※離反なしif






「別れたくなったら言って。すぐに別れるから」

 なまえはよくそう言った。そして「好きな人ができたら応援するし、絶対に邪魔しないから」とも。

 話の流れでなんとなく一緒に住む提案をした時も、「傑に好きな人ができた時、家とか呼びづらいだろ」とやんわりと断られた。それは確かにその通りなので何も言えずにいると、あっさりと他の話題にすり替わったのを覚えている。

 なまえはいつも、笑っているのに少し寂しそうで、不器用な奴だと思った。そして、そんなほんの少し痛々しい笑顔が嫌いじゃないと思う自分は、心底性格が悪い人間だとも思った。






 なまえからの告白は突然だった。特別感などなにもない、本当にただの日常の一部だったように思う。だからか、いつの季節だったかもよく覚えていない。

 確か高専を卒業し、学生から社会人になり、悟と共に教師になって数年経った頃。夜蛾さんから同じように教員にならないかと誘われていたが断ったなまえは、フリーの一級術師として時々任務をこなしながら、一般企業に就職した。「一回、普通に仕事してみたくて」と笑っていた。

 お互い20歳になって、お酒も解禁だと言って、居酒屋に二人で飲みに行った。十分な広さの個室に案内され、それぞれ気楽に酒と料理を楽しんだ。そしてそろそろお開きにするかというところで、突然「好き」という言葉が、二人きりの空間に零された。

「……え?」
「好きなんだ。ごめん」
「なまえ……?」
「本当にごめん、もう会わないから」

 一万円札を一枚テーブルに置いて、鞄を持って立ち上がるなまえの、その言葉は理解が追いつかない部分の方が多かったけれど。どうしてか、ここで引き止めなければ本当になまえが自分の前から金輪際いなくなりそうで、思わずそのコートの裾を掴んだ。そうだ、なまえはコートを着ていた。思い出してみれば、あれは冬のことだったらしい。

「……奢ってくれるにしても、多いよ」
「………」
「なまえ、さっきのは、そういう意味のW好きW?」
「っ、」

 びくり、分かりやすく肩を跳ねさせたその姿を不覚にも少しかわいいと思ってしまって。自分と同じ呪術師でそれなりに鍛えている元同級生の男が、誰のものでもなく自分のものになるのは、なかなかに悪くないと思ってしまって。

「今すぐなまえを好きにはなれないかもしれないけど、それでもいいなら、私と付き合う?」

 その時のなまえはただただ目を見開いて固まっていて、珍しいその表情をぼんやりと見つめた。高専の時から良くも悪くも呪術師らしくない穏やかな性格で、そのくせ妙に肝が座っているこの同期が、戦闘以外でこうも驚いた顔を見たことがあっただろうか。あの4年間、私たちは間違いなく同級生だったけれど、階級が違うから任務で離れることも多く、3年の頃は特に、一緒にいた時間はそう多くはなかったと、今更ながら思い出す。きっと自分や悟よりも硝子の方が、なまえと過ごした時間が長いほどだろう。

 そう思うとなんだか面白くなくて、今からなまえの一番になれると思うと案外心地がよさそうで、さっきの言葉を放し飼いにしたまま、答えを待つ。なまえは少し俯いて、「いいの」と小さく呟いた。「ああ」とか何とか、そんな言葉で了承を示すと、なまえは顔を上げて、今と変わらない少し寂しそうな笑顔で、「ありがとう」と言った。

「別れたくなったら言って。すぐに別れるから」

 そう、それを初めて言われたのが、その時だった。そこからもう何度も、私となまえは隣り合って冬を迎えている。



 誰かを本気で好きになったことはない。だから自分でもよく分からないが、ただなんとなくそういうことをする相手の中で、なまえのことが一番可愛いと思う。

 時々ふと何気なく女を抱いても、終わった後に虚無感があるだけだった。だけどそれでも知らない女と寝るのを繰り返すのはただなんとなく、というそれだけの理由だった。これをやめてしまうと自分の中の何かが崩れ落ちそうで、その何かから一線を引いて自分を守るために、月に数回、無意味な行為に溺れていた。それが何か、何故か、自分でもよく分からない。



▽▲▽▲▽



『明日、合コン行くことになった』
「……合コン?」
『まあ、要はただの飲み会らしいんだけどさ、お世話になってる先輩に呼ばれて断れなくて。もちろん数合わせだけど』

 たまたま電話をして、とりとめない会話の中で、最近なまえに触れられていなかったから、明日の夜は家に行っても良いかと問いかければ、明日はちょっと、という断りの言葉。「何か予定があるの?」と何気なく聞いたら、これまた何気なく言われたのが、合コンに行く、という内容だった。

 なまえが何でもないように言ったその言葉に、自身の脳内が忙しなくなるのが分かる。合コン、というのは知識として知っている。通常の飲み会よりも出会いの場としての意味合いが強く、異性にアプローチをかけるためのイベント。私達は恋人同士の筈で、本来ならばたぶん避けるべきイベント。ただ断る意思を示した上で参加することになったのだから、今更参加の可否について迫るなんて野暮だろうと思う。ただ、何故だか面白くない。

 視覚を共有できる呪霊を手に入れたから見張らせてもいいが、たとえばコトが起こりそうな場面が視れたところで、悟のように瞬時にその場所へ移動できるわけじゃない。それにもし参加する人間や会場の居酒屋にW視えるW人間がいると面倒だし、他の人間が大丈夫でもなまえにはもちろん気付かれる。そもそもなまえは呪力探知に長けている方だし、だけどどうにかして───……。

 そこまで思って、ふと、何故こんなにも必死になっているのかと自分自身に問いかけたが、返事は返ってこない。


 なまえは私のことを好きでいてくれているが、私はなまえを好きなわけじゃない。


 そうは思っても、悪い予感が湧いて出てくるのは事実で。

 本人曰くではあるが、ただの数合わせとして呼ばれた合コン。女ならお持ち帰りも警戒すべきところだろうが、男なら特段そんな心配はいらない。だけどなまえはそこまで酒に強くはないし、たとえば飲まされて、女にホテルなんかに誘われて、酔ってなにもかも分からないまま、夜を過ごしたら?

 「もともと男が好きなわけじゃなくて、好きになったのが傑だっただけ」と、付き合った当初に言っていた。それなら、たとえば女の誘うままに行為になだれ込んで、もしそれで、その女を好きになったら? そうでなくとも、女の身体を抱く方が良いと思ったら?

 男同士の行為が一般的ではないことくらい分かっている。ましてやなまえは、常に負担を強いられる側を受け入れてくれているのだ。そんな必要がない相手ができた時、私にはもう触れさせなくなるかもしれない。

『傑?』

 電話の向こうから名前を呼ばれて、我に帰る。少し心配そうな声だったものだから、思わず苦笑した。自分の頭の中がなまえのことで埋め尽くされていることを知りもしないのだろうと思うと、ひどく情けない気持ちになったから。

 らしくなく思考が繁雑になっているのが自分でも分かり、言葉を探し出すのが少し面倒に感じた。今この場になまえがいたら、抱きしめてキスをして、その身体を掻き抱いて、言葉にせずともこの心情の何かしらを、自分でもよく理解できない焦燥を、伝えられるかもしれないのに。

「……ああ、すまない。一夜の過ちには気をつけなよ」
「はは、傑や悟ならまだしも、俺なんか誰も相手にしないって」

 なまえは何とは無しにそう言うが、そんなことはない。見た目だって悪くないし、背や体格は俺や悟と比べると低くて細身だというだけで、女からすると十分魅力的だろう。
 性格は優しくて明るいし、どこか包容力があって、だけど儚さもあって、笑顔はかわいくて。相手の目をじっと見て話す癖があって、あの長い睫毛が縁取る黒の瞳に見つめられて微笑まれたら、好きになる女はきっと多いだろう。一度きりでも関係を持ってみたいと、そう思う女だって、いるかもしれない。

「じゃあ、そろそろ切るな。おやすみ」
「なまえ」
「ん?」
「……いや、おやすみ」

 電話を切って、少し深く息を吐く。ため息を吐くと幸せが逃げるというその誰が言い出したとも分からない格言が、ほんの少しの棘になって心臓に柔らかく刺さった。いまこの部屋に漂っているのは、逃げた幸せなのかそれとも、自分の腹の底からふつふつと産まれる暗い感情か。

 自分でも理解できないほどに落ち着かなくて、スマートフォンの履歴から、すぐに見つかった見慣れた名前をタップした。

「もしもし、悟? ……少し、頼みたいことがあるんだ」

 要件を告げると、親友は面白そうに笑って「やっとかよ」と言った。その言葉の意味は、よく分からなかった。



▽▲▽▲▽



 駅前の喧騒がいつもより気になりながら、悟の眼でなまえの呪力を辿ってもらい、突き止めた居酒屋の前の、少し離れた位置で待つ。昨日の電話では開始時間や終了予定時間も何も聞けなかったため、何時間でも此処で待つつもりだったが、この場所へ到着して30分ほど経った頃、十数人の男女のグループが店から出てきて、その中になまえを見つけた。時刻は22時、幹事らしき男性がほろ酔いぎみな陽気な声で、二次会に行く人間を募っていた。

 なまえの元へ行こうとしたときに視界に入ったのは、するりとなまえの腕に触れる華奢な腕。酔った人間を支えているだけと周りには見えるかもしれないその一連の場面は、間違いなく女のアプローチだった。その女の頬が赤いのも、とろりとした目でなまえを見ているのもすべて、アルコールのせいじゃない。

 昨日は腹の底で燻っていた感情が、より黒さを増して喉元に迫り上がるようだった。今すぐに無理矢理取り返したい衝動に駆られながら、どうにか笑みを貼り付けて近づく。

「なまえ」
「……え、すぐる? なんで、」
「迎えに来たよ。帰ろう」

 腰を引き寄せたいのを我慢して、肩に腕を回させて支える。女が名残惜しそうなのは気に食わないが、自分の手で奪い返すのは至極気分が良かった。

「傑、おれ一人で帰れるから、」
「いつもタクシーで酔いが回っているじゃないか。粗相でもしたら大変だろ?」
「でも……」
「あ、すみません皆さん。みょうじは連れて帰るので、二次会楽しんでくださいね」

 WいつもWなんて牽制、悟が見たらニヤニヤと笑うのだろうが、一刻も早く連れ去りたいという気持ちしかなくて、細かいことまで頭が回らない。どうにか丁寧な言葉を選ぶのと表情を保つことだけを考えてやり過ごし、タクシーに乗り込むとすぐに自分の家の住所を告げた。なまえは今にも瞼が落ちそうで、此処で寝られたら流石に運ぶのが大変だと、時々肩を叩いた。







「ごめん、迷惑、かけて」
「迷惑はかけてないけどね」

 水を飲ませると少しずつ酔いが覚めたようで、会話がぽつりぽつりと成り立つようになった。なまえはミネラルウォーターのペットボトルを持ったまま俯いていて、私は何も言わなくなったなまえの隣に座った。ソファが軋んだ時にほんの僅かに身体が逃げたことに、気づかないとでも思ったのだろうか。

「こんなに飲んで、誰かに何かされたとき、抵抗できるの?」
「っ、」
「君を支えた気になっていた女性は、間違いなく君を連れてホテルにでも行く気だったよ」
「っそん、なの、傑もじゃんか……っ」

 え、という自身の間抜けな言葉は声になったのか、ただの空気として発せられたのか。それすら分からないほど、なまえの言葉で心がざわつくのが分かる。

「俺が、気付いてないと思ったのかよ」

 どきりとした。奇しくも、さきほどなまえに対して思った言葉。それだけで十分に、自分の愚かさに気付かされる。台詞としてはそっくりそのままで、しかし内容が比べ物にならないほど深刻であることは明らかだった。ペットボトルを持ったまま、俯いたまま言葉を続けるなまえは、こちらを見ない。身長差による角度のせいで、こちらからその表情を伺うことも叶わない。

「女と連絡とってるのも、ときどき香水の匂いすんのも、いま首んとこ、キスマークあんのも、ぜんぶ、知ってる」

 女との連絡。香水。首に、キスマーク。3つ目は本当に覚えがなくて更に困惑する。知らない間につけられたのだろうか? もし本当にあるとしたら、いや、なまえはそんな嘘をつくタイプではないから、きっとあるのだろう。

「けど、言えなくて、だから、好きな人できたら傑からいってほしくて、ちゃんと、教えてほしくて、」

 好きじゃない。あんな女ども、好きなわけがない。愛情をもって接したことなんてない。名前もいちいち覚えちゃいないし、なまえを抱く時のように気遣ったりもしないし、終わって余韻に浸ることもない。

「俺、いつも、言ってただろ。なんで、ちゃんと言ってくんないの」

 酒のせいか、決壊した私への感情のせいか。支離滅裂な言葉なのに、Wいつも言っていたことWが何のことか分かってしまう。次に来る言葉も想像がつく。しかし遮ろうにも、この喉は何の言葉も発せない。

「別れ、る」

 息が止まる。そのくせ心臓がやけに煩く、ただ狭く、ひどく苦しい。痛いのは臓器か細胞か、もっと別のところか。別れたくなったら言ってくれと何度も言われていた。しかし今なまえが言おうとしているのは聞き慣れたそれではない。紛れもなく、自分との関係を終わらせるための言葉。

「今日で別れるから、もう、俺のことは気にしなくていい」

 その言葉を聞いた瞬間、散々動かなかった身体が反射的に動いて、立ち上がったなまえの身体を抱きしめていた。

「……すまない」

 ようやく機能した喉から絞り出したのは、情けない声とありきたりな謝罪の言葉だった。少し震えていたかもしれないが、そんなことはどうだって良かった。此処で引き止めなければ、自分には二度と会ってくれなくなる気がした。そういえば、初めて好きだと言われた時も、こうして捕まえてしまった気がする。

 あの時は、半ば友達として側にいるためだけに引き止めたし、逃げるものを追う本能のような感覚だった。今は、どうにかして繋ぎとめられないかと思い、そして考えてみるけれど、この腕の中にしまい込む方法しか考えられなかった。

「傑、もういいから」
「よくない。私の話を聞いてくれ」

 酒のせいかやんわりとした、しかし確かな抵抗。力なんか大して入ってもいないのに、なまえからの拒絶は心底堪える。しかし、そもそも自分が蒔いた種なのだから、傷つく資格すらなくていっそ嘲笑が漏れる。

 強引にだとしても、久しぶりになまえに触れて、熱を持ちかける自分の身体にまた呆れる。僅かに香るアルコールの匂いにすら欲情する。どれも、他の女といるときには感じなかった。

 ───そうか、自分はもう随分と前から、なまえのことが。

「すき、だ」
「え、」
「好きなんだ、なまえが」

 今までの人生の中で、そしてこれだけ恋人という立ち位置でいた中で、一度も言ったことがなかった言葉。他の誰にも、そしてもちろん目の前のなまえにも。

 自覚してしまえば、なんてことはないことだった。他の誰といてもなまえと比べてしまうのも、なまえを誰にも見せたくないと思うのも、触れるのは自分だけがいいと思うのも、全てが腑に落ちる。なまえが誰かと任務をこなしたという話を聞くともやもやするし、甘い物が好きな悟と限定スイーツを食べに行くなんて話を聞くと妙に落ち着かなかった。

 むしろ、これだけのピースがありながら、自覚がなかったことが馬鹿らしい。きっと悟の「やっとかよ」というあの言葉から推し量るに、身近な人間には勘付かれていたのだろう。

「う、そだ」
「嘘じゃない」
「いやだ。傑に嘘つかせたくて言ったんじゃない」
「嘘じゃない、なまえ、頼むから、こっちを見てくれないか」

 私の縋るような声か、言葉か、焦ったようなこの感情か、何に絆されてくれたのか分からないが、なまえはゆっくりと顔を上げて、目が合った。そして私の顔を見て、さらにその目が見開かれた。

「傑、顔、あか……」
「……信じてくれるかい」
「……耳も赤い」
「…………そんなに見なくていいよ」

 それこそ酒を飲んだのかと思うくらい顔が熱い自覚はある。本来であればこんな格好のつかないところは絶対に見せたくないが、誠意が伝わるならなんだってしたかった。すり、指の腹か手の甲か分からないが、なまえが私の耳をなぞる。この家に来てから初めて、自らの意思で触れてくれた。それに舞い上がりかける自分を戒めるように、そっとその手首を掴んで、その目を見ながら掌にキスを落とす。

 掌の上なら懇願。確かこれは、フランツ・グリルパルツァーのキスの格言。別に意識したわけではなかったが、なるほど、祈るような気持ちになった時にここに口付けたくなるのは、分からないでもないかもしれない。己を頭ごと差し出して、相手がいつでも引っ込められるようなその箇所に、自身の唇を触れさせたとき、どうしようもないことに、何もかもを赦してはくれないかと願ってしまう。

 アルコールの影響だろう、少し水の膜が張った瞳が、ぼうっとそれを見ていた。

「すまない」
「………」
「女の連絡先は全部消す。もう誰かと出かけたりしない。なまえだけに触れて、なまえとの時間を大切にする」
「………」
「好きだ。別れたくない。だがそれでもなまえが別れたいなら、全て私が悪いから、それに従うよ」

 それはいつも、なまえが予防線を張るようにして言っていたこと。私から言うのは初めてだ。なまえが静かに息を呑んだ。
 自分で言っておいて、ここで再び『別れよう』なんて言われたら立ち直れないなと、心の中で思う。なまえもいつもそんな気持ちで、これを言葉にしていたのだろうか。それに対して安心させられるような、「なまえが好きだから別れない」などという気の利いた台詞ひとつ言えなかった自分を殴りたい。

 いや、殴るならまずは、浮気を繰り返していた自分か。なまえはずっとそれに気付いていて、その上で「別れたくなったら」を積み上げていた。時間が巻き戻せるなら、そんな言葉は二度と言わせない。だけど巻き戻せやしないから、今からその積み上げていたものを壊して、好きだという気持ちを差し出させてほしい。

「もう、いいよ」

 嫌な予感が頭を過ぎる。肺に淀んだ空気が漂っているようで気持ち悪い。やはり、虫が良すぎただろうか。いや、それはそうだ。なまえが怒るのは当然。私の言い分はなんなら一発二発は殴られるべきなのでそれは構わないが、そんな物理的なことよりも、「別れよう」の一言が怖い。刑が執行される前のような感覚だった。

「俺が何年、傑に片思いしてたと思ってんの」

 その言葉はどっちとも取れるような響きで、どう反応すべきか分からないでいると、なまえは一人吹っ切れたように笑った。かわいい。抱きしめたい。余すところなく触れたい。

「傑。さっきの、もう一回言ってみて」
「……なまえ、好き、だよ」
「うん。俺も」

 ふにゃりと笑ったその表情を改めて見ると、今までいつも見ていた寂しそうなものではなくて。幸せそうなその笑顔が可愛くて、思わずキスをしようとしたら、さっき口付けた掌に遮られた。

「でも浮気は駄目だと思うから、一ヶ月くらい、キスもその先もお預けな」
「え、……は? 一ヶ月?」
「そのあいだ女抱かなかったら、全部許してあげる」

 なまえはその言葉を最後にミネラルウォーターを飲み干し、「ごめん傑、部屋着貸してもらっていい?」と、何事もなかったかのように言った。このまま泊まるつもりなのだろう。自分もこんな時間に返すつもりはなかったからそれはいいとして、その上で、さっきの戒めが今から有効になるのだろうか。諸々を棚上げした上で言うが、どんな拷問より辛い。

「なまえ、その、私が悪いのは百も承知なんだが、……その制約、明日からにしてもらえないか?」
「しないね」
「……せめてキスだけ、」
「だめ」

 取りつく島もない、とはこの事だ。別れようと言われるよりは勿論良いが、これは今夜は眠れそうにない。ただ眠れないだけならいいが、既に確実な熱を持つ下半身をどうするか。なまえが風呂に入っている間に処理しなければ、もし万が一襲ってしまったりしたら、本当に別れることになるかもしれない。

「……わかった。なまえ、風呂を沸かすから、」
「あ、ごめん、明日の朝シャワー借りてもいい? 俺ほんとに風呂で寝そうだから」
「……………」

 自身の計画は呆気なく崩れた。これはどうすればいい。自分が風呂でするのは声が響く気がするので却下だが、代案が思い浮かばない。誰か教えてくれ。親友の顔が浮かんだが、一生笑いのネタにされることは目に見えているので、とりあえず新しくミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、強引にフタを開けた。しかしそれすらも、さっきなまえが飲んでいた光景とその唇を思い出して、色々とままならない。

 体格差がそれなりにある自分の服を着た恋人が、寝室のドアをガチャリと開ける。そしてふと思い出したように振り返って、ほんの少し拗ねたような口調で言う。

「言い忘れてた。暫く俺の前で、髪ぜんぶ上げるのも禁止ね」
「髪?」
「……キスマーク。見えんのやっぱ、嫌、だから」

 少しだけ口を尖らせてそう言ってすぐに視線が逸らされた。私の最低な行いの所為だがかわいすぎる。視覚的にも興奮材料でしかないのに、言うことまでが甘い毒だ。これでキスすらできないとはどういうことなのか。私の心の中で起きている戦争を知ってか知らずか、「お先、傑も早くおいでよ」と言って、今度こそ寝室に消えた。私がソファで寝たら、きっと優しいなまえは怒るのだろう。何せかけ布団は一つしかないし、この時期に毛布だけで眠るなんてことをしたら確実に風邪をひく。

 しばらく深呼吸を繰り返してから時計を見ると、さっきから全く進んでいない長針。日付が変わるまでですら、あと40分。なまえが出勤のために家を出るまで、どれだけ短く見積もっても6時間はある。秋の夜長だと言うが、今の季節は冬だ。だからこの長すぎる夜はもう少し、どうにかならないだろうか。




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