早弁をしない日なんて久しぶりだ。今日はグラウンドの点検だとかで今日一日練習できないため朝練も無くて、2限が終わってもそこまで腹が減らなかった。

 まあつまりいつも早弁していた時間だったので、持て余した15分ほどの特に休み時間にやることも思い浮かばずぼーっとしていると、やけに廊下が騒がしくなった。

「……ミョウジ先輩、いますか」

 ふと自分の名前が聞こえたので顔を上げた。サッカー部の後輩でも来たのかと思って扉の方を見ると、バスケ部一年の流川がそこに立っていた。頭ひとつ抜けた長身は目立つ。まあ流川が目立つ理由は身長だけじゃないけど。

 一年の時からの友達である宮城に頼まれて英語と数学を教えていた時についでに流川の分も見てやったら懐かれたらしく、廊下ですれ違ったりすると挨拶をしてくれるようになった。

 ただ、2年の教室までやって来て呼び出されるのは初めてだ。扉の近くにいた女子に少し顔を赤らめながら俺の名前を呼ばれてようやく、立ち上がって流川の方へと向かう。

「お待たせ。どーした?」
「今日サッカー部、休みなんすよね」
「え? あーうん、そうだな」
「放課後、空いてますか」
「……? 空いてるけど、バスケ部は練習あんじゃねーの?」
「こっちも体育館のなんかで部活無しになりました」

 廊下で流川を見上げながら話す。俺も170ぐらいあるんだけど、流川は更に見上げる高さだ。心なしか背中を丸めて話しているようにも見えて申し訳ない。
 いやそうじゃなくて、バスケ部も休みらしいことまでは分かった。それは分かったけど、放課後空いてるかという質問の意図はあんまりよく分かってない。

「……買い物とか、付き合ってほしいです」
「……別にいいけど、それ俺でいいの?」
「先輩がいーです」

 宮城によると、流川はバスケ馬鹿で一匹狼なんだという話だ。『可愛げがある時もなくはないが基本は生意気で無愛想』という前評判だったのに何回か勉強を教えただけで声をかけてくれるようになって、まるで野良猫が懐いたみたいな可愛げがある。まあ、愛想はあんまりないけど。

「じゃあどっか行くか」
「っ、いーんすか」
「ふは、お前が誘ってきたんじゃん」

 わざわざ教室まで来て誘ってくれたくせに、快諾されるのは予想外だったのか少しびっくりしたような表情を見せたのがちょっと面白くて笑ってしまった。普段の大人びた顔立ちから年相応に近付いたように見える。

「行きたいとこあんなら考えといて」

 もうすぐ予鈴が鳴ることも伝えて「じゃあまた後でな」と言って教室に戻ろうとすると、制服の裾を掴まれていた。もちろん流川によって。

「……ほーかごデート、楽しみにしてます」

 流川はそう言ってくるりと背を向けて一年の教室に戻って行った。でっかい体のくせに指先でちょこんと裾を掴んでくるいじらしさなんかもあってなんだかんだ可愛い後輩ではあるが、紛れもなく男である。そして俺も男。でも女子同士で出かけることをデートと言ったりするっぽいしそこまで気にするほどでもないかとその時は特に突っ込まなかったが、それがいけなかったのだろうか。



「流川? 何してんだこんなトコで」
「ミョウジ先輩とデートの約束してます」
「は?」
「待て待て。お前宮城に何言ってんの」

 基本は全部置いて帰る派だけど今日は宿題が出ている科目があるから持って帰る問題集を厳選していると、先に教室を出た宮城と流川の会話が聞こえてきたので鞄はそのままに思わず割って入った。

「? デートなんで」
「いやそ……うなんだけど、そうじゃなくて」
「あー、なんか悪いな。まあ頑張れよ、流川」
「うす」
「あ、そういやミョウジ今日日直だぞ」
「……完全に忘れてた。流川ごめん、ちょっとだけ待ってて」
「ハイ」
「ありがと宮城。ばいばい」
「おー」

 口数の少ない流川の言わんとしていることを察したのかはたまた諦めたのか、分からないけどとにかく宮城は深く追求せずに去って行った。

 黒板は授業の度にほぼ消してあるが一日の終わりには黒板消し含めてしっかり綺麗にする必要があるのと、授業ごとの日誌を書かなきゃいけない。教室に戻ると流川がついてきて「なんか手伝うすか」と聞いてくるので、待たせるよりはお言葉に甘えようと思って黒板をお願いした。
 クラスの奴らはみんな部活に行ったか下校したようで、普段の喧騒が嘘のように静かな教室に、俺が日誌を書く音と流川が黒板消しを滑らせる音が聞こえる。

「終わりました」
「おー、ありが、と……」

 終わりの合図とともに前の席に流川が座った気配がして、日誌を書くのを中断して顔を上げたらすぐ目の前に流川の顔があって驚く。悲しいことに身長差があるにも関わらずこの近さは、並んで座って数学を教えた勉強会の時以来かもしれない。本当にまつ毛長いな、と思っているとふいに顔が更に近付いて、唇がほんの一瞬ちょこんと触れた。

「は……?」
「……あ」
「えー、っと」
「……今のは先輩がワリー」
「え、ごめん……?」

 なんか知らんが俺が悪いらしい。珍しく拗ねたような声だからたぶん意地を張って出た言葉で本心ではないと思うけど、反射的につい謝ってしまった。

「デートつってんのに、ムボービすぎ」
「いや、出かけんのこれからで、」
「チガウ」
「な、何が……」
「スキな人と二人きりでいんのは、デート」
「……?」
「だからもう始まってる」

 好きな人と二人きり、という少女漫画やドラマで聞くような表現にぽかんとする俺の鼓膜に、「日誌まだすか」と急かす流川の声が響いた。

 
春の嵐



 それほど内容を求められない日誌を書き終えると、それに気付いたのか流川が立ち上がるので俺もそれに倣った。起きっぱなしの教科書たちから選抜された持ち帰りの必要がある問題集が数冊入った鞄は大して重くもないので、学校帰りに遊ぶにはちょうどいい。

「先輩」
「ん」
「好きです」

 ストン、と日誌を手から取り落とした俺の手を取って、反対の手で日誌を拾う。職員室へ持っていくことを知っているなんて意外だ。授業は一から十まで全部寝ていると聞いているけどどうなんだろうか。
 いや、今はそれどころじゃ、なくて。

「言うの忘れてました」
「……いや、あー、うん」
「俺頑張るんで、俺のこと好きになってください」

 見上げたその耳すら赤くないところが、俺ばっかりが心臓を叩く羽目になっているみたいでやるせない。俺の青春を返せ。




2023.09.21