そいつは俺が7歳の時にこの屋敷にやってきて、世話係として、俺のワガママを何でも聞く奴だった。俺が頼めば、父さんや母さんや教育係にも何も言わずにお菓子をくれたり、こっそり散歩に連れ出してくれたり、俺が風邪をひいたら術式が暴走するんじゃないかと煩い周りの奴らと違って、俺を看病して傍にいて、その目はいつも優しかった。

 8つ年上なだけと知ったのは会ってから3ヶ月ぐらい経った頃で、顔だけ見ると確かにそんな感じではあるけど、話し方とかが丁寧だったからもう20歳くらいでもおかしくないと思った。まともな大人なんかあの家にはいなかったから、基準がそもそも分からなかったってのもあると思う。

「悟様、このお菓子はご両親には内緒ですよ」

「昨日は鍛錬を頑張られていましたから、特別に少し外をお散歩しましょうか」

「お風邪を召されている今は、お勉強はお休みしましょう。ゆっくりお眠りくださいませ」

 自分のことをただ六眼を持つ特別な存在としか認識してないこの屋敷の奴らが大半の中で、俺を見るその目はいつも優しくて、俺はむず痒い気持ちと、あとはそいつが───なまえが、俺を一番に思ってくれていると思っていた。

 ちゃんとそう思っていたのに、あの日、選ぶ言葉を間違えた。

 ほんの少し言い合いになった。「父さんも母さんも俺のことなんかどうでもいいんだ」なんて俺の言葉を、「そんなことはありません、悟様のことをとても大切に思われていますよ」と反論されて、ムッとしてしまった。大切になんて思ってる訳ない、俺をそう思ってる人間がいるとしたらなまえだけだ。
 今まで俺の言うことを真っ向から否定されることはなかったから、俺が間違ってるなんて認められなくて。

「んだよ、うっせーな! どうせなまえも俺の世話なんか、給料いいからってだけで、ほんとはイヤイヤやってんだろ!」

 日頃の俺への言動を見ていたらそんなこと無いことは明白だったのに、ついそんな言葉を言ってしまった。
 するとなまえは一瞬だけ目を丸くして、だけどすぐに寂しそうな顔でにこりと笑って言った。

「失礼しました、悟様」
「……え、あ」
「そのように思わせてしまっていること、気付きもしませんでした」
「っあ、なまえ……」
「本日付けで他の者がお世話を致しますので、私はこちらで失礼しますね」

 自分の言葉が間違っていたことにはすぐに気付いたけど、だからってどうしたらいいか分からなくて。引き止める方法も分からなくて、ただなまえが出ていくのを呆然と眺めるしかなかった。

 新しい世話係は、なまえが来る前についてた奴と同じで、俺に媚を売ってくるだけの男だった。

「なあ。なまえは? 屋敷に居ないよな。どこにいんの?」
「なまえ? ……あぁ、みょうじでしょうか? 分家の下っ端のことなど、悟様が気になさることではありませんよ。切り捨てて正解でございます」
「……は?」
「あんな身分で、術式も大したことない男」

 その言葉を聞いた瞬間、呪力を思い切りぶつけてしまって、その男は意識を失っていた。お前も誰も彼も、俺からしたら全員が雑魚だ。その雑魚が、なまえを馬鹿にすんな。
 別に大した怪我なんかさせてないけど放っておくのは違うかと思って、一応屋敷の大人に伝えておいた。だって気絶させたのを放っておいたなんて、もしなまえに知られたら、俺が嫌われるかもしれないから。

「……なまえ」

 戻ってきて欲しい。謝りたい。ごめんってちゃんと言うから、会いたい。なあ、お願い。もう一回、悟様って優しく俺の名前、呼んで。






 それから3週間が経った頃、屋敷でなまえを見かけた。久しぶりでどう声をかけたらいいか分からなくて、それでも名前を呼びたくなった。なまえ、と話しかけようとしたその時に気付いた。その隣にいたのは、知らない女。仲良さそうに笑って、女の方はちょっと頬なんか染めて。

 女の見た目は悪くなかった。なまえも整った顔をしてるから、これがWお似合いWってやつなんだとすぐに分かった、けど。ぞわり、俺の中で何かがざわついた。

 俺にも笑ってほしい。俺にも、──俺だけに、特別に。

「……なまえ」
「……悟様。お久しぶりでございます」

 わざと弱々しい声で名前を呼べば、俺に気付くなり膝をついて頭を下げたのち、目線を合わせる。
 その着物の裾をぎゅっと掴んだ。なまえと比べてまだ小さい自分の手。早く大人になりたいとか思ってたけど、この方がなまえの気を引けると思えば逆に大人になるのが嫌だと感じる。

「なまえ、……なまえ」
「悟様……? どうされました?」

 何度も名前を呼び、俺の顔を覗き込もうとしたなまえの首に腕を回して抱きついた。ぎゅっと力を込めて体重をかけて、できる限り甘えた声を出した。

「抱っこして、なまえ。お願い」

 なまえはびっくりした様子だったけど、すぐにそっと抱きしめ返してくれた。さっき話していた女に断りを入れ、女がどこかへ行ったのを見届けてから、俺を抱き上げた。術式を使わずに地面から足が離れるこの感覚は久しぶりだ。
 その首元で息を吸い込めば嗅ぎ慣れたなまえの匂いがするけれど、ほんの少しだけ甘い香水の匂いがした気がして、それがあの女の物だと思うと気持ち悪いと思った。それを打ち消すようにぐりぐりと顔を押し付ければ、トン、トン、と一定のリズムで優しく背中を叩かれる。

 もう俺は11歳で、抱き上げられるような歳でもないのに、子ども扱いなんてされたくないと思ってたのに。
 これは俺にだけの特別なのだと思うと気分が良かった。

「悟様、落ち着かれましたか?」
「……ううん、もっと」
「……もしかして、ご体調が悪いのですか? すぐに医者に、」
「ちがう、なまえがいないかったから。なまえがいたら大丈夫」
「え……?」
「もう一回、俺と一緒にいて」

 なまえは俺のWお願いWを突っぱねたことはなかった。だからこそ断られたらどうしようって思って、なまえの顔が見られない。
 あんな女じゃなくて、俺と一緒にいて。
 さすがにそうとは言えなくて、唇を噛み締めて堪えた。前に教育係に思いやりがどうのこうのと言われたことはあるけど、実際に相手を思いやったことなんかない。人生で初めて、相手の思ってることと自分の言葉の相手への聞こえ方を考えた。

 当主に話をするからとひとまず俺を降ろそうとするなまえにしがみつき、嫌だと首を振ってみれば、なまえは結局俺を抱き上げたまま父親の元へ行って、俺の任命を受けたので改めて世話係となる話をしてくれた。

 日常が戻ってきて、前より甘えられるようになった。だっこもおんぶも、一緒に寝るのも、自分の分のお菓子を俺に差し出してくれるのも、あの柔らかい笑顔で名前を呼ばれるのも、ぜんぶ特別。

 そう思って、あの女のことは忘れかけていた時。

「悟様。私事ですが明日一日、お休みをいただくことになりました」
「……休み?」
「はい」
「なんで? どっか行くの」
「はい。少し、所用で」

 そういえば前にも何度かこんなことを言われた気がする。気がするけれど、そんなこともあると思って気にしていなかった。毎日俺の世話という仕事をこなしているんだから、たった一日の休みぐらいとって当たり前。だけどもしかしてあの女のところへでも行くんじゃないかと思って、そう思うと簡単に行かせたくもなくて、服を掴む。

「なまえ、俺あの女、ヤダ」
「……あの女?」
「あんなのじゃなくて、俺といて」

 もし女がなまえの大切な人間だった場合、WあんなのWなんて言ったら嫌われるかもしれないって思ったけど、つい口をついて出てしまったから仕方ない。もしも怒られたらちゃんと謝ろうって腹を括って、だけどなまえの反応がないからやっぱりちょっと不安になってちらりと見上げれば、なまえはふっと笑っていた。

「あの方と出かける訳ではありませんよ」
「……、じゃあ、どこ行くんだよ」

 少しだけほっとした。もしあの女がなまえの特別になったら、それでなまえの中で俺が2番目以下になったら、俺はいつかあの女を殺してしまうかもしれないって、本気で思ってたから。

「弟の墓参りです」
「……おとうと……?」
「はい」

 その単語を聞いた時、女のことなんか一瞬忘れて、昔からぼんやりと感じていた疑問が浮かぶ。
 どうして生意気な俺に、こんなにも優しくして、目をかけるんだろうって思ってた。ずっとこのまま俺を一番にしてほしくて、だからあの女のことが邪魔だと思ってた。
 だけど違った。あんな女のことなんかそれこそ本当になんでもよくて、それよりもっと、なまえの心を占めるもの。俺に優しい笑顔を向ける本当の理由。

「生きていたらちょうど、悟様と同じぐらいの年齢でした」

 ああ、そうか。今はいない弟にするように、同じぐらいの年齢の俺を可愛がっていた。俺は、弟の代わり。
 何をしても俺はなまえの一番じゃなかったし、これからもそうなれない。それはずっと、なまえの弟の場所。

 なんで? こんなに優しくしてくれるのに、だからなまえは俺にとっての一番で、大切なのに。

「っえ、悟様……!?」

 これだけずっと一緒にいて、なまえがこんなにも狼狽えたことがあっただろうか。驚きと焦りが隠せないその声は俺に向けられていて、そこで俺は初めて、自分が泣いていることを知った。

「……ぃや、っだ」
「えっあの、悟様、えっと」
「やだ、! なまえのばか、……う、っく、もぉ知らねぇ、ばか……っ」
「も、申し訳ございません。失言でした、そんなにも気にされるとは思わなくて」

 慌てるなまえが俺の背中をさする。何度も謝って何度も宥めるけど、たぶん俺がなんでこうなったかは分からないんだろう。当たり前だ。俺にもよく分かってない。
 俺を見てくれてると思ってたのに、それが違ったから? 別に弟になりたいわけじゃない。ただ、なまえの特別になりたくて、だけどなれなくて、なれたと思ったら結局誰かの代わりで。

 俺を見ろよ。俺のことだけ、考えてよ。

「悟さ───」

 なまえが俺を呼ぶ声を遮って、その襟元をひっつかんで、唇をくっつけた。ほんの一瞬だけ、でもたしかに唇同士を触れさせたキス。なまえと一緒に何かのドラマを見ていた時、大好きな人や大切な人とするんですよと教えられた。大切ってのは分かるけど、大好きってなんだろ。大切なことと好きってことは違うのか?
 分かんないけどとにかくなまえのことが欲しくて、誰にも渡したくなくて。これが好きってことなら、あの女がなまえをW好きWみたいだったからむかついたし、俺を弟として見てるみたいかのが嫌で堪らなかった。だって弟になったらどの道、なまえのW好きWは貰えなくて、なまえがいつか誰かと結婚するのを見届けなくちゃならない。

 柔らかい感触が離れて、すぐ近くになまえの顔があってどきどきした。

「弟じゃ、ない」
「……え、っと……?」
「俺もっと強くなって、そしたらなまえのこと離さないから」

 なまえは口元を押さえてぽかんとしていて、その顔はちょっとだけ、年相応に見えた。
 呑気に俺のことを子どもだと思っていればいい。いつか俺がどこぞの女と結婚するものと思っていればいい。俺が本当にこの六眼と無下限呪術をモノにして、今以上にどんな術師も俺に敵わなくなったら、その時こそ必ず。それまでは、なまえには優しい主人として俺を見て俺の世話を焼いてもらわなければならないから、甘えて、くっついて、その穏やかな心臓の音を聞きながら、その甘くて爽やかな匂いを吸い込みながら、ゆるく力を込めてなまえの身体に触れる。この眼に映るものは全部がぜんぶ雑魚ばかりでつまらないけど、なまえだけ。なまえだけが俺の特別だから、だからなまえの特別も俺じゃなきゃいけないよな?


▽▲▽▲▽


 五条悟と言えば、恵まれた体格と術式と家柄を併せ持った、天に与えられたものは二物では足りないような御三家の嫡男。それゆえに、傲慢不遜で性格に難ありな問題児。問題児という点ではまあ私も人のことは言えないが、世間の印象はそうだろう。同級生となった私や硝子にとっても最初はそうだった。そして入学して半年経ち、流石にその印象は薄れて年相応な面も垣間見えたけど、その上で所謂悪ガキとだけ評するには少し尖りすぎた人間性だと理解しているから、この日はとても驚いた。

「ちょっと電話してくる」

 携帯を触っていた悟が立ち上がり、教室を出て行った。私と硝子は顔を見合わせて、女か? とアイコンタクトを取った。あの見た目で女にモテない訳はない。だが悟は常に興味が無さそうで、まあ五条家の人間ともなれば許嫁なんかがいるのだろうかと思っていた。だから今の電話の相手がそうなのかと思ったが、それで納得するのはつまらない。面白そうなので、つい後をつけた。

「……うん、元気。なまえは? 変わったことない?」

 あれは本当に悟か? と疑いたくなるような、柔らかい言葉選びと声のトーン。硝子も目を見開いていて、ただ廊下に立ち電話をかけているだけのその横顔があまりに穏やかで、ただ驚いていた。

「あー、友達は……一応、仲良くやってるけど。それでオマエに会いたくならないわけじゃないし」

「この土日は帰っていい? 会える?」

 どんな女にも興味が無さそうだったのはこれだったんだと、親友を見て思う。会える? なんて健気な台詞を素直に言葉にできる人間だったのかと、ある種の感動すら覚えた。悟の意外な、随分と人間臭い一面を知ったと、そう思ったのも束の間。

「なあ、また勝手に見合いとか受けたりしてない? ……なまえが俺の知らないとこで婚約したりしたら相手の女、消しちゃうかもしんないから」

 脅迫めいたその言葉は、ああ私たちの知っている悟だと思いいっそ清々しかった。口調は優しいかもしれないが言っていることはとんでもない。しかも悟なら簡単に実行できるであろうことがまた恐ろしい。

「……あ? 何してんの、お前ら」
「あー、すまない、悟が電話なんて珍しいからつい。……さっきのは、五条家の人?」
「そう。お前らにも会わせてやんねーけど」

 電話を切って振り向いた悟は、私たちがいることに気付いていなかったようだった。気配に敏感なはずなのに、それほど電話に夢中だったということ。
 そして大きな独占欲を隠そうともしない。さっきの話から推し量るに、五条家にいる人で、そして相手は男なのだろう。年上か年下か、どんな人なのかまったく知らないが、ただただ同情した。

 五条悟に本気で狙われ囲われて逃げられる人間など、およそこの世に存在しないのだから。



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