素数を数えるなんていうのは、ただの比喩だと思ってた。そんなことをしなければならないほど自分を保てないのなんて、親父を前にして苛立ちを隠せなかった時くらいだし、それも、プロヒーローになった今は無い。
だから、自分は別にそんな心境とは無縁だと思ってたのに、今、俺は正に素数を数えている、いや、必死になって数えようとしている。


2、3、5、7、9、11、13……違う9は素数じゃない、13、17、じゅうきゅ……いやちょっと待てやっぱりそれどころじゃない。なんかこいつ良い匂いがする、なんでみんなと同じように酒を飲んでるはずなのにこんな、待ってくれこれ以上もたれかかるな、ああでも他の奴の方に行くくらいならこのまま自分に来てくれた方がいい、けど、でも。

脳内でずっと誰かと喋っているような感覚だけど、他の誰も振り向かないからたぶん独り言は言ってない。飲み会は3時間コース、左腕の時計は開始から2時間半を指している。まだあと30分もあるのか。もちろん不幸なんてことはないが、ある意味絶望はするしかない。


ミョウジは俺の初恋だった。高1のときに同じクラスになり、半年後くらいに告白した。あれは秋頃、10月くらいだったように思う。

「ミョウジ、俺、お前のことが、好きなんだ」。告白の台詞は今まで自分が言われる側として何度も聞いたもので、本当に一様に同じ言葉を言われたものだが、いざ言おうとすると他に思い浮かばなかった。
心臓が壊れるんじゃないかってくらい早鐘を打つ。中学の頃に俺にこう言った女子たちは、みんなこういう感じだったのだろうか。中学生でこんな死にそうな経験をするなんて、女子って強いんだな。

ミョウジはぽかんとして固まったあと、少し照れたような顔で笑った。ダメだかわいい抱きしめたい、と無意識に伸びかけた手を、なんとか抑えたことを覚えている。

「俺も轟のこと好きだよ? なんか照れんね、改めて友達に好きって言われると」

ものすごくかわいい顔でそう言ったミョウジにはそれ以上の感情はなく、ああ俺の胸にあるこの暴れまわるくらい大きな恋心とは違う種類の愛情なんだなと思った。






失恋しきれないまま燻ったミョウジへの恋は、今も俺の中にある、のに。

あのとき触れたくてもなかなか触れられなかったその愛しい生き物が、酒で酔っ払って俺に寄りかかってくるなんて、誰が予測できたことか。夢なら醒めてほしい、いや、やっぱり醒めないでほしい。

少し目線を落とせば、俺の肩にもたれて眠るミョウジの、長い睫毛が見えた。


「ミョウジ完ッ全に寝てんなぁ」
「いつものことだろ」
「まぁそうだけど、轟動けねぇじゃん。ミョウジ〜起きろ〜」
「ほっとけや、どうせ起きねェだろが」

切島、爆豪、瀬呂が口々に言う。ちなみに上鳴はもう出来上がっていて、常闇のテーブルで笑い上戸だ。

いつものこと、と爆豪が言った。羨ましいと思った。ミョウジがこいつらと仲が良いのは知っているし、きっとよく飲みに行っているんだろう。俺は、プロヒーローになってから、仕事以外で会ったことはほとんどない。ミョウジはきっと誘えば頷いてくれるだろうか、誘えない俺が悪いけれど。

俺を気遣って、切島がミョウジを引き剥がそうとするのを、咄嗟に腕で抱えて抱き込んだ。温かい。俺の半身は、熱くなりすぎていないだろうか。ちゃんと自分を制御できているのか、それだけ心配になる。

「……轟?」
「…………わ、悪ぃ。なんか、触らせたくねぇと思っちまって」
「……あー……」

まあお前が良いなら良いよ、と切島は笑った。相変わらず、優しい奴だ。

▽▲▽▲▽

結局ミョウジは最後まで起きず、誰が送っていくという話になって、瀬呂に「轟あんまり酔ってなさそうだし、ミョウジのこと頼むわ。タクシーは呼んどいたから」とあまりにもさらりと言われたものだから、二つ返事で頷いてしまった。そして、事の重大さに気が付いた。

ミョウジの家の住所を知らないので、必然的に俺の家に連れ帰るしかない。今まで、どんな飲み会や親睦会や打ち上げに参加しても、Wお持ち帰りWなどに興味はなかった。でも今なら分かる。酒を飲ませてでも(俺が飲ませたわけではないけど)、一緒にいたいと思う気持ちが。

▽▲▽▲▽

結果として、俺の家まで運び、とりあえずソファに寝かせた。タクシーの運転手は鍵を開けるのを手伝ってくれた。優しい人だった。

そして改めて考えると、ドッと心臓がうるさくなった。だって、自分の家にミョウジがいるのだ。夢でもなければ幻覚でもない。赤い顔ですうすうと寝息を立てるミョウジは本当にかわいくて、ソファのそばにしゃがみこんで十数分が経過した。何時間でも見ていられる。写真を撮ったら怒られるだろうか、誰にも言わなければバレないのでは、なんて、普段なら我慢できるところも色々とタガがはずれてしまう。自分の気持ちが制御できなくなっているのが、自分でも分かる。酒の所為にしてしまいたい。だってこんな機会、きっともう二度と訪れない。

キスしたい。抱きしめたい。名前を呼んで、名前で呼ばれたい。

──ミョウジに、……ナマエに、さわりたい。

「ん……っ」
「!」

ミョウジがあまりにも急にやたら色っぽい声を出したものだから、俺が無意識のうちに何かしたのかと思った。今の自分ならやらかしかねないと思ってひやっとしたけど、唸っただけだったらしい。とりあえず頭を冷やそうと、立ち上がった。

いや、立ち上がろうとしたけど、それは叶わなかった。俺の服の裾を、ミョウジの指が掴んでいた。

「……、ミョウジ、起きたのか?」
「……とどろき、?」

努めて冷静に話しかけたけれど、とろんとした顔で舌ったらずに自分の名前が呟かれたことで、早くも色々な何かが決壊しそうになる。いや待て、相手は酔っ払いだ。何をされても何を言われても、深い意味なんか無い。

だから俺は落ち着かなければならない。こうやって家にミョウジがいるだけで奇跡なんだ。ここからどうこうしようなんて、世間一般のお持ち帰りと同列に考えてはいけない。再び素数でも数えてみようかというところで、ミョウジがソファから起き上がろうとしてふらついたので、慌てて支えた。距離が近くてもう他のことを数える暇すらない。

そんな俺に、あろうことかミョウジは抱きついてきた。待ってくれ頼む。無理だ。色々と。

「とどろき。あのとき、ごめんな」
「……あの、時?」
「おれ、はずかしくて、ごまかしちゃって……」
「悪いミョウジ、何の話、」
「こくはく、うれしかった」
「!」
「おれもすき、だよ、いまさらごめんな」
「は、え……、え?」
「ゆめだったら、いえるのになぁ……」

そのまま言葉は途切れた。ミョウジの身体の力が抜けて、俺に寄りかかる形で、すうすうとまた規則正しく聞こえる寝息。

俺がいるこの状況を、夢だと思ったらしい。いや、そもそももっと前に、大事なことを言われた気がする。

「……この酔っ払いが……」

そう悪態をつかなければ、酔っ払いの戯言だと思い込まなければ、朝まで何もせずやり過ごすことなんて、できそうにない。

とりあえずミョウジを自分の寝室に運んでベッドに寝かせ、俺は毛布だけ引っ張ってリビングのソファで寝ることにする。俺のベッドでミョウジが寝ているというのは色々とやばい気はするけど、好きな奴をソファで寝かせて自分がベッドで寝るなんて、そんな選択肢はない。

朝になったらもう一度、さっきの言葉を聞いてみよう。そう思って横になったは良いが、自分の部屋でミョウジが寝ていると思うと眠れない。何度目を瞑っても、時間は少しも進まない。夜というのはとても長い時間のことを指すらしい。

宵の隠し子


寝ても寝なくても、伝えても伝えなくても、平等な朝がやって来るのだ




2020.12.16