「任務でお疲れのところ、突然申し訳ございません。はじめまして、みょうじさん。私、悟の許嫁の───」

知らない女性に当然話しかけられそう言われたその時自分は、「はあ」とかなんとか、気の抜けた返事をした気がする。さてどうやら、恋人だと思っていた相手には許嫁が居たらしい。

よくある恋愛ドラマなんかであれば、悟に問い詰めたりして修羅場に発展するのだろうが、俺の感想は「まあ、だよな」だった。ていうか許嫁って本当に存在するんだな。ドラマや漫画でしか見たことがない。一度だけ悟の実家に遊びに行かせてもらったことがあるがとんでもない広さのお屋敷だったし、やっぱり御三家なんていうのは色々とスケールが違う。

「あまり驚かれないのですね」
「まあ……いない方が可笑しいかと」

そう答えて、ここに来るまでの経緯を思い浮かべた。



任務終わりに話しかけられ、いつもなら適当に受け流すところだが、悟の名前を出され許嫁と名乗られ、「少しお話できませんか」と持ちかけられたので、補助監督を先に返して喫茶店で向かい合って座ることになった。そして今に至る。

悟に恨みをもつ連中の差し金かとも一瞬考えたが、提案された場所が普通の喫茶店だったので、ひとまず話を聞くことにした。店内の客が少なかったのと、やや奥まった席だったので、たとえ修羅場になってもお店への迷惑は少なそうだ。

さて、改めて悟の許嫁だという女性を見る。育ちの良さそうなお嬢様だが、歩き方なんかを見ても呪術師で間違いないだろう。まあ五条家が決めた許嫁なら当然かもしれない。悟はよく、家の人間は才能の有無に重きを置いていると、罰が悪そうに言っていた。自分はその考え方が嫌いだとも。

まあそうでなくとも、まず見た目がとても綺麗な人だと思う。顔立ちもそうだし、白い肌はニキビひとつ無く、ゆったりとした黒髪も綺麗で、自己紹介の時に年齢は悟の一つ下だと言っていたが、いい意味でそれよりも若く見えた。所作もどことなく気品があって、なんとなく一般家庭の人間ではないような雰囲気を纏っている。

「親が決めた、いわゆる政略結婚というものでして。悟とは将来を約束しています」
「はあ……。それで、どうして僕に声をかけたのでしょうか」

あの五条家の次期当主なのだ。悟が男も女もいけるのか、その辺りはあまり知らないが、まあ普通に考えれば許嫁なんかがいてもおかしくないし、後継だのなんだのというしがらみもありそうだ。だからそれはいいとして、何故自分は連れてこられたのか。

俺の質問にその女性はにこりと微笑んだ。可憐で可愛らしい笑顔と仕草。飛び抜けて容姿が整っている悟の、その隣におさまっても遜色ないなあと他人事のように思った。

「後ほどお話します。──ちなみにみょうじさんは、悟とはどのようなご関係でいらっしゃるのでしょうか?」
「友人で、同僚ですね」

間髪入れず答えると、女性は少しだけ目を丸くした。ほんの一瞬だったが間違いない。今の感じだと、俺と悟の仲を知っている可能性があるが、そもそも悟が許嫁に話すだろうか? どこまで知っているかも分からない相手に下手に喋ると面倒だし、何より悟に迷惑がかかる。
結局、何にどう驚いていたのかは判断できず、その表情は見なかったことにした。

「……不躾に失礼しました。では失礼ついでにお聞きしますが、みょうじさんは恋人はいらっしゃいますか?」
「………」

なんだこの質問。

何故俺のことを聞かれているのか分からず、少し答えにつまる。そしてすぐに、悟とのことをまだ疑われているのだろうと判断した。ここでWいるWと答えると、どんな相手かと問われ、俺は架空の恋人の話をするハメになり、ボロが出やすくなる。それに、さっき悟のことを友人で同僚だと即座に言ったのが水の泡になるのも面倒だ。

「いませんね。恥ずかしながら」

たまに上の偉い人と話す機会があるとはいえ、この口調と愛想笑いはいい加減疲れる。さてどうすればこの状況を打破できるか、と考えていたら、目の前の女性にぱっと右手を取られ、その一回り小さな両手に包まれた。

…………え?

「騙してしまってごめんなさい、なまえさん。私、悟との婚約はとうの昔に破棄しているんです」
「……はい? ていうか名前、」
「貴方とお話ししたくて、嘘をつきました」
「え、はあ」
「任務の後でお疲れのところ、たくさんお時間を取らせてしまってすみません。お忙しいかと思いますので、単刀直入に申し上げます。

───好きです。私と、結婚を前提に、お付き合いしていただけませんか?」

………。
……………?

…………………は?

テーブル越しに捕まって包まれたままの手、頬を染め恥ずかしそうに微笑むその女性は、少し前まで悟の許嫁だったはずだが、何が起きているのだろうか?
いや、許嫁の話は嘘だったと言っていたので、そもそも何のために話しかけたのか。そういえばさっきの俺のその問いかけに、彼女は何と言っていたっけ。

W後ほどお話しますW

……………その『後ほど』が今行われているのか? 訳がわからない。




どう答えるかを考えあぐねていると、俺の手から彼女の手が外れた。いや、外された。この場にいるはずのない、第三者によって。

「悟、」

私服ではなく仕事着で、サングラスではなく目隠しをしているので、任務終わりか何かだろうか。俺の呟いたその名前は存外小さく響いたので、背の高い悟には届いていないかもしれない。

「なまえに何してんの?」
「あら悟。早かったわね」
「何してんのって聞いてんだけど」

口調が素に戻りつつある。つまり不機嫌。ただその一言に尽きる。俺は悟の不機嫌なんか一般的な人間にとっては天災のようなものだと思っているので内心ヒヤヒヤしているが、目の前の女性は厳かだった。やっぱりただの顔見知りというわけではなさそうな雰囲気で、悟の許嫁だったというのもなんとなく真実かなと思った。

「見てわかるでしょ、デートよ。邪魔者は退散してくれる?」
「なまえとデートしていいのは世界で僕だけなんだけど」
「だってなまえさん、悟のことは『友人で同僚』と言っていたもの」
「……は?」
「それに、恋人がいるか聞いたら『いない』って答えてくれたの」

ね、なまえさん。
突然会話のキャッチボールが豪速球で飛んできたが待ってほしい。えらく饒舌に話す彼女と明らかに不機嫌な悟の雰囲気に押され、暫く思考が飛んでいた。平たく言うと言い合いをあまり聞いていなかった。何に同意を求められたか確証が持てず、否定も肯定もできない。

「どういうこと、なまえ」
「あー、えっと……」
「いや、後で聞くからいいや。……で、そもそも君はなんでなまえを知ってるのかな」
「前に、貴方の屋敷にいらしたでしょう? 私もたまたま五条家に用があって立ち寄っていて、その時に一目惚れしたの」
「……はあ? 一目惚れ?」
「そう。私、五条家との婚約なんか絶対に嫌だから断ったけど、かといってもう適齢期だし。恋愛結婚したいけど、でもそれなりの術師じゃないとお父様もお母様も納得しないから悩んでたら、あの日、なまえさんに貴方の屋敷でお会いして。一目見て好きになったの」

後から一級術師だと調べ、任務の後に話すきっかけを作り、アプローチしようと決めていた、と彼女は言った。とりあえず俺のあまり良くない頭で考えてみたところ、どうやら過去に一回だけ悟の家に行った時に、彼女は俺に会ったことがあるらしい。ただ申し訳ないが俺は全く覚えていない。何せ、悟の家にはものすごく沢山の使用人の方々がいたのだ。庶民な俺は屋敷の広さと人の多さに圧倒されて、それ以外のことはあまり記憶にない。

「……えっと、すみません。覚えてなくて」
「いえ、通りすがりにご挨拶しただけですので、気にしないでください」
「覚えてないって言ってんのに君ほんと前向きだよね。でもなまえは僕のだから諦めて」
「まあ、今日のところは退散するわ。あ、なまえさん」
「はい?」

コーヒー代を多めにテーブルに置いた彼女は、スッと姿勢良く立ち上がると、俺ににこりと微笑み、俺の頬にキスをして「またお会いできる日を楽しみにしております」と言い残して去っていった。

───という記憶を最後に悟に引っ張られ、喫茶店を後にした。気付いたら家のすぐそばにいたので、鍵を開けて一緒に住む家に入る。

さて、拗ねた恋人のご機嫌をとる方法を考えた結果、とりあえずソファに座った悟の足の上に跨って、抱きしめてみることにした。悟の頭を引き寄せて自分の胸へくっつける。以前より、俺の心音を聞くと安心すると言っていたから。

「……なに」
「ご機嫌ナナメな彼氏様の機嫌を直してもらおうかと」
「…………こんなことで絆されないからね」

そう言う割におとなしくされるがままになり、しばらくすると俺の腰に手を回してぎゅうぎゅうと抱きしめる。こういうところが悟は可愛いと思う。いま変なスイッチが入っても困るから言わないけど。

「俺らのこと知ってるか分からなかったから、無難に答えるしかなかったんだって」
「……それもあるけど。手握らせたり、キスさせたり、隙が多すぎ」

悟はおよそ最強とは思えない情けない声でそう呟いた。いや、まあ、それは悪かったと思ってる。今までの人生で、あんなにアグレッシブな女の人に会ったことがなかったので、つい油断していた。ごめんな、と言うとまた回された腕の力が強くなった。

「アイツの方がいい?」
「え?」
「性格はさておき、見た目は良いでしょ、あの女」
「ああ、あの……名前なんだっけ、許嫁の人?」
「元、ね」
「まあ、綺麗な人だとは思ったけど」

印象として、それは否定しない。綺麗な人だった。男なら、ああいう女の人に告白なんかされたらきっと、舞い上がるものなんだろう。だけど俺は艶のある黒髪よりもこのサラサラの銀髪が好きだし、化粧で綺麗に整えられた顔よりも蒼が映える悟の顔が好ましいと思う。

というか、毎日綺麗すぎる顔を見ていて、美的感覚に麻痺が生じているのだろうか。

「毎日悟の顔見てるからか、そんなにときめかなかったな」
「……、なまえは僕の顔だけが好きなの」
「そういうちょっと面倒くさいところも含めて、全部好きだよ」
「…………ぜんぶ」
「そ。全部」

満更でもなさそうな声。機嫌は少し直ったらしい。チョロいところも好きだとは、ここでは流石に言わないけど。さらさらの髪に指を通したまま頭を撫でてやれば、俺をがっしりと抱き締めていた腕の力が少し緩んだ。背の高い人は頭を撫でられ慣れていないという情報を得てからは、悟を落ち着かせるために時々とる行動のひとつとなった。
もうどうしても何を言っても、拗ねて怒ってどうしようもない時は、最終手段としていわゆるベッドへのお誘いをすればとりあえず何とかなるが、そういう時の悟とてもしつこく、一回二回では終わらないので、それ以外の方法で機嫌が直るならかわいいものである。

「なまえくん、恋人はいますか」
「いますね、ここに」

耳の上あたりから目隠しに指を通し、その眼を傷つけないようにゆっくりと黒い布を引き上げる。するりと頭から引き抜いたそれをソファに落とし、眦をなぞる。

「嫉妬深くて寂しんぼで、時々格好いい恋人がいるんで、ってあの女の人に言っといてよ」
「……世界一強くて格好いい彼氏がいるからオマエの出る幕じゃねえよブスって言っとく」
「小学生か」

ふは、と笑えば悟の頭がぐりぐりと腹に押し付けられる。頭を撫でて、それから耳をくすぐってやると、ぱっと腕を離した。これはいつからか、キスしようの合図になった仕草。いつもはどちらからともなくそういう雰囲気になるけど、今回は悟の隣に座って、ん、と頬を向けてやった。

「上書きしなくていいの?」
「…………する」

ちゅ、ちゅ、と何度も同じ場所にキスをされて、さっきあの女の人に握られていた右手は、指を絡められて捕まった。
頬へのキスが止んだところで、そっと悟と目を合わせると、唇がくっついた。触れて、離れて、角度を変えてまた触れる。もどかしいそれを制して、悟の唇に親指を滑らせ、口を開けさせた。そのまま俺からキスをして舌を侵入させるとようやくその気になったのか、最後には悟のいいように舌が蠢き、離れる頃にはお互いに少し酸素を欲していた。

「……にしても、許嫁か。やっぱそういうの、あるんだな」
「……怒った?」
「なんで?」
「なまえに、言ってなかったから」
「ああ。別に」

正直、まあいるだろうなと思っていた。それこそ、御三家の次期当主にそういう話が上がらない方がおかしい。こいつは優秀すぎるから、その子どもにだって期待は大きいだろう。子どもを産めない俺では絶対に叶わないこと。

「悟が望んで女とお見合いとか結婚するって言うなら、そのときはちゃんと離れるよ」
「っなまえ! 僕は、」
「って、ちょっと前までは思ってたんだけどなぁ」

え、と悟の口から驚いた声が漏れた。悟の左胸に頭を預ける。心臓が一定のリズムで動いているのが聞こえて、そのまますうと息を吸うと、悟の匂いがして落ち着く。
俺が甘えたのが珍しかったからだろう。悟は少し動揺したあとぎこちない手つきで腰を抱き寄せ、頭をゆるりと撫でた。

「それって、さ。ちょっとは妬いてくれたってこと?」
「悟は俺に妬いてほしいの?」
「……たまには」

拗ねた声を隠しもしないで言う悟に、ほんの少し笑ってしまった。嫉妬したことがあるか無いかで言うとちゃんとあるんだけど、この見目麗しい恋人な割に回数は少ないだろうなと我ながら思う。

「じゃあ、俺のこと好きで好きでどうしようもないっていう顔と態度、ちょっとは隠さないとな」
「は、?」
「いつも、俺のことどうにかしたいって眼してるから」
「…………してない」
「してるよ。だから不安にならないし、誰かに嫉妬することも殆どないから」

悟は悔しそうな表情で負け惜しみのように反論したので、自覚があるんだろう。それはそうだ。アイマスクやサングラスをしていても俺には分かるほど、優しい目で俺を見ていることとか。俺が他の人間と話してるとき、じっと目で追っていることとか。あとは一緒にいるときは常にどこかしら触れさせてくるところとか、もう数え切れないくらいそういう行為に及んでるのに、未だに恐る恐る丁寧に俺を抱くところとか。
最後のは別に酷くされたいとかじゃないけど、必要以上に怖がるのは、こいつが強いからじゃなくて、俺を大切に思っているからだろう。

「……なまえ、今から、ダメ?」

悟が焦れたようにするりと腰を撫でた。無理やり事に及ぶことだってできるはずなのに、絶対にそれをしない。それが愛情でなくて、何というのだろう。

「夜まで我慢な」
「……えっ夜、え、いいの、」
「悟が聞いたんだろ」
「いや、そうだけど。明日は課外の同行あるし無理って、言われるかと、思って」
「あー……」

いつもなら確かに断るところだ。こいつはやたら優しくは抱くけど何度も繋がりたがるから、なかなか寝かせてはくれない。でも、そんな蕩けるような眼で見られて、断れる人間がいるだろうか。

「明日は狗巻と10時に高専で待ち合わせだから、遅くとも2時には寝かせて」
「……じゃあ、僕とは今夜11時にベッドで待ち合わせ」
「はは、了解」

そうして約束通りベッドで待ち合わせをして、仕事絡みじゃいつも数分遅刻する悟が5分前にはスタンバイしていたことを揶揄ったら、ただの冗談なのに「早くなまえに触りたかったから」とずいぶん切羽詰まった声と熱を帯びた目で求められたので、こいつのこんな顔をあの元婚約者やこいつに恋をする女性たちは知らないと思うとたまらない。

「今日、好きにしていいよ」

そのこめかみに指の腹で触れながらそう言うと、「あんまり煽んないで、酷くしたくないから」と怒られて、それがいじらしくてまた笑ってしまった。



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