一般人である自分は、防衛隊員としての恋人の顔を知らない。世のカップルはどうだろうか。相手の知らない顔なんて無いのが普通だろうか。分からないけど少なくとも俺は、優しい宗四郎しか知らなかった。

「……うっさいわ。疲れてんねん、暫く一人にしてや」

 宗四郎は低い声でそう言い放ち、俺を振り返らないまま寝室へと消えた。

 恋人になれば倦怠期なんて誰にでも訪れるものだ。世の恋人はみんなそれを乗り越えてきている。だけど俺たちは一般的な男女の交際ではないから、その例に漏れる可能性はもちろんあるんだろうなと思うと気持ちが沈む。

 防衛隊員は仕事の時は基地で寝泊まりをする。そして休みの日は家に帰ることが多いと聞くけど、宗四郎はただの隊員ではなく部隊の副隊長だ。休みの日でも基地に寝泊まりをしていてこの家にはあまり帰ってこられない。今日帰ってきたのはほぼ一ヶ月ぶりだった。
 亜白隊長という有名な人はテレビで見かけるけどその人以外は滅多に映らない。だけど今日はたまたまニュース番組に宗四郎が映っていたからそれを久しぶりに帰宅した本人に言おうとして、それがきっと駄目だったんだろう。

 一人にしてくれという言葉がどこまで本心かは分からない。ただ酒に酔っているわけでもない状態での言葉なので流石に同じベッドに入るのは憚られて、ソファで横になった。

 そうして暫く目を瞑ったが寝付けず、コンビニに行ってアイスでも買おうかと起き上がる。明日の朝食分の菓子パンがちょうど無かったからそれもついでに買えばいい。そう思って一番近くのコンビニに行くと宗四郎の好きな栗餡パンが無くて少し肩を落とした。
 徒歩5分の距離のこのコンビニじゃ大した時間にならなかったし未だに眠気もやって来ないから、結局少し遠いコンビニを2件梯子した。トータル3件目でお目当てのパンが買えたので、明日の朝は宗四郎にさっきのことを謝って朝食を一緒に食べよう。怒らせてしまった原因を考えて宗四郎にちゃんと話をして、もし俺に飽きたと言われたらそれはその時だ。

 ふと時間を見ようと思ってポケットに手を入れるとスマホの電源が切れていた。そういえば日中の時点で既に充電が残りわずかだったような気もする。さっきまで何も思わなかったのに、携帯が使えないとなると途端にどこか不安になるのは立派な依存症なのかもしれないなあと他人事のように思った。



▽▲▽▲▽



 仕事が立て込んでいて暫く家に帰れなかった。そんな僕にも優しくおかえりと言ってくれたナマエの口から「今日、テレビで亜白隊長が」と他の人間の名前が出てきたときにはもう、形容し難い感情が渦巻いていた。そうしてつい口が滑って、普段なら絶対に言わないような言葉を吐いてしまっていた。

「一人にしてや」

 つい、で恋人に言っていい言葉じゃない。だけどその時は無性にイラついて、早々に寝室へ向かってベッドに横になった。目を瞑ると押し寄せてくる後悔と罪悪感。ただそれでも積もった疲労のせいで身体は重く、一度横になった体勢からなかなか起き上がれない。ナマエが寝室にやって来ないことにも胸をちくちくと刺されながら明日絶対に謝ろうと心に決めて、のしかかる眠気に抗えずに意識を手放した。






 ふと意識が浮上し、寝起きで頭が働かない中でも基地ではなく自宅のベッドであることをなんとなく感じて、無意識に隣に手を伸ばす。

 ───いない。隣で眠っているはずの恋人がそこにいないことを認識するや否や、跳ねるように飛び起きた。暗闇に目が慣れずともベッドには自分一人であることは容易に分かって、それから感じた違和感。

「……ナマエ……?」

 家の中にナマエの気配がない。
 どくりと心臓が嫌な音を立てた。

 そんなはずはない。きっとリビングのソファででも眠っているはず。自分がああ言ったから寝室に入ってこなかっただけ。そう自分に言い聞かせながらリビングへ行きソファを見ても、そこにナマエはいなかった。

「ナマエ」

 何度か名前を呼んでも返事はなく、だから意味がないと分かりつつも、風呂やトイレなどあらゆるところを探した。家にいないなんて信じたくなかった。出て行ったんか? 僕があんなこと言うたから?

 ようやく携帯の存在を思い出して電話をかけるも、『お掛けになった番号は電源が入っていないか、電波の届かないところに──』という無機質なアナウンスで意味がなかった。拭いきれない焦りと苛立ち、そして後悔。うまく頭が回らなくて、自分の心無い言葉で突き放してしまった時の呆然とするナマエの表情だけが思い浮かぶ。

 玄関を見ると靴が無い。この家にナマエがいない現実を突きつけられて手のひらに汗をかく。

 探しに行かなければ。

 そう思って慌てて靴を履いてドアを開けると、ナマエが驚いた顔で立っていた。その姿を見つけた瞬間、全身から力が抜けてしゃがみ込んだこの感覚は一生忘れないだろうと思う。


▽▲▽▲▽


 家に辿り着いてポケットから鍵を取り出した時だった。目の前のドアが勢いよく開いて、思わず「うわっ」と情けない声が出た。

「……ナマエ……?」
「え、あ、うん」
「はーー………」
「え、宗四郎……!?」

 宗四郎は額を抑えてしゃがみ込んでため息を吐いた。その横を通りすぎる訳にもいかなくて、とりあえずドアを開けたまま様子を見る。脱力したようにしゃがんだままの宗四郎に俺は混乱して、「家入っていい?」ととりあえず許可を求めた。すると下からまたため息が聞こえてきたので首を傾げる。

「……どこ行ってたん」
「? コンビニだけど……」
「携帯は」
「あー、なんか充電切れたっぽい」
「…………僕のこと、嫌いんなった?」

 宗四郎がその場から動かないのでとりあえずドアを開けたまま一つ一つの質問に答えていると、思わぬことを聞かれて言葉が詰まる。もしかして家出したのかと思ったのだろうか? それらはさっき言ったことを気にしての言葉で、不安に思っているということだろうか。

「なってないよ」
「……けど、酷いこと言うてもた」
「あー、まあとりあえず家、入れてくれる?」

 俺の言葉を受けてか宗四郎はようやく立ち上がって、俺の腕を引っ張って抱き寄せた。ドアを開けていた支えが無くなったことでそれがゆっくりと閉まってオートロックが掛かり、世間から空間が切り取られて二人きりになる。玄関のフレグランスと宗四郎の匂いを色濃く感じる。よほど心配してくれていたのか隙間なくぴったりと抱きしめられ、そしてこめかみに頭を擦り寄せるように甘えた仕草をされた。珍しいその行動に少しどぎまぎしてしまう。

「ごめん」

 絞り出すような声が耳元で響いて、それがなんだか申し訳なく感じる。「俺もごめん」と言えば「ナマエは悪ないやろ」と小さな返事が返ってきた。
 
「全部僕が悪い」
「そんなことないって」
「起きたらおらへんの、めっちゃ焦った」
「疲れてんのに起こしてごめん」
「一緒に寝て。一人にせんといて」
「ふは、ごめんな」

 宗四郎の口からさっきと真逆の言葉が選ばれて声になったことが可笑しくて思わず笑うと、笑い事じゃないと怒られた。



▽▲▽▲▽



 謝って許してもらって、仲直りだなと笑うナマエを寝室へ招き、ベッドにナマエをやんわりと押し倒す。顔や首元にキスを落としながら話を聞くと、ソファで一度寝たけど眠れなかったこと、だからコンビニに行って、どうせならと僕の好きな菓子パンを探しに数件を回ったことを話してくれた。健気すぎてまた死ぬほど罪悪感に襲われた。

「……なぁ、触ってええ?」
「今触ってるだろ」
「意地悪言わんといて……。僕いま結構ダメージ食らってんねん」

 そう言うとナマエはまた可笑しそうに笑う。その顔はかわいいがもう限界なので、硬くなったモノを押し付けて服の下に手を入れた。

「っ、宗四郎は、俺に飽きたのかと思ってた」
「……オモロない冗談いま要らんけど」
「うん、まあ、勘違いだったな」

 ナマエの腕が首に回され、呼吸が近付く。素肌に指を滑らせる度にぴくんと身体が跳ねるその様子を堪能していると、少し掠れた声でナマエが言う。

「お手柔らかに」
「……それ、逆に煽っとるやろ」

 くらりとするほど甘い顔で見上げられ、理性もろとも飲み込まれるのを心地よく感じながら、もう二度と馬鹿な八つ当たりはしないでおこうと心に誓った。
この夜はあり來たり

僕のとなりでしか上手に息ができなくなればいいのに、なんて言ったら笑うだろうか。





2022.06.08