七海さんが俺に一線を引いているのは知っていた。

 何をした覚えもないけれど、何となく俺と深く関わるのを避けているのが分かる。もともと淡白な人だから、周りから見るとその他の人たちへの態度とそう変わらないかもしれない。ただ、俺がつい七海さんを目で追って、七海さんを視界に入れ続けてしまっているから、違いに気付いてしまうだけ。

 五条さんによると、俺は学生時代に亡くなった七海さんの友人に似ているらしい。見た目は黒髪が同じなだけだけどそんなところじゃなく、纏う雰囲気がとても似ているのだと、そう言った五条さんはアイマスクをしていて目元は見えないのに、懐かしそうに目を細めている気がした。
 きっと、善い人だったんだろう。五条さんにとってもかわいい後輩だったのだろうし、七海さんの学年は二人だけだったといつか誰かから聞いたことがあったから、きっと特別な友人だったはずだ。

「俺、七海さんのこと、好きなんです」

 だから告白したのは、付き合いたかったからじゃない。ただほんの少しだけ、この感じる距離を縮めたかっただけ。俺が似ているのだというその人はきっとこんなことは言わなかっただろうし、こんな馬鹿なことを言わなくても唯一無二の友人として側に居られただろうから。
 だから、特別な関係になるとかそんな烏滸がましいことじゃなくて、その人ではなく自分を見て欲しかっただけ。

「……申し訳ありませんが、君の気持ちには答えられません」
「大丈夫です。ただ伝えたかっただけなので」

 同性からの気持ちなんて伝えたら、普通の人なら逆に避けられるだろうけど、この人はなんだかんだ優しいから、俺の気持ちを無下にはできないことは知っている。案の定、七海さんは複雑な顔をして「そうですか」と言った。困らせてごめんなさいと言うと、「恋愛は自由なものですから、君が謝ることではないでしょう」という返事だった。優しくて真面目な七海さんらしい言葉だと思った。

 それからも当然、関係は変わらなかった。七海さんにとって俺は、4つ下の後輩。ただの準一級術師。ビジネスパートナーのうちの一人。それでいい。いつ死ぬか分からないこの呪術師という職業、言えることは今のうちに言っておきたい。
俺は気持ちが吹っ切れて七海さんに前よりも話しかけやすくなったし、七海さんだけを追いすぎていた視線を他にも向けることができるようになって、交友関係が広がった。
 五条さんも、そのうちの一人だと言っていい。

「ね、なまえ。それ一口ちょうだい?」
「はい、どうぞ」
「……いま僕、相当カワイイ顔したはずなんだけどなぁ。もうちょっと何かないのー? あーんするとかさぁ」
「? 五条さんはいつも格好いいですよ」

 五条さんにお茶しようと誘われて、コーヒーとミルフィーユを食べている。向かいに座る五条さんはもはやコーヒー味の砂糖水と言えなくもない飲みものと、ショートケーキとモンブランを食べている。甘党仲間が他にいないんだと五条さんは言うが、実際にはたぶん甘党な人であっても五条さんと出かけようと誘う人間も、誘われて安易に頷く人間もなかなかいないのだと思う。

 五条さんの方にミルフィーユのお皿を寄せてふとスマホを見ると、七海さんから着信があって驚く。「もしもし、七海さん?」慌てて電話を取って席を外そうとすると笑顔の五条さんが向かいから手を伸ばして、スマホを持っていない方の手を掴んだ。

「七海からなんて、どーせ任務のことでしょ? すぐ終わるだろうし此処で電話していいよ」

 五条さんは何が面白いのか、クスクスと笑いながら俺の指にその長い指を絡めた。動けなくなったので座り直し、再度電話に集中しようとしたところで、七海さんが言う。

『……みょうじくん、今、どこに居ますか?』
「…………え? あ、えっと、駅前の喫茶店です」
『そうですか。任務の打ち合わせがしたかったのですが、電話より会って話す方が早いのでそちらに行きます。喫茶店の位置情報だけ送っていただけますか?」
「えっ、いやそれなら俺がそちらに、」
『では』

 七海さんは珍しく俺の言葉を遮り、電話を切った。とりあえずこの店の場所を送るべくメッセージアプリを起動すると、七海さんから何通かメッセージが届いていた。俺の返信がなかったから電話をかけたらしい。
 それにしても、合同任務の予定なんかあったかな? そう思いつつ位置情報を送ってスマホをテーブルに置くと、そこでようやく五条さんの指が離れた。

「七海は何て?」
「あ、今から此処に来るそうです」
「そーなの? んじゃ、僕もたまには先輩らしいことしよっかな〜」

 五条さんはよく分からないことを言って、またケーキを食べ始めた。俺はそれに首を傾げながら、コーヒーを一口飲む。任務以外で七海さんに会えると思っていなくて、時間差でそわそわと落ち着かない気持ちになる。
 十数分後、五条さんがテーブルに諭吉の顔が描かれたお札を一枚置いた。明らかに多すぎるそれを返す暇もなく五条さんは立ち上がり、座って見送るわけにも行かないと思って立ち上がった俺を振り返ったと思ったら、サングラスを一瞬で外して近づいた顔、そして唇の端にぬるりとした感触。

「クリーム付いてたよ」
「え、あ、ありがとうございます……?」
「っくく、あー面白い。じゃあねなまえ、またデートしようね」

 語尾に星マークでも付いていそうな五条さんと入れ違いに店に入ってきた七海さんは、五条さんにとても険しい顔をしていた。もともと七海さんは五条さんのことを尊敬していないと言っていたし、その表情に特に大きな意味はないだろうけど。





 初めて告白してから半年が経った頃、七海さんと一週間ほどの出張任務に行く日がやってきた。元々は別の一級術師とのペアだったけど、任務でブッキングが起こったらしく七海さんに変更になったのだと、あの日の喫茶店での打ち合わせで聞かされたのだ。

 出張任務なので当然泊まりだし、男同士なので手配されるホテルは一部屋だ。七海さんと長く一緒にいることは落ち着かず、同じ部屋で眠ることも緊張するけれど、なるべくそれを表に出さないよう努めた。

 そうしてすべての任務を終え、明日の朝にチェックアウトして帰路に着く、その夜。部屋でお酒でも、との誘いを受けて少しだけ酒を買って部屋で飲んでいる時、七海さんは言った。

「君は、今も私のことが好きなのですか」

 七海さんが問いかけるにしては、不思議な質問だと思った。効率の良し悪しで物事を考える人であるはずで、今のその質問には七海さんのメリットは無いように思えたから。

「はい」
「……君の好きとは、私と恋人になりたいという好きですか?」

 それでも素直に答えると、続いた質問も意図を図りかねるものだった。『好き』の種類で言えば、確かにそうだ。けれど俺は伝えたかっただけだと言ったはずなのに、どうしてそれを再び確かめるんだろう。

「七海さん、酔ってます?」
「……そうかも、しれませんね」

 疲れているところにアルコールが入った影響だろうか。七海さんは俺の手からレモン酎ハイの缶を抜き取ってサイドテーブルに置き、俺の肩を押してベッドに横たえた。

 その日、初めて七海さんに抱かれた。
 組み敷かれて喉元を舌でなぞられれば呼吸が震えた。指先が絡められシーツに縫い付けられ、天井を背にその体躯を見ると、たまらなく腰が疼いた。
 此処はごく普通のホテルの一室だからと、どうにか声を殺した。気持ちよくて幸せで頭がおかしくなりそうな中、七海さんが何を見ているのか分からなかったけど、その眼に映っているのは間違いなく自分だったから、もうなんでも良かった。

 その行為について、最中に七海さんから何かを言われることはなかった。だから別にただの気まぐれかもしれないけれど。七海さんが好きでもない男を抱くタイプには思えなかったから少し混乱したものの、求められるのは素直に嬉しかったから、それに従った。

 ただ朝目覚めて「すみませんでした」と謝られた時は一夜の過ちなのかと思ったけど、それからもこの関係は続いた。

 キスはしない。セックスをするだけ。
 もしかしてあの人と重ねているのかと思って、それからは行為の時に顔を隠すようになった。黒い髪の男であれば誰でも良かったのかもしれない、だけど七海さんが他の人に会っているようには見えなかった。つまり俺だけ。俺だけが七海さんの大切な人の代わりだと思うと、心臓の奥のほんの一部分だけを除いて、その他すべてが満たされる心地がした。










 幸せだった。

 報告よりも強く数も多い呪霊の、その一つに腹を抉られた時。自分の生涯について思ったのは、そんなありきたりなことだった。

「なな、み、さん」

 ゴホ、と咳き込む度に空気とともに血が溢れ出す。七海さんの服を汚したくなんかないのに、喋ろうとする度に血が口の中に迫り上がるから上手くいかない。
 だんだんと暗く見えなくなっていく視界の中、七海さんが俺に何かを言っている。だけど聞こえない。死ぬ間際になっても声は聞こえているとそう教えられてきたけれど、その限りでは無いらしい。
 ごめんなさい。結局最後まで、迷惑をかけてしまってごめんなさい。

「ごめ、なさい。かわりに、なれなく、て」

 呪術師の命の終わりは呆気なくて、その最期は凄惨なものであることは珍しくない。誰にも看取られず、誰の遺体か分からないほど酷い姿で死ぬことだって多い。だから漠然と自分もそうなるのかな、なんて思っていたけれど、実際はどうだ。好きな人の腕の中で逝けるなんて、なんて幸福だろうか。だけど俺の幸福に反比例するように、七海さんの顔が険しく、つらそうに歪んでいく気がして、ただ俺にそれを確かめる術はもうない。

 大切な人を幸せにできないなんて、俺は本当に駄目な後輩だったなあ。

「すきになっ、て、ごめん、なさい」

 自分自身の声すらもうまく聞こえず、きちんと発音できているのか分からない。ただ七海さんの腕が震えている気がして、精一杯微笑んだ。結局、七海さんを置いていってしまった。そう思ってから、なんて都合の良い考えだと心の中で自嘲した。俺がいようがいまいが、七海さんの人生にそれほど違いはないのに、何を自惚れているのだろう。

 大好きでした、健人さん。
 あわよくば貴方の一番になってみたかった。

 一度も口にできなかったその名前を、その本音を、心の中で数回言葉にした。感覚なんかが遠くに行ってしまったのでわからないけどきっと今も俺は、七海さんの腕の中にいるのだろう。誰よりも幸せだった。願うなら七海さんにも幸せが訪れますようにと思いながら、今度こそ目を閉じる。呼吸を忘れ、心臓の鼓動を置き去りにし、冷たくなっていく体温の中。俺に触れるその温かさに身を預け、命の終わりに包まれた。

 長生きしてください。もう二度と逢えなくても、それでもいいから。



▽▲▽▲▽



「ごめ、なさい。かわりに、なれなく、て」

「すきになっ、て、ごめん、なさい」

 その最期はあまりにも短く呆気なく、そして、困惑と後悔ばかりが渦巻くものだった。

 代わりになれなくて、と彼は言った。
最期の言葉のひとつに選ぶほど、ずっとそう思っていたのだろうか。

 最初は、雰囲気が灰原に似た彼と、深く関わることを避けていた。嫌いであるとか、そういう感情は一切ない。呪術師というのはいつ誰が危ない目に遭ってもおかしくない職業だから、今更亡くなった友を思い出すかと言われればそんなこともないが、ただまるで灰原がいないことを突きつけてくるようなみょうじくんの存在は、なんとなく遠ざけておきたかった。

 そうした筈なのに何故か彼はわたしに懐いてくれて、どういう訳か「好き」と言った。

「……申し訳ありませんが、君の気持ちには答えられません」
「大丈夫です。ただ伝えたかっただけなので」

 にこりと笑うその顔がなんとなく幼く見えて、どこか可愛らしいと思った。

 私に好きと言った割に、その態度が変わることはなかった。それどころか、以前よりも他の人間に笑いかけているような気がして、やたらと目につくようになった。元々、自分などとは違って愛想の良い彼は誰にでも好かれていたように思う。自分との合同任務の際に、「そういえばこの間、お土産ありがとうございます」と補助監督が言い、みょうじくんがどういたしましてとはにかむのを見て、嫌にもやもやとした黒い感情が沸きたったことに気付いて、自覚せざるを得なかった。

 彼はどこか灰原に似ている。しかし灰原はただの友人でそれ以上は何もない。
 ではみょうじくんは、私の何なのだろうか。

「七海はさあ、賢いせいで難しく考えすぎてんだろうね。そんなんで誰かに盗られちゃっても知らないよ」

 いつだったか五条さんから言われた挑発的な言葉の意味が身に沁みて分かったのは、みょうじくんと五条さんが二人で喫茶店にいると聞いた時。『なまえとデート中』という内容とともにケーキを頬張るみょうじくんの写真が送られてきて、腹の底が煮えたぎるような心地がした。しかも去り際に、私が店に入ろうとしていることを知りながらキス紛いのことをし、「チューは七海に取っておいたよ」としたり顔で言う。この人には常々当てはめていたW軽薄Wという表現を、この時ほどぴったりだと思ったことはない。

 みょうじくんはその五条さんの行動はさほど気にしてはいないようだった。では私が例えばキスをしたら、どんな反応をするのだろう。顔を赤くするのだろうか、それとも今のように驚くだけなのだろうか。

 そんなことばかりを考えながらも時が過ぎ、迎えた合同任務は、もともとみょうじくんとペアで担当する予定だった術師に頼み、自分の単独任務と変わってもらったもの。その一級術師も男であったが、みょうじくんと数日間行動を共にし同じ部屋で眠るのだと考えると、気付けば補助監督にスケジュール調整と銘打った電話をかけていたのだから、我ながら公私混同も甚だしい。

 その出張任務の最後の夜。そんなつもりで晩酌を提案した訳ではなかったのに、風呂上がりであることも相まって血色の良い頬や唇が視界に入って情欲を煽り、呪術師としては少し華奢なその身体に触れてみたくなった。蓄積された疲労と、欲求を増幅させ得る存在とベッドのある部屋で二人きりという事実に、深く考えられなくなった頭で私を好きだと言う彼を組み敷き、その肌に唇を寄せる。アルコールではなくみょうじくんの醸し出す色気に酔っているのだと気付いたのは、私の愛撫によって蕩けた表情になったみょうじくんを見て自身の下半身が熱を持った時だった。

 それから何度も身体を重ねた。人を好きになったことなどなかったのでこの感情の名前を見つけられず、ただキスだけを避けてその肌に溺れた。本当に好きになれた時、本当に自分の気持ちに気付けた時、その吐息を奪いたいと思った。

 彼以外に欲情することがないこと。彼が誰かと話して笑顔を見せているとどろりと醜い感情が顔を出し、その笑顔を自分が独占したいと思うこと。理由なく側にいられるようになりたいというこの気持ち。それが愛情だと、心のどこかで分かっていた。
 それでも素直に認められなかったのは、この呪術師という職業において死はあまりにも近くにあって、愛してしまったことを告げてみょうじくんと恋人になったら、失った時の喪失感をやり過ごせる気がしなかったからに他ならない。

 好きになった時点で、愛してしまった時点で、弔う悲しみは同じなのに。

「……代わりなんかじゃありません。だからどうか、目を、開けてくれませんか」

 答えが返ってくることはない。その命はもう終わりを迎えているのだと、分かっているのに言葉を溢したのは、それでもなお信じることができなかったから。伝えたいことが沢山あった。素直にそれを伝えた時の君の顔を見たかった。報告より多い呪霊が出たという急な支援要請、駆けつけた時にはもう呪霊に身体を貫かれた彼。数分前の出来事であるそれがまるで遠い過去のようだと感じるほど、この空間は静寂で満ちていた。

 最期だというのに笑顔でこちらを見上げた、その眼には私が、私だけが映っていたでしょう。同じように、私にも貴方しか見えていないのに。

「好きです。愛しています。他の誰でもない、貴方のことを」

 もう届かないこんな言葉では、貴方を呪うことはできないのでしょうか。
 初めて触れた唇は柔らかく、しかし冷たく、自身の涙の味と、噎せ返るような血の香りがした。







 人は、亡くなった人間の声から忘れていくという。であれば、声を忘れない限りは他の何をも忘れないのだろうかと思えば、少し安堵する自分がいる。

W好きです、七海さんW
W七海さんのオススメのパン屋、今度連れていってくれますか?W

Wすきになって、ごめんなさいW

 時にはいっそ忘れたいと思うくらい耳にこびりつく声。ふとした瞬間に自分を呼ぶその声が聞こえてくる気がして、誰もいない虚空へと振り返ってしまう。だけどそれでいい。ずっと私を呪っていてほしい。忘れたくない。あの日々をまるで昨日のことのように思い出し、伝えなかった馬鹿な後悔を背負い続けたい。
 ずっと君だけを愛していると誓う方法はそれだけしか無いのだから。

「……なまえ、」

 面と向かって呼んだことは終ぞなかった。行為の後、寝顔を見てつい愛おしく思って、眠っている彼に何度か、その名を呟いていたけれど。

「どうせ、声を一番に忘れるんです。……今更ですね」

 名前を読んでほしいと強請って、何度も唇を奪って、肌に触れて、デートをして、痕を残して、その笑顔を写真に収めておけば良かった。
 君からキスをしてとお願いをし、目を合わせてと懇願し、抱かせてくれと甘えておけばよかった。全部、今更なのだ。分かっているのに、それでも思う。

「……逢いたい」

 何を犠牲にしても、せめて、もう一度。



list


TOP