と疑問に思いながらそれでも男に黙ってついていく。今までずっといた四角い部屋から一歩踏み出す。久しぶりに歩いたので、バランスを崩しそうになった。壁に手を添えながら、構わず進む男を必死に追いかける。どこに連れて行かれるのだろう。
見失わないように歩いていると、視界が真っ白になった。眩しくて何度かまばたきする。どこか懐かしくて、楽しくて苦しい、これはなんだろう。眩しいのはライトか。じゃあ、ここは。思わず息をのむ。僕を見つめる無数の目。品定めをするような、何を考えているかわからない目がたくさん並んでいた。ああ、舞台の上だ。それを理解するのに時間がかかった。
「さてさて! 大変お待たせいたしました! こちらは本日最初の商品! 状態は少々悪いですが、容姿は良好! さあ、いかがでしょう!」
そこでようやく何が起きているか理解した。人間のオークションだ。僕は売られるのか。めまいがして、まっすぐ立っていられなくなる。僕を見る目が険しく、遠慮がなくなっていく。体が金縛りにあったように動かない。この中の誰かに買われる。買われた先が安全だとは限らない。殺される可能性だって、
「では、十五から!」
「二十!」
「おい! 三十だ!」
どんどん値段が上がっていく。僕にそんな価値はないのに。……いや、だからこそだろうか。雑に扱って死んでも構わないモノ。所詮、あの部屋の外なんてこんなもんなのか。もしかしたら、あの部屋よりひどいかもしれない。期待して、なんだか惨めだ。そう思ったとき、よく通るきれいな声が響いた。
「……百。二百でも五百でも千でも出す」
「ひゃ、百で落札!」
今までの何倍もの数字が聞こえた。ああ、ついに買われてしまった。一体、どんな人なんだろう。顔を上げて、声がしたほうを見る。その人は今まで座っていた席から、こちらに向かってくる。客席の暗がりからライトに照らされ、その人のことがはっきり見えた。後ろで編んだ緑色の艶のある髪、宝石みたいなピンク色のキラキラと輝く瞳。言葉で言い表せないくらいとても綺麗な人だった。その綺麗な顔が僕の姿を見て歪んだ。その顔でさえも僕には綺麗に見えた。
「久しぶり、夢追」
顔を上げる。それは僕の名前、だろうか。
「……やっぱりな。おまえ、僕のこと覚えてないだろ」
「……え、っと」
僕が何も言えずにいると、困ったようにその人は笑った。こんなにも綺麗な人のことを僕なんかが見ていいのだろうか。見惚れていると、手首の鎖を外された。
「本当に、こいつでいいんですか。もっと状態がいいのも……」
僕を連れてきた男が、鎖を外しながらそう言った。綺麗な人が、手に持っていたアタッシュケースを男に投げた。
「こいつじゃないとだめだ」
なんで、僕じゃないと駄目なんだろう。なぜ、僕なのか。前の僕なら、分かっただろうか。
「いくよ、夢追」
「あ、はい」
もう男に一ミリも興味がないようで、まっすぐ前を向きながら歩くその人についていった。ステージと床の高低差に気をつけて降りる。少し進むと、たくさんの扉が並んでいる廊下にたどり着いた。さっきまでいたところは質素で味気なかったが、こっちは細部まで装飾が施されていて印象がまったく違った。その人は慣れた様子で、僕は少し躊躇いながら進む。奥の一際豪華な扉をその人が開けた。
「加賀美」
今までの堂々とした声とは違う、少し震えた声だった。幼い子どものような。少しでも刺激すれば、はらはらと崩れてしまいそうな声。
「加賀美。夢追、見つかったよ」
その声は、もう完全に震えていた。膝から崩れ落ちそうな体を慌てて支える。
「あ、えっと、大丈夫ですか」
次の瞬間、すごい力で上から抱きしめられた。体が軋むくらい力強い腕に少し戸惑っていると、僕が体を支えていたその人も、こちらにしがみついているようでさらに身動きが取れない。
「あの、?」
話してくれという意味を込めて声をかけても、聞こえてくるのは二人分の鼻をすする音。前の僕はこの人たちと一緒にいたんだろうか。不思議と懐かしさを感じながら、これからどうしようかとため息をついた。