俺は後悔なんざしねぇと思って生きてきた。

人生で一度だけあるとしたら、それは敵に拐われたことで、あの時はそのせいでオールマイトが隠したかった秘密が世間に露呈したと思ったから、そもそも俺が拐われてなんかいなけりゃ、と死ぬほど悔やんだ。そう、後悔なんて名前のつくモンはそれくらいだ。

だから、今、病室で白いベッドに横たわり、数え切れない管を繋がれて、波打つ機械が心臓の動きを、生きてることをわざわざ知らせなきゃならないような、そんなこいつを見て、久しぶりに思い出した。コレが、後悔ってやつだったと。



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喧嘩の原因なんざ、まあまあくだらねぇことだった。俺にとってはそれぐらい些細なことだったと言える。ただ悪いのはどっちだって、0か1かで答えるとすれば、たぶんあいつが0で俺が1なんだろう。

「………わかった。もういい」

普段穏やかで、俺が何を好き勝手やっても笑って許すような、そんなあいつが、そんな態度でそんなことを言うもんだから、俺の心には多少なりとも焦燥はあった。あったけど、それでも俺は謝らなかった。謝れなかった。

ただの事務所の飲み会だったって、後輩やらよその事務所の奴やら複数人いて、たまたまその内の一人の女と撮られただけだって、そう分かりやすく伝えたかったが、そんぐらい言わなくても分かれや、俺が今更てめぇ以外に靡くと思うんか、という苛立ちも、あって。

何をどう言えばいいか分からなくて、今日の晩飯にあいつの好きなもんでも作って、それでチャラにしろと言おうと思っていた。

そう、とにかく、俺たちは珍しくそこそこマジな喧嘩をして、あいつは俺と目を合わせないまま、仕事をしに家を出て行った。いつもなら、行ってきますと言うあいつに、「気ぃつけて行ってこい」と言うか、返事の代わりにキスのひとつでもくれてやるところだったが、張った意地を引っ込ませられなかった俺は、あいつを玄関先で見送ることはせず、あいつも無言でドアを閉めた。

──────特別な何かがあるわけじゃない。元々、言霊だのジンクスだの何だのは、信じちゃいない。ただ、「行ってきます」にはW行って 帰ってきますWの暗示が、「行ってらっしゃい」にはW行って 帰ってこいWの暗示があって、「気をつけて」の言葉や出がけのキスは、交通事故なんかの確率を減らす効果がある、とか。そんなことをあいつが笑いながら言ったから、それに習っていた。俺にとってはただの、願掛けだ。

そして俺はこの日、初めてその願掛けを怠った。







あいつが仕事で自分が休みの日は、ランニングしたり、買い物行ったり、持ち帰った仕事を片付けたり、それなりにやることがある。ただこの日は頭が回らず、山にでも登れば気分もスッキリするかと思って、軽装備で家を出た。

晩飯のこともあるから遠出はできず、選択肢は限られてくる。結果、そんなに準備の要るような登山コースでもなく、高さも大したことない普通の山になった。そもそも普段から鍛えている自分からすれば、汗もあまりかかない程度。けど、山頂から見た拓けた景色はやっぱり綺麗で、あいつにも見せたいと思った。

その景色の写真を撮って、数枚それをチェックしたら、滅多に撮らないスマホの写真フォルダの中には、あいつの写真ばっかりあって、それは自分でもキメェと思う。寝顔、横顔、料理してるとこ、映画のDVD見て涙目になってるとこ、風呂上がりのアイス食ってるとこ、寝落ちしそうになってるとこ。あとは、あいつのヒーロー活動が特集された番組とか、イヤイヤやらされたと言ってたCMとかのテレビ画面。

時々、俺がカメラを構えてんのに気付いて、こっちを向いたカメラ目線の間抜け顔もあるけど、大概が黙って撮った、まあ、普通に言えば隠し撮りだ。

──どうせ撮るなら、勝己も一緒に写ろうよ。

撮ったのがバレたときにあいつはよくそう言ったが、俺は拒否した。自分の顔なんざ見なくていい。あいつだけ、ナマエだけ写っていれば、それで良いからだ。




登山終わりに、近所のスーパーに寄って、あいつの好物であるチキン南蛮を作るための材料を買い込んだ。ちょっと良い鶏肉を選んでやる。卵も、ちょっと値段の高いやつ。そこそこ手の込んだものを、結構ちゃんとした材料で作る。一人暮らしならそこまでしねぇ。全部、あいつと住んでるからだ。一緒に住んでんのが、あいつだから。

俺が作るもんは美味ぇに決まってんだから、だから、機嫌直せよな。お前が仕事から帰ってきて、一緒にメシ食って、素直になれたら、悪かったって、俺はお前しか見てねぇんだって、言葉でも伝える努力をするから。








夕方に家に着いてすぐ、リビングのテーブルの上の端末が光ってることに気付く。仕事用のそれを忘れて行っていたことに、この時気付いた。すげえ数の着信が入っていて、知らない番号も数件あるが、あとはほぼデクからだ。相手がデクだと無条件でイラつくとこだが、これだけ連続となれば流石におかしい。
とりあえず最後に着信のあったデクに折り返す。1コールも経たないうちに繋がって、「もしもし!?」と焦ったような声。

「かっちゃん!あの、あの実は……ッ」
「落ち着けやデク、何かあったん、」

「ミョウジくんが………っ!!」


いつになく焦った、新たな平和の象徴となった幼馴染の声。動揺なんて言葉じゃ表せられないほど慌てたそいつの口から発せられたのは、恋人の名前だった。

今朝、謝ることも見送ることも、名前を呼んでキスをすることも、何ひとつできなかった、恋人の名前。



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横たわるナマエの手に自分のそれを重ねて、どれくらい経っただろうか。いつもより体温が低く、しかし冷たく硬くはなっていない、手のひらと指先。
こいつは案外ベタなことが好きなタイプで、デートの時は人目を盗んで恋人繋ぎなんてもんをしたがった。


見舞いに来てた他の奴は俺に気を遣って、病室を出て行った。医者が、とても言いにくそうに、救かる見込みは5%以下だと告げた。治癒に限界があり、おそらく目覚めることは難しく、いつ心臓が止まってもおかしくないと。
何を根拠にした数字なんだよ、と俺は思ったが、ほぼ助からないと言うよりも可能性があるように感じる言い方を選んだんだと感じ、医者の気遣いだろうと、納得の意だけ示しておいた。

5%以下。95%以上の確率で、ナマエはこのまま目を覚まさずに死ぬ。


「てめぇ、死ぬんか」


ナマエは答えない。目だって開かない。それどころか、睫毛が震えることも、髪が揺れることも、唇が言葉を発するべく僅かに動いたりすることもない。何も、ない。俺の声はきっと届いちゃいない。

「てめぇが好きだっつってたチキン南蛮作れるように、材料買ったんだぞ。二人分なんか、俺だけじゃ食い切れねぇだろうが」

小さな音はすべて、機械の音で聞こえない状態だから、どんな風に息をしているのか分からないが、きっとか細いんだろうなと思った。いつ心臓がとまってもおかしくない。つまりそれは、呼吸だって同じ。
まだ消えないでくれ、息をし続けていてくれ。その呼吸をせき止めるのは、俺とのキスだけで充分だろ。

「……そもそもあんな、モブ女のことなんざ気にしなくても、俺はお前しか見えてねぇんだよ」

あの写真は違うって、好きなのはお前だけだって、言いたかったのに。目を開けて、その瞳に俺を映すことは、もうないのか? その喉と唇で、俺の名前を呼ぶことは、二度と、ないっていうのかよ。

「聞こえてんだろ、なあ。……なぁ、ナマエ、」

あの時。素直に謝って、誤解だと弁解して、仲直りして、いつも通りに「いってきます」を聞いて「気をつけて行ってこい」と返せたら。靴を履くお前の胸ぐらを引っ掴んで、軽く唇を合わせて「早く帰ってこい」なんて言えてたら。
お前はいつも通り、俺のいる家に帰ってきて、「ただいま」って可愛い顔して笑って、俺の作った飯を美味そうに食ってただろうか。



──「いってきます」とか「いってらっしゃい」とか、あと出勤前のキスとかは、仕事を無事に終えて帰ってくるって暗示なんだって。勝己はときどき無茶するから、俺がちゃんと言ってあげなきゃなあ。



眉を下げてそう言ったあいつを、昨日のことのように思い出せるのに。
心配しなきゃなんねえのは俺じゃなくててめえだろ。無茶してんのはどっちだよ。……いや、そうか、違うな。

その願掛けを、怠ったのは俺。俺がおまえを、守れなかった。おまえはいつも、俺を守ってくれてたのに。



「目ぇ開けろ、ッ、勝手に、置いてくんじゃねえ………!!」



それもこれも全部、謝るから。だからもう一度、俺を見て、俺の名前を呼んで、俺と同じ世界に、帰ってこい。聞こえてんだろ、なぁ。


俺の終わりにおまえはいない

病室に響く機械音はまだ一定で、まるでカウントダウンのようだと、柄にもないことを思う。自分の嗚咽でそれが途切れ途切れにしか聞こえないことは気にくわないが、泣こうが喚こうが、此処にいるのは俺とおまえだけだから、別に構わねぇか。

2019.05.26