鳴海と喧嘩をした。喧嘩と言っても俺が一方的に言っただけだった気がするが、原因はよく覚えていない。ただなんとなく鳴海は俺のことをそこまで好きじゃないような気がして、とりあえず距離を置こうと言った。執着心なんていうものとは無縁の鳴海は俺に反論することも無くあっさりとそれを了承したから、つまりそういうことだろう。試すようなことをして惨敗して、なんて惨めだろうか。

 鳴海の恋人というポジションはきっと俺じゃなくても良いんだろう。たぶんこのまま自然消滅するだろうから、できればただの元同期、そして当たり障りなく上司と部下に戻れればそれで良い気がしていた。気まずくなる可能性もあるがそれは時間が解決してくれるはずだ。鳴海は将来有望で、だからいつか良い相手と結婚して家庭を持つかもしれない。離れるなら早めのほうがいい。

 だから怪獣の攻撃を受けて身体のあちこちが軋んで痛んで、ああ今回は流石に死ぬかもしれないと思った今も、鳴海を解放してやるべき時が来たんだとただそれだけを思った。




 逃げ遅れた一般人の盾になる形で無理やり攻撃を防いだところまではまだ良かった。スーツに多少のガタはあったものの堪えてその怪獣は処理して、問題はその後だった。報告にない規模の力を持って突然現れた怪獣、それに背後を取られた部下、その攻撃の射線にいた部下を押し退けて割って入り、攻撃を受けきれなかった自分。

 シールドも貫通して受けた攻撃で肩と肋骨の辺りの骨がいくつか折れた感覚があったと同時に、肺やそこらの内臓に刺すような痛み。周囲の骨が刺さったのかもしれないとやたら冷静に考えている間に痛みも感じなくなって、もしかしてこれは本格的にヤバいのかもしれないとなんとも語彙力のない感想だけが脳内に散らばった。

 庇っただけじゃ防衛隊員としての意味がない。早くこの怪獣を倒さなければと、そう思うのに。倒れる自分の身体をうまく動かせず受け身も取れない俺は結局この程度なんだろう。

 視界が暗く黒くなる中で誰かの人影と、その身体より大きな武器を振りかぶる姿が見えた。怪獣の断末魔と他の隊員の声とが聞こえたのできっとみんな助かったんだろう。俺の身を案じる複数の声が随分と遠くに聞こえ、耳も機能しなくなったらいよいよ終わりなんじゃないかなんて妙に冷静な自分がいる。



「起きろ」

 ほど近いところで誰かがそう言った。逆光でさっきの人物の顔は見えなかったがあんな戦い方ができるのは一人しかいないし、この声だって然りだ。誰か、なんてとぼけたことを思ったのはほんの一瞬だった。鳴海の声。この声を聞き違えるはずはない。鳴海が俺に、起きろと言っている。恋人だろうがなんだろうが鳴海は隊長で俺はその部下で、隊長命令には従わなければならない。だから起きて返事をしたいのに、身体に力が入らなくて呼吸がうまくいかないのがもどかしい。

「勝手に死んだら許さない」

 死ぬなんて大袈裟だと、いつもならそう返すところだ。今は死んでも許してもらえる方法を考えてしまっている、そんな自分が情けないとは思うけれど。呼吸をするたび、そして心臓が脈を刻むたびに血が体の外に抜けていくような感覚があるので流石に万が一がちらつくのは仕方ないだろうと思いたい。

「目を、開けろ」

 さっきより近くなった鳴海の声。一瞬、鳴海の声が震えたような気がする。それがどうしてか分からなくて、無意識に閉じていたらしい瞼をどうにか持ち上げた。うっすらと開けた視界はぼやけていて、ただ立って見下ろしているのではなく側にしゃがんで目線を近付けていることだけさ分かった。鳴海の表情まではよく分からない。

「死ぬな」
「──……、………」
「ボクの命令が聞こえないのか」

 無茶を言うなと言ってやりたいのに、空気が喉をくぐるような音がするだけで声が出ない。さっきまでの淡々とした命令だったはずの言葉が段々と縋るようなそれに聴こえて、そんな筈はないと思おうとしても視界は相変わらず暗いし確かめる術はないしでどうしようもない。
 ふと、自分の右手が温かく包み込まれている気がした。直感だけど此処には俺と鳴海しかいなくて、だからこの熱もきっと鳴海のものなんだろう。指先になんとか力を込めると少し指先が動かせた気がする。大袈裟ではなく何百もの怪獣を倒してきたその手を握り返すには力不足に思えたが、おそらく多少なりとも伝わったのだろう。すぐそばにある鳴海の呼吸がほんの一瞬だけ止まった気がした。

「死なないでくれ」

 らしくなく揺れている声色。何を怖がっているんだろうか。今まで、隊員の死に立ち会ったことなんて何度もあるだろうに。視界はてんで馬鹿みたいに何も映らないがもし情けない顔をしているのならやめて欲しい。何があっても強く自信満々な鳴海隊長でいてくれれば、部下も一般人もみんな安心するんだから。

「お願いだ」

 お願い、なんて言われたのは初めてかもしれない。いつもお願いすべきところだって自論をこねくり回して命じてくるような奴のくせに、明日はきっと雨か嵐だ。

「……目を閉じるな、ボクを見ろ、ナマエ」

 目尻に柔らかい何かが触れた。身体を重ねる時に情けなくも涙を流す俺に、鳴海がよく唇を寄せるその感触と似ている。その時のそれは俺をあやすような仕草だけど、今はどうだろう。
 それに久しぶりに名前を呼ばれた気がする。声色も相まってまるで祈っているように感じるのは、あたかも鳴海に心底愛されているみたいに思えるのは、死の狭間に見る都合の良い夢だろうか。

 こんな夢を見てしまったら、もう一度好きだと伝えたくなる。そして愛おしそうに俺を抱く鳴海の熱を受け止めたくなる。さっきまでは鳴海を離してやらないといけないなどと思っていたのに、もう二度とそれらが叶わないと思うと死ぬのが少し怖くなる。なんて現金なのだろうかと思うと少し笑えた。



▽▲▽▲▽



「───……」

 生きてる。どんなドラマや本の登場人物も病院の天井を見上げて思うことはみんな同じだったが、自分もその例に漏れなかったらしい。呼吸できていることに違和感を覚える日が来るとは思っていなかったので、人生何があるか分からない。
 点滴が一定の間隔で落ちるのを眺めながらそれに合わせて呼吸をしてみると、少し息がしやすくなった。視界には医務室の天井があって、あの時は直ぐそばにあったはずの鳴海の顔も見られなかったのに、今は天井のシミまで見えるから不思議だ。

 腕や足を動かそうとするとそれなりに痛いが、動かないわけではないようだった。あれだけ重症で出血だって多かっただろうにこんな風に回復するとは、本当にこの国の医療は怪獣の数と比例して進歩していると感じる。

 頭が覚醒してくると喉が乾いていることに気付く。水が飲みたい。いやその前に顔を洗いたいし口を濯ぎたいがそこまで我儘を言えないならせめて水が欲しい。
 ふと顔を動かすとナースコールが見えて、そういえば目覚めたならこれを押さないといけないのかもしれないと思って腕をどうにか持ち上げようとするがうまくいかない。これなら起き上がる方がまだ出来そうな気がして、腕で支えて身体を起こした。

「……何をしてるんだ」
「───ぇ、」
「起きたならナースコールを鳴らすべきだと思うが」

 病室の扉が空いていたことにも気付いていなかった。天井しか見ていなかったのだから当たり前だ。そして起き上がることに必死になっていたので、そこに誰かがいるなんて思っていなかった。「鳴海」と声を出そうとしたら喉ががさがさに乾いていて咳き込んでしまった。いざ声を出そうとしてみると想像しているよりも声が出なくて喉に空気がひっかかっているような感覚になる。

 何日ぐらい眠っていたか分からないがその間にも出撃はあっただろうし、仮にも小隊長が入院なんて鳴海には迷惑をかけただろう。謝りたいのになかなかうまくいかない。鳴海の様子を見る限りでは数日だろうと思うけど。

 鳴海は病室に入ってきてこちらへ歩き、俺がどうにか起き上がった状態のままのこのベッドを通り過ぎた。ベッドの奥側のチェストを開けるとペットボトルを取り出し、その蓋を開けてからそれを差し出してくれたので、軽く会釈してそれを受け取る。
 いつも通り、目元が髪で隠れたままなので表情が少し分かりにくい。少し痩せたような気がするが、もし自分が居なかったせいで忙しかったとかそういった影響が及んだ可能性を思うと気まずくてすぐには聞けなかった。水が喉を通って身体に巡る感覚がある。点滴では得られない細胞への潤いを感じて少し吸い込む酸素が軽く感じた。

「ボクに何か言うことがあるだろう」

 ペットボトルの蓋を閉めたらそれを奪われ、蓋を締め直されてからベッドサイドに転がされた。何か言うことがあるかと言われるとむしろ言うことしかないが、頭の中で優先度を思案した。

「……逃げ遅れた市民の発見と対応、遅れてごめん」
「他には」
「討伐、できなくて、尻拭いさせてごめん」
「他は?」
「あー、えっと、何日か寝てたと思うけど、その間仕事できなくてごめん」
「それだけか」
「え、っと………」

 思い浮かべていたことを全て言い終えてなお鳴海から発される不機嫌なオーラは引っ込むことがなく、むしろ増してさえいる。それは感じるけれど必死に考えても浮かばない。目が覚めたばかりだからという言い訳ではこの男には許されないかもしれないが、正直に「分かんない、ごめん」と頭を下げた。

「……市民はレーダーの探索範囲の穴となっていた場所にいて、オペレーター側も発見できていなかった。発見できて救助できたのはむしろキミの小隊の手柄だ」
「え、ぁ、うん……?」
「あの怪獣はボクにとっては雑魚だが、クラスとしては小隊で撃破するレベルだった。市民の救助に人手を割いていた以上は応援がくるまで持ち堪えられただけで合格だろう」
「……あ、あぁ」
「ミョウジがいない間の雑務は長谷川が少し負担した程度だ。討伐も、ミョウジの小隊もちゃんと機能していたし人員は足りていたから責任を感じる必要はない」

 俺の言い分に対してすらすらと話す鳴海に逆に返す言葉がなくなり、そういえばあの時も明日は嵐かと思った気がするが今日のこれは嵐というより槍が降るのではと本気で思った。降って湧いてくるのは怪獣だけで十分だ。まあ冗談だがそんなことを考えてしまうほどあまりに普段と違うので、つい鳴海をじっと見てしまう。

 ふと、鳴海の目の下の隈が濃いことに気付く。痩せたような気がするというのはなんとなくだったが、ゲームをして夜更かしをすることは日常茶飯事なので以前から多少なりとも隈はあったけれどそれでも、この有様は誤魔化されようがない。
 それを思ったのは事実だが、無意識に指を伸ばして鳴海の目の下に触れてしまったことに関しては鳴海が俺の手首を掴んだことで知る。ごめんと反射的に謝って手を戻そうとしたけれど、鳴海の手に力が込められて叶わない。

「2週間」
「え?」
「2週間だ。キミはずっと眠り続けていた」
「……、え……!?」

 そんなに? という心の声があっさりと口からこぼれた。鳴海は冗談で言っている雰囲気ではないしそもそもこいつはそういった冗談は言わない。

 鳴海が俺の腕を引いたことで体が傾く。そのまま、鳴海の上体がこちらへ倒されて俺の心臓の辺りに耳を当てた。

「……生きてるな」
「鳴海……?」
「この2週間、うまく眠れなかった。そういう夜には此処に来て、この音を聴いていた」
「えっ、」
「医療班は命に別状は無いとかそのうち目を覚ますとか言うが、分からないだろう。事実キミはいつまで経っても起きないし、その間に心臓が止まる可能性だってある」
「……そうだな」
「まあボクが許可していないんだから勝手に死ぬなんて許さないし、目覚めることは確定事項だったから驚きはしなかったが」

 鳴海の言葉は随分と強気であるのに、心底安堵したような声で言うので調子が狂う。思わず「心配かけてごめん」と言えば、鳴海は心臓に耳を当てているような体勢のまま「言うのが遅い」と少し拗ねた声で言った。

「……あの、鳴海」
「何だ」
「俺やっぱ、お前と別れたくない、かも……」
「………」

 その言葉を発した瞬間に鳴海が微動だにしなくなったので、やっぱり鳴海の中では別れることになっているのかもしれないと思い訂正しようとしたら、「そういうことか」と呟いて顔を上げた鳴海の赤い眼と至近距離で目が合って、思わず言葉も呼吸も飲み込んでしまう。

「一つ言っておくが、もともと別れる予定などない」
「…………、え?」
「むしろボクを一度でもその気にさせておいて簡単に別れられると思っていたのか? おめでたい頭だな」
「え、いや、だって」
「距離を置きたいとキミが言ったのを了承したのは、手放す気などないからだ。一生ボクのものなんだから、少しの間だけ離れる程度は許してやろうという寛大な気持ちぐらい持っている」

 言葉は落ち着いているくせに重くのしかかるような、或いは肌を刺すような鳴海の激情。それを見て見ぬふりをするには、物理的距離が近すぎた。ある意味で怪獣と対峙した時よりも身の危険を感じるが逃げられる気がしない。

「ボクは欲しいものは必ず手に入れなければ気が済まない。プラチナランクも世間からの賞賛も、あとは討伐演習ランキングのタイトルだって亜白や糸目オカッパから取り返す」

 そう付け加えられたと思ったらそろりと鳴海の指が俺の耳をくすぐり、ぞくぞくと背中を這う快感を呼び起こした。2週間何もしていない身体は与えられる刺激に素直に反応してしまいそうで、静止の意味を込めてなんとか「なるみ」と声を発すれば、ちゅ、とこの病室に似つかわしくない音とともに唇にやわらかいものが触れた。

「っ!? な、」
「目が覚めたら、1週間程度リハビリしながら経過観察をした後に晴れて退院だと、医者が言っていた。退院したら、真っ先にボクの部屋に来い」
「………」
「その時はそんな言葉、口にするなよ。キミだって病み上がりぐらい優しくされたいだろう?」

 鳴海はそう言って病室を去って行った。去り際にベッドの枕元にあったナースコールの呼出ボタンを押していったらしく、1分と経たないうちに医者がやってきて俺の目覚めを喜び、脈だのなんだのと様々な検査が始められた。その後自分の小隊の隊員達がやってきて泣かれ、それはそれは病室とは思えない騒がしさだったが、鳴海から初めて向けられた威圧感と執着心を頭の片隅へ追いやるにはちょうど良かった。


 
目次には載っていない愛とか恋とか

 その後のリハビリが順調に進みすぎて3日目にして「この調子なら明日には退院できますよ」と笑顔で言われた時の絶望は、きっと俺にしか分からない。




title by BACCA
2022.05.25