轟が家に来なくなった。当たり前だ。あんなことをさせたのに、寂しいと感じる自分がおかしい。

あの後、シャワーを浴びて戻ると、轟はいなかった。当然、服も鞄も、すべてなくなっていて、まるで夢だったのかと思うが、波打ったシーツがそれを現実だと突きつける。轟が寝ていた場所に手のひらで触れてみたけど、こういうのはせめて可愛らしい女の子だけが許される仕草だと思って、すぐに辞めた。

それから、一度も連絡は取ってない。どう言い訳をしても、許してくれないと思った。友達だと思っていた奴に、あんな風に縋られて、気持ち悪いと思うに決まってる。謝りたいと思うも、轟のことを考えれば、もう会わなくて良いならそれが良いだろうなとも思った。




「ミョウジ? どした?」
「……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「いや全然いーけど。おまえが誘ってくるなんて珍しーし、なんか聞いてほしいことあったのかと思ってさ」

上鳴を飲みに誘って、ちびちびハイボールを飲んでいる間にも、轟のことが頭から離れない。
聞いてほしいこと。これは、俺のこれは、聞いてほしいことに入るんだろうか?むしろ誰にも言わないでおくのが正解だろうな。

「……失恋した」
「……………え?シツレンって、あの失恋か?」
「うん」

そう思いながら、ついぽろっと出てしまうのは、俺の頭の悪さか、上鳴の醸し出す雰囲気がそうさせるのか。どっちにしても、一度言った言葉は戻らない。

「ミョウジも失恋とかすんだなぁ」

からかうような声じゃない。でもしんみりしすぎる声でもない。上鳴は俺があまり話をしないことがわかっていたのかもしれない。どんな人だったんだとか、どういうとこが好きだったんだとかを俺に問いかけて、言いたくないことは追求せずに、吐き出させることに徹してくれた。

俺にだけ見せてくれる柔らかい笑顔とか、好物を美味そうに食べるとことか、うたた寝したときの寝顔とか、仕事の時の強くて気高い立ち姿とか。全部ぜんぶ好きだった。
そういえば、もう会えないけど、テレビで一方的に見ることぐらいは許されるよな。なんて、あいつがトップヒーローになったとき、誰かが隣にいることに耐えられる気がしないくせに。




「今日、付き合わせてごめん」
「いーっていーって!ミョウジの浮いた話とか貴重だもんな〜。そんだけ好きになれる奴ができたんだったら、次もそういう子が現れるって」

明るく笑う上鳴と並んで歩く。大切な友人はたくさんいるけど、その中でも上鳴のこういういつでも明るいところが好きだ。自分の中の嫌いな部分が、浄化される気がする。

上鳴が予約してくれた居酒屋のこの通りは、一本逸れればすぐに夜の街という雰囲気で、ただ美味い居酒屋やバーが多いので、俺もよく外で飲むときには使うエリアだ。まあよくある景色ではあるし、別に気にする筋合いはないので、また何気ない会話をしながら、駅までの道を進む。

失恋だの何だのと言っていたことは少し忘れて、普段より酒の入ったほろ酔いの中で、ふわふわと意識が舞う。頭は回ってないけど、すこしスッキリした気分だった。このまま忘れて前に進めるかもしれないとすら、この時は思っていたから。



それがいけなかったんだろう。あれだけのことを轟にさせておいて、俺だけがこんな風に笑って過ごすなんて。


「……ミョウジ?」


だからこの声が聞こえた時、ああ遂に地獄行きか?なんて本当に思った。隣にいた上鳴が「轟? グーゼンだなー、今上がるとこ?」とその名前を呼ばなければ、どこからが夢だったんだと思ったかもしれない。どれもこれも、いつもより酒が入った所為か。地獄か天国かへ逝く前に、もう一度会いたいと思ってたとか、そんなこと。

「……上鳴。悪ィ。こいつのこと、借りていいか」
「は? ミョウジ? え、轟……、っちょ、今から?」

私服の轟が俺の腕を引く。というより、掴んで引きずっていく、という表現が正しいかもしれない。うまく思考がまとまらなくて、為すがままになる。いや、それも言い訳か。このまま何処かへ連れ去って、思い切り罵倒して、軽蔑して、何発かぶん殴ってくれたら、どれだけ。
「大丈夫だから先帰ってて。ごめんな」となんとか振り返って言うと、上鳴は複雑そうな顔をした。失恋だの何だのと俺が言ったから、何か察したのかもしれないけど、それでも何も言わない優しさが、今はありがたかった。



轟が引っ張って行った先は、所謂ラブホテルだった。それも、かなり高級な価格帯の。マスクをしてるだけの俺の、パーカーのフードを目の下まで被せて、チェックインを済ませる。慣れてんな、誰かと来たことあんのかな。聞いてみたいような聞きたくないような、そんな心地だった。

部屋についたところでようやく、とどろき、と名前を呼べば、ベッドに投げられた。その行動は轟にしては手荒で、背中はとてつもなく柔らかいマットレスで守られて少しも痛くないのに、心臓はじくじくと痛んだ。

「あのまま、上鳴と、どこへ行くつもりだった?」
「え、」
「───誰でも、良かったのか」

俺の上に跨った轟が言う。逆光で表情がよく見えない。喉が震えたような声がまるで泣いてるように聞こえるのは、たぶん気のせいだろうな。あの冷静な轟が、良くも悪くも無頓着な轟が、俺を相手にそうなるとしたら、怒りが込み上げるくらいのもんだろうから。
それなら、あの場で一発殴ってくれればよかったのに。あのあとはただ帰るだけのつもりだったから、それでも良かったのに。

「轟、あの」
「うるさい」
「っ、」
「おまえ、俺が、俺がどんな気持ちで、おまえのことを抱いたか、わかるか」
「………」
「あんな形でも、ミョウジに触れられて、嬉しかったのに、幸せだったのに、……幸せで苦しくて痛くて、恥ず、くて、なのに、俺だけがそんな気持ちだったのか」

は?
……………………は?
轟の言葉に理解が追いつかず、意味のない日本語ばかりが頭に出てくる。嬉しかった?幸せだった?それは俺の台詞で、俺だけが感じていたことの筈で。なのに轟のさすW俺Wとは間違いなく轟自身のことで、だめだ混乱してきた。

「おまえ『ごめん』ばっかり言うくせに、だんだん、俺のことどうしてぇんだって声で、普段呼ばねぇ俺の名前呼んで、最後のほうはずっと、好きだって、言って、」
「は……!?っと、轟、」
「好きな奴のこと抱きながら、何回も名前呼ばれて、すきだすきだって言われて、もっとって強請られて、おまえはそんなつもりなくたってこっちは止まらないし、なのに朝起きたらお前はいないし、置き手紙なんかでまた謝る。……仕事しててもお前のことばっかり考えて、おまえ慣れてたから、こういう、男相手にする店とかに行ってたらどうしようとか思って、けど見つけたってどんな顔で会えばいいかわからねぇから、それで、……なのにおまえは上鳴と、」
「〜〜〜ッ、焦凍!!」

ぴたり。ヤケになって名前で呼べば、轟がようやく言葉を止めた。珍しく支離滅裂だったから、もう訳が分からないけど、言いたいことは色々あるし、いやその前に顔が熱すぎてこのまま溶けそうだ。でも、とにかく伝えておきたいことがあるので、言葉を整理する。

目が慣れてきたからか、変わらず俺を見下ろしたままの轟は、少し戸惑った顔をしている。その後ろに見える無駄に洒落た天井が不釣り合いだ。普段は冷静そのものな顔が今、赤いのは気のせいだろうか。

「……あの、さ、きいて、轟」
「……なんだ」
「あー、えと、とりあえず上鳴とは飲んでただけで、たまたま店がああいう場所だっただけだし、さっきはそのまま帰ろうとしてた、から」
「…………は?」

轟は俺の言葉の意味が分からないようだけど、俺も轟のさっきの言葉の意味が分からないので、お互いに静止する。「ちょっと落ち着いて考えたいから離れて」と言うと、轟は大きな大きなため息を吐き、そしてごろんとベッドの横にころがって、そっぽを向こうとした俺を後ろから抱きしめた。

「ちょ、とどろ」
「すきだ」
「き……、………!?」
「あんなのが無くても、俺はずっとミョウジを抱きたいと思ってた」
「………うそ、だ」
「……いくら友達の頼みでも、たとえあんな風に誘われても、他の奴なら断ってる。誰の言うことでも聞くほど、俺はお人好しじゃない」

知ってるだろ、と耳元で囁かれて、ぞくぞくと背中が震えた。都合の良い夢、そうだこれはそういうものだと思いたい。そうでなければ、これが現実なら、さっき轟が言ってた俺の言動は、愚行は。

「────死にたい」
「……ふざけんな、そろそろ怒るぞ」
「いや、そういう意味じゃないから、ごめん、」
「また謝んのか。あの時も好きって言い始める前はずっと謝って、」
「〜〜〜っあーーー頼むからもう黙って……」

何を言おうが轟はなかなか納得せず、背中に体温を感じながら、ああだこうだと言い合う時間が続く。本当にもう二度と会えないし話せないと思っていたから、まだ信じられない。
ただとりあえず自分の気持ちを伝えようとして、高校のときからずっと好きだった、と言ったら、後ろの気配が分かりやすく固まった。轟は「全然気付かなかった」と零した。俺の片思いの長さに驚いたんだろう。墓まで持って行こうとしてたんだから当たり前だ。

「───俺も、好きだ。俺の恋人に、なってくれるか?」

向かい合う体勢になって、轟が良いなら、と答えれば、ぎゅっと抱きしめられた。心臓が痛い。あの夜に付けられた鬱血痕はまだ残っていて、これも甘い毒みたいだと思った。