学生時代、告白する前もそうだったけど告白した後は特に、何度もその手に触れたくなったしその笑顔を独り占めしたくなった。だけど同じ気持ちでもないのに手を伸ばすことなんかできなくて。同じクラスで普通に仲がよくて、個性の相性だって悪くなくて比較的近くにいたから、そんな手を伸ばせば届く距離だからこそ、触れてしまったらもう二度と戻れない気がした。

 あの日伝えてしまった俺の「好き」はお前の友達への好きとは違うんだって、そう言ってしまいたいと思ったこともあったけど。これまで築き上げてきた信頼を壊してまで伝えることが当時はできなかったし、これからの人生でいろんな人に出会ってみょうじのことを忘れられる可能性だってあるから、ただ我慢してやり過ごせばいいと思ってた。

 まあ結局今もこうして、みょうじだけを好きなままだけど。





 唇に、やわらかな何かが触れたような気がした。みょうじとキスする夢なら何度も見たことがある。その先だって、当然。それはもう数えきれないほど何度も。今日もその夢を見たのだろうか。思い出せないがきっとそうなんだろう。

 あれ、そういえば、昨日は。
 瞬間的に意識が覚醒し、がばりと起き上がる。

「……みょうじ……?」
「あ、轟。おはよう」

 夢じゃなかった。ここは俺の部屋に間違いはなく、今俺の目の前にいるのもみょうじで間違いない。どこまでが夢でどこからが現実か分からないが、とりあえずみょうじがここにいるので、昨日の飲み会とそのあとこの家に連れ帰ったところまでは現実と見て間違いなさそうだ。

「迷惑かけてごめんな。しかもベッドまで借りてるし……。俺、何もやらかさなかった?」

 みょうじは申し訳なさそうにそう言った。下がった眉に何かこう、庇護欲というものが煽られる気がした。これが学生だった時に女子たちが言っていた、母性本能をくすぐられるってやつか。
別にみょうじは何もやらかしていない。むしろやらかすとしたら俺の方だけど、それもどうやら耐え抜いたようだ。記憶が曖昧だけど、互いに服を着ているし間違いない。「大丈夫だ」と答えると、なまえの顔がホッとしたものに変わった。でもそのさなかに一瞬だけ陰った気がしたけれど、きっと気のせいだろう。

 そういえば。みょうじが寝言のような形で、自分に何か言わなかっただろうか?

「……ごめん轟、水もらっていい?」
「っ、あ、ああ。冷蔵庫にある、から」
「ごめんな。ノド乾いちゃって」

 みょうじの声で思考が中断される。自分の部屋に好きな奴がいることが未だに信じられず、たったそれだけの会話がまるで特別な間柄になったように感じる。少しだけ寝癖のついたみょうじを見てふと自分の状態も気になったので、ひとまず洗面所へ向かう。頭から水を被りたいような気持ちだったけど流石に思いとどまって、冷たい水で顔を洗った。ぐるぐると巡っていた思考が、ほんの少しまとまった気がした。
 ついでに、自分にも寝癖がないかもチェックする。脈が有ろうが少しも無かろうが、みょうじの前では格好いい自分でいたい。

 リビングに戻れば、水を飲み終えたみょうじとぱちりと目が合い、さっと目が逸らされた。何もしていないけれど、もしかして気まずいと思われているとしたら、俺の下心でも勘付かれただろうか? それとも覚えていないだけで、俺はやっぱり何かやらかしたのか? 分からないから理由を聞きたくて口を開きかけたとき、ふとその頬や首元が視界に入る。
 ほんのりと赤く色付いたそれらに、どうしようもなくムラムラする。俺の中に残っていた冷静さを奪っていく。そしてほどなくして、昨日の酔いつぶれて顔を赤くしたみょうじの、寝る寸前の記憶がフラッシュバックした。

───こくはく、うれしかった

───おれもすき、だよ。いまさらごめんな

───ゆめだったら、いえるのになぁ……

 みょうじが昨日言った言葉が今さら鼓膜を犯して、俺の中の理性を溶かしていく。

「迷惑かけてごめん。えっともう、帰るから」

 みょうじのその言葉に、反射的に腕を掴んだ。

「轟……?」

 帰らないでくれ。まだ一緒にいたい。昨日の言葉の意味を教えてほしい。夢じゃなかったことを確かめたい。

「あ、さ、メシ、食っていかねえか?」
「え?」
「昨日、あんまり食べてなかったし、腹減ってるだろ」

 だけど俺は臆病者だからそれを問いただせないまま、それらしい言葉を並べたてる。俺の言葉に、きゅう、とみょうじの腹の虫が鳴いて、慌てて腹に手を当てて恥ずかしそうに目を逸らした。その顔もかわいいし、腹の音までかわいい。思わず笑いが漏れた。

「……んな笑わなくても」
「っふふ、は、悪ぃ、つい」
「もー笑いすぎ……恥ずい……」
「生理現象だし仕方ねぇよな。けど腹の音までかわいいんだなと思って」

 もう今日は何も伝えなくても、何も確かめなくても、このままでいいか。それでこの関係が壊れるくらいならいっそ、このまま友達でいた方が楽しいんじゃないか。
 どうにか笑いを鎮めて、そのままキッチンへ向かう。食パンをトースターに2枚入れて、昨日多く作りすぎたスクランブルエッグをレンジで温める。出来合いのサラダを器に盛り、ドレッシングをかけた。なまえはブラックコーヒー派だったはずなので、コーヒーメーカーのスイッチを押した。確か上鳴に勧められて買ったもので、自分はインスタントコーヒーでも良いと思っていたタイプだったけど、「いつか好きな子を家に呼んだときにインスタントじゃダメだろ!」と力説されたことを思い出した。上鳴に感謝しなければいけない。今度何か奢ろう。

 立ち尽くすみょうじに声をかけてテーブルに座るよう促せば、慌ててこちらへやってきた。顔が赤い気がするのはやっぱり俺の目がおかしいのかもしれないけど、「大丈夫か?」と声を掛けられずにいられなかった。

「なんでもない、大丈夫」

 ありがと、とはにかんで笑うその表情に抱きしめたくなった。そんなことしたらこの時間が、この幸せが終わっちまうから、言わないけど。

 話し上手ではない自分のため、沈黙防止も兼ねてテレビを付けていた。その番組についての話や最近の任務についての話をしていると、少し緊張していたように感じたみょうじの表情も和らいでいく。
 そうして朝食を食べてなんとなくソファに並んで座っていると、番組のコーナーが切り替わった。

「……あ、爆豪」

ヒーロー特集、爆豪が取り上げられていて。個性のこと、技のこと、最近の活躍。ぼんやりとそれを見るその横顔を見るのが嫌で、気付いたらチャンネルを消してしまっていた。


「好きだ」


 いきなり消してごめんだとか、そういう話の流れから来る言葉はのは何一つとして出てこなかった。代わりに口をついてでてきたのは、そんなありきたりな3文字だった。みょうじは突然のことに口をぽかんと開けているが無理もない。あまりに脈絡がないことは俺も自覚してる。ただその顔がずいぶん幼く見えて懐かしくなった。学生の時の面影を感じる。俺みたいな奴に、こんなでかい男に、学生時代から今までずっと片想いされてるなんて、不運だなとも思う。

「テレビの爆豪じゃなくて、いまは俺を見てくれ」

 さっきは、伝えなくてもいいかもなんて思った。それなのに、今目の前にいる好きな奴のその瞳が他の人間に向けられていることがやっぱりどうしても耐えられなくて。止められないから、もういっそ知ってもらいたいと思ってしまった。
 ついでに、昨日みょうじが言った言葉の意味が知りたい。あれが俺の都合のいい解釈だったとしても、ちゃんと受け止めるから。
 そう思って、その目を見つめながら次の言葉を探していると、みょうじは俯いてからぽつりと言葉を零した。

「……轟、昨日、何もしなかったじゃん」

 ……?
 何もしなかった。
 それはそうだ。何かしてしまってお前に嫌われたら立ち直れない。万が一耐えきれなくなって酔ったお前に手なんか出したら、…………え?

「みょうじ……? あの」
「もう俺のこと好きじゃないから、興味、ないから、何もせずにただ一晩泊めてくれたんじゃないの」

 みょうじの言っていることが、すぐには理解できなかった。脳のどこかで堰き止めて思考を中断しなければ、期待してしまう。勘違いしてしまう。
 だってそうだろう。まるで、どうして手を出さなかったんだと、そう言われているみたいで。

「なまえ」

 初めて、その名前を呼んだ。心の中でなら何度も呼んできたけれどそれを本人へ届けることはないと思っていたから、喉も唇も何もかもが緊張し、声が震えそうになる。俺をゆっくりと見上げるその顔が赤くて、それが可愛くて愛おしくて、たまらなくて。いつか引っ込めた手を迷いなく伸ばして、自分より少しだけ背が低くて細身なその身体を抱き寄せた。なまえが短く小さく、息を呑んだ気がした。

「昔からずっと、なまえしか好きじゃない」
「……っ、とどろ、き」
「大切だから、酔ったお前につけ込むなんてできなかった」
「……うん」
「寝込み襲うの、これでもかなり我慢したんだ。だから、そんな簡単に言うな」
「うん、………ごめん」

 控えめな声は恥ずかしそうに掠れ、なまえは俺の腕の中でもぞもぞと身じろいだ。それだけでも心臓が痛いくらいキュンとしたのに、果ては首元に擦り寄られて「大事に思ってくれてありがと」と囁かれたので、俺の思考回路と俺の身体はそれはもう簡単にWその気Wになってしまったが、これは流石になまえにも非があると思う。

 抱きしめる力を少し強めて、その身体をソファに横たえてついでに下半身を押し付けると、なまえはぴくりと肩を震わせた。

「昨日、何もしなくて悪かった」
「……いや、あの、」
「急には、困るよな。……だから、これだけ」

 少し身体を離してその頬に手を添えて、唇をくっつけた。呼吸を妨げられてくぐもった声が漏れてそれにも興奮してしまい、夢にまで見たなまえとのキスが現実に起こっている事実に身体は熱くなっていく。欲が抑えられなくてその身体を掻き抱くようにしてより隙間を許さずに触れ合って、薄く開いた唇に舌を入れて口の中をまさぐる。かわいい。もっと触れたい。駄目だ、ちゃんと我慢、しないと。

 唇を解放して身体を離そうとすると、ぐっ、と押し付けられた熱。たぶん意図的ではないにしろ、なまえのそれも間違いなく熱を持っていて、その眼は確かに欲情を浮かべていた。それでもなんとか耐えなければと踏みとどまった俺に、腕で顔を隠したなまえが呟いた。

「今朝、轟が寝てる間に、キスした。ごめん。なんか寝顔見てたら、たまんなくなって」

 勃った。完全に。そんないじらしい台詞、反則じゃないか? そういえばなまえから好きとは言われていない気がするけど、そんな言葉よりどう考えても俺を好きでいてくれていると分かるその言葉や表情や仕草に、ぎりぎりで耐えていた何かが焼き切れる心地がしたので、理性ってやつは俺の左半身のどこかに在るものらしい。



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