※未来if






【悪い、先輩に誘われて飯行くことになっちまった】
【なるべく早く帰るけど遅くなるかもだから先寝てて。マジでごめん】

 午後8時頃、こういう連絡が来ることが多くなった。高校3年の春に告白されて、卒業の時に同棲の誘いを受ける形で始まったルームシェア。料理上手な葵に教えてもらって少し自炊できるようになって、手の込んだものではないけど自分の方が帰りが早い日はたまに作って帰りを待つ。
 けれど最近の葵は忙しいみたいで、大学のチームの打ち上げだけじゃなく、先輩後輩とご飯に行くことが増えた。そこに女性がいるかもなんてことを聞くのはきっと野暮だ。例えば野球選手と女子アナウンサーが噂になるなんてありふれたことだし、プロを目指している葵も葵も今から色んな出会いがあって、いつかその例に漏れずということになるかもしれない。

 俺にとって初めての恋人だったから分からないけど、別れるときってどういう流れなんだろうか。例えば俺が「別れよう」って言って、そしたら葵が「分かった」って言って、その次は?
 別れてからも同じ部屋で寝るなんて想像がつかないし、そもそも同じ家に住むのもどうなんだろう。けど俺の実家はそこそこ遠いから大学にも通いづらくなるのですぐ実家へ帰るなんてことはできないし、まあ体が資本の葵と違って俺はネカフェとかでも寝れはするけれど、とはいえあまり良くはない。別れを予感できている今なら、事前に引越し先を見繕っておくべきなのかもしれない。

 ご飯を終えて風呂から上がっても葵は帰ってこなくて、もう寝てしまおうとベッドに入るが寝付けない。スマホで大学に近い駅の近くの物件をいくつか探したけど葵がいない生活をなんだか想像できなくて、まずはそこからだなあと思いながら目を閉じた。



 今日は金曜だし、ご飯作っても外で食べるって連絡が来そうだなあと思って一人分だけ作って食べて、シャワーを浴びる。そこでようやく葵から連絡が入ってまたチームの人たちとご飯行くって連絡だろうなと思ってスマホを見ると、そのメッセージは少しいつもと違った。
【高校の野球部の奴らが集まってて、急なんだけど行ってきていいか?】
「──………」
 ほんの一瞬、考える。チームの先輩後輩との付き合いとは違う。俺がここで「嫌だ」と言えば、葵は帰ってきてくれるかもしれない。
 でも葵が高校の野球部で得た仲間を大切にしていることを知っているし、何より、なんだろう。少し疲れたというかほんの一瞬だけ、自分のことがどうでもよくなってしまった。いつか葵が選ぶのは俺じゃなくて一緒にいると癒されるような可愛い女の子かもしれないし、そうでなくても葵の人生を変えたらしい人たちの存在を俺が上回ることはきっとない。

【もちろん。楽しんで】
 既読をつけてしまってから返信が遅いと、優しい葵は気にするかもしれない。だから簡単な言葉でそう返信して、寝るには早すぎるけどいっそさっさと寝てしまおうと思ってベッドに入る。けれど、結局ぐるくると考えてしまって寝付けない。

 葵は俺といるより、チームの人とか元野球部の人といる方が楽しいんだろうなと思う。野球の基本的なルールは流石に覚えたけれど、細かなプレーの凄さだとか配球や戦術だとかまでは分からない。野球の話で盛り上がれるのが葵にとっては何より楽しくて有意義な時間なんだろう。俺が女の子だったらどうだったかな、とまた考えるだけ無駄な思考すら湧いてきて嫌になる。
 なんとなく思い立って、部屋着だったのを適当な服に着替えて、財布とスマホをカバンに入れて家を出た。葵に誕生日プレゼントとしてもらったこの財布も、別れたらさっさと手放すべきなのかなあとぼんやりと思った。

 別に、どこに行きたかったわけでもない。飲んだら少しは忘れられるかもしれないと思っただけ。最寄駅から数駅先の繁華街で、適当な居酒屋に入って漬物とレモンチューハイを頼んだ。お腹が空いているわけじゃないからチビチビとお酒を飲んではボーッとSNSを眺めていると、2杯目のハイボールを飲み干したところで葵からメッセージが届いた。
 今どこ? 何してんの? 今日どっか行くって言ってた? 心配だから返信してくれ。なんて、次々届くメッセージを通知だけで読んでスマホの電源を落として、カバンの中に入れた。
 電源を切る前に見えた時刻はもうすぐ日付が変わるところで、いつも23時頃には帰ってくる葵にしては遅めの時間。友達との飲み会楽しかったんだろうな、と考えてまた落ち込んで、それも全部アルコールで流し込んだ。

 結局3杯ほど飲んで店を出て、そこでようやくスマホの電源を入れると、50件近いメッセージと数分置きに入っている着信。そしてそのタイミングでちょうど電話が鳴ったので、つい反射的に通話ボタンを押してしまった。

「っあ、もしもし、」
『ナマエ!? 今どこだ!?」
「ッ、あの、ちょっとだけ、飲んでて」
『こんな時間に家出るなら連絡しろ! 心配すんだろ……!』

 今まで聞いたことがない声と口調に、アルコールでぼんやりしていた頭が一気に覚める。一緒に住んでいる相手が連絡もないのに家にいなくて、だから葵が怒るのは当たり前。謝って今すぐ家に帰って、仲直りするべきだ。だけど、飲んでいる間もずっと巡らせていたネガティブな思考が邪魔をして。

「葵も、帰って来ないじゃん」
『は……?』
「なんで葵は良くて、俺は駄目なの」

 分かってる、葵はただ俺を心配してくれていること。そもそも、葵は連絡なく飲みに行ったりすることはない。だからこれは、俺がちょっと飲みに行ってくるって、たった一言連絡を入れれば良かっただけの話だ。そしたら葵をこんなに怒らせることはなかったし、自業自得なのに葵に怒鳴られてじわじわ込み上げてくる涙を瞬きして乾かすような、自分の情けなさに呆れることもなかった。大切な人の隣にいるのがこんな自分であることが、あんまりにも耐え難いと思った。
 葵の隣にいるのは俺じゃない方がいいのかも。前々から思っていたそれが、頭の片隅に残るアルコールの痺れで「別れたい」と震えた喉から言葉になって零れ落ちた。

『え……?』
「──あ」

 それが言葉になったこと、小さな響きだったはずだけど葵に届いてしまったこと。それが分かってしまって、あぁもう駄目だな、と思うと少し冷静になれた。

「ごめん、ちょっと酔ってるかも」
『……え、ぁ』
「今日はネカフェ泊まるから心配しないで。また会って話そう」
『待っ、て、ナマエッ」
「ごめんな。おやすみ」

 ぷつん、と電源を切って耳からスマホを離した。葵の声の熱量が耳に残ったみたいに右耳だけが熱くて、そのくせ心臓が冷たくなる心地だった。

「……あーあ」

 言っちゃったな、という一言はなんとか噛み殺した。終わらせる言葉を口にしたのは俺で、今日言わなくてもきっといつかこうなっていた。
 ネカフェに行ったことはあるけど泊まりは初めてだな、とドアに貼ってある料金表を眺めながら思った。今まで基本的には飲み会は断っていたし、どうしても参加しないといけない場合でも終電には余裕をもって間に合うように抜けていた。全部、早く家に帰って葵の顔が見たかったから。まあ、そんなことを思ってたのは俺だけだったみたいだけど。


▽▲▽▲▽


『別れたい』

 電話でナマエにそう言われた瞬間、本当にその一瞬。心配と焦燥でイラついていた感情とか昂っていた自分の体温とか、ナマエの後ろに聞こえる喧騒とか、そういうものがピタリと凪いで、ついでに自分の頭の中も全部が真っ白になった。

「……寝れねえ」

 「別れたい」から「おやすみ」まで、全部の言葉が鼓膜にこびりついて火傷しそうだ。何度思い返しても俺は振られて、いやたぶんあれは衝動的に口から出てしまったような感じだったけれども、とはいえ思わず言葉にするほどナマエが思い詰めていたことは確かで。改めて会った時に面と向かって振られるんだということは明白だった。

 小手指野球部のやつらと飲んでいつもより帰りが遅くなって、もう寝てるだろうなと思ってなるべく音を立てずにドアを開けた。玄関の明かりがついていないことに違和感を感じて、足音に配慮することも忘れて寝室に向かえばそこにナマエの姿はなかった。いつもはナマエの寝顔を見てから風呂に入って、上がった後にはまたその寝顔を眺めてから隣のベッドに入って寝る。それが当たり前になっていて、それだけでも幸せだった。

 いないことに焦って、今日飲み会か何かの予定があると言っていたかと共有のカレンダーアプリを見返すも分からなくて、メッセージを連投する。既読はつかない。
 焦れて電話をかけるが電源が入っていないというアナウンスで軽く絶望した。無事ならいい。でも連絡もなく出て行くだろうか? 何かあったとしたら、と思うと背中を嫌な汗が伝って、時間をおいては何度もメッセージと電話をかけた。

 そうしてようやく電話が繋がった時、つい怒鳴るような声で詰め寄ってしまった。ナマエの『葵も帰って来ないじゃん』という言葉には、今までの穏やかで大らかなナマエとは違う、俺に見せたことのない感情があった。事情も聞かずに言い過ぎたことを謝らなければと思って、その矢先の『別れたい』だった。

 呼吸を置いてけぼりにしたようなあの一瞬、今思えばナマエの声は少し震えていたような気がするし、微かに鼻を啜る音も聞こえた気がする。

 俺が泣かせた。ナマエが意味なく夜に外に出るなんてことするわけなくて、これまでの自分の行動を振り返る。最近まともに話していないことにそこでようやく気付いた。主に、というか100%、俺のせいで。

「……アホか俺は……」

 好きなやつを蔑ろにして話も聞かずにでかい声出して問い詰めて、泣かせて、結果振られそうになっている。……もう既に一度決定的な一言を言われているのでほぼ振られているわけで、考えれば考えるほどアホでバカだ。

「別れたくねー……」

 虫のいいことを言っている自覚はある。それでも、ナマエが好きだという気持ちは今も変わらない。俺から告白したし、お試しでもいいからと押して押して、女にもそれなりにモテていたアイツの恋人というポジションを勝ち取った。付き合っていく内にあいつからも好きと言ってくれて、手を繋いで抱きしめてキスをして、初めて体を繋げた。童貞をナマエにもらってもらったし、これからもナマエにしか触りたいと思わない。

 どうしたら許してもらえるだろうか。こんな時、たとえば千早になんか相談したらボロクソに言われるだけだし、いやこれはいくら優しいヤマあたりに相談しようが圧倒的に俺が悪いから解決策は得られないだろう。というか多分、誰かに教えを乞う時点で駄目だ。俺がちゃんと考えて、反省して、ちゃんと伝えなければ。
 眠れない上にじっとしていられなくて、何度も寝返りを打つ。ナマエのベッドには脱いだままの部屋着が置かれていて、いつもは畳まれているそれをぼんやりと眺めた。



 次の日、ナマエは普通に帰ってきてくれた。「ただいま」という声だけ聞けばいつも通りだけど、その表情にはいつもの温かさがないように思えて心臓がギシギシと軋んだ。

「昨日、心配かけてごめん」
「っ、いや、俺こそ……、でかい声だして、悪かった」
「連絡しなかった俺が悪いから。ごめんな」

 「ごめんな」という優しい言葉は、例の「おやすみ」の前にも言われた気がする。ナマエの言葉選びはいつも優しくて、だからきっと俺は無意識の内に調子に乗ってしまったんだと思う。二人の時間を取らなくてもナマエなら許してくれるなんていう思い込みだ。恋人っていうのはきっとそれじゃいけないのに。
 少しの沈黙が訪れてしまって、今日は俺が先に何か言わなければと思うのにナマエの淡々とした口調が「別れたい」を思い起こして心臓が勝手に鼓動を速めて呼吸を急かして、言葉の端すら喉につっかえて出てこない。

「……物件、いくつか目星つけてて」
「え……?」
「来週には内覧行ってくるけど、引っ越すのは早くても来月になると思う。それまでは、居させてくれると助かるんだけど」

 足元がぐらつく感覚に心臓が嫌な音を立てる。なんとなくもう一度「別れよう」とでも言われると思っていたし、それに縋ることを考えていた。だけど実際はナマエにとってはその段階はとっくに過ぎていてもう俺は過去になりつつあって、ナマエは俺と別れた後の未来の話をしている。

 ああ、駄目だ。色々と覚悟を決めていたはずなのに、恋人の気持ちが離れるっていうのはこうも胸が痛いものなんだと知る。心臓を服の上から抑えようが掴もうがきっと意味はないことは分かっているのに、それでもそんな仕草をするドラマや映画のワンシーンなんかに初めて共感した。

「……葵?」

 別れたら、一緒には住めない。それはそうか。考えれば分かることなのに、ナマエが初めての恋人だから俺は何も知らなかった。俺たちは大学だって違うから、別れたらそうそう会えない。もしかしたらメッセージとかも全部ブロックされて、そしたら直接会うだけじゃなく何かを介してやり取りすることもできなくなるかもしれない。

「……え、泣いてんの……?」

 すん、と鼻を啜る自分が情けない。こんな格好悪いところ、好きな奴に見せたくなかった。こんなに泣くのは部活を引退した時以来かもしれない。拭おうが何をしようがぼろぼろと溢れる涙にナマエも戸惑っているようで、「そんな擦ったら目腫れるよ」と俺の手に触れた。

「悪かった」

 近付いた体温が堪らなくて反射的に抱きしめたのと、謝罪の言葉を口にしたのはほぼ同時だった。今まで好き勝手してナマエの気持ちを考えられていなくて、ついには昨日泣かせて、なのに今、勝手に抱きしめて。全部に謝りたいのに、どの言葉も何か違う気がする。

「好きだ」
「……っ」
「……もう振られてんのに、女々しいことして、わりぃ……」

 ナマエは息を飲んで、そして何も言わない。別れたと思っている奴にこんな風に触られるのは嫌かもしれないから離さないといけないのに、この匂いも感触ももう二度と感じられないと思うとまた涙が込み上げてくるから格好悪い。

「……葵、まだ俺のこと、好きなの」
「……え」

 破局寸前もしくは破局直後ではあるけれども間違いなく恋人なはずのナマエが溢した言葉は、問いかけというにはあまりにもぼんやりとしたものだった。独り言みたいなそれは呟いたというよりも言葉が漏れたような響きで、抱きしめていた体を離して目を合わせた。

「……好きだ。マジでめちゃくちゃ好き」
「……でも最近、あんまり時間合わなかったし。女の子の方が良くなったのかと思って」
「ッんなわけねえ!」
「っ!」
「あ……ッ、いや俺が悪い、マジでごめん、またでかい声出してごめん。けど冷めたとかはマジでなくて、家帰ったらナマエの寝顔見れるから、ぶっちゃけそれで満足してた」
「………」
「不安にさせるまで放ったらかして悪かった。反省してる、から、その、……」

 別れたくない、やり直したい、という図々しい言葉まで口にしていいものなのか分からなくて言葉に詰まる。そもそもナマエは俺に愛想を尽かしたから別れたいと思ったわけでもう俺のことは好きでもなんでもないかもしれないし、そんな奴に寄りを戻したいと言われても困るだろうことは流石に分かる。けど諦めきれなくて、家に帰っても家で待っていてもナマエからの「ただいま」や「おかえり」がない生活が想像できない。

「……俺、野球のルールは大体分かってきたけど、細かいことはまだよく分からない」
「……?」
「だから葵は俺といても、楽しくないんだろうなって思った」

 ぽつりと呟かれた言葉は寂しそうで、きゅう、と胸が狭くなるような感覚になって思わずまた抱きしめた。
 ナマエが元々、野球にそこまで興味がなかったのは知っている。俺と付き合ってから俺の試合を観るために色々調べて勉強してくれていた。家で一緒にプロ野球の中継を見ながら横で教えたりして、ルールや戦略を知って楽しそうに野球を観るナマエが可愛かった。

「……俺のために野球のルール覚えてくれて、俺の好きなもん理解しようとしてくれて、めちゃくちゃ嬉しかった」
「……うん」
「チームの奴とか野球やってた奴らで集まると確かに、野球の話することも多いけど、それが分からないと面白くないとか楽しくないとか思ったことねぇ。昔から野球しかやってこなかったから、ナマエとそれ以外の話すんの好きなんだよ」
「……そっか」
「できれば、別れたくない、です……」
「うん。……俺も」

 俺の情けない懇願に肯定の意を示してくれただけでなく、ナマエの腕が俺の背中に回った。それだけでも色んな感情が頭を埋め尽くしたのに、ナマエは俺の胸に擦り寄って顔をうずめて「俺も葵が好きだよ」と呟いた。抱きしめたのは今日二度目で一度目は一方的に抱きついただけだったけれど、今日初めて抱きしめ返してくれた。

「チームでの付き合いが大事なのも分かってるし、友達大事にしてるとこも好きだから、そういうの縛ったりしたくない」
「……俺は我慢して欲しくねぇから、ちょっとでもなんかあったら言ってほしいんだけど」
「……じゃあ、……」

 ナマエは少し言葉を飲み込んだ。そして俺の胸に顔を押しつけたまま「時々でいいから、俺のこと一番にして」と小さな声で呟いた。その言葉はどこまでも優しくて、というか健気でいじらしくて可愛いくて、マジで二度と泣かせないし絶対一生大事にしようと心に誓った。

ささやかな真昼ごと


 仲直りした後、ナマエが眠そうにしているので昼寝を提案すると「ちょっとだけワガママ言っていい?」という前置きとともに添い寝をお願いされた。ネカフェでは上手く眠れなかったらしく、一緒にベッドに入るとすぐに寝てしまった。
「……おやすみ」
 別れ話のあとに電話越しに言われたその言葉を今度は俺から伝えて、俺もナマエの体温を感じながら目を閉じた。普段寝ない時間に寝過ぎるとリズムが狂うので良くないのは分かっているが、今日ぐらいは恋人と過ごす休日を噛み締めたいと思った。





2024.09.29