その深い海のような瞳が好きだった。褥で抱かれるとき、その瞳に自分しか映っていないように思って、まるで色事に興味の無さそうな凪いだ海のように静かなこの人を、夢中にさせられているような感覚だった。

 無口な人ではあるけれど、朝になるまで必ず傍にいてくれて、俺が目を覚ますと俺の身体の心配をする、その律儀なところが好きだった。

 優しいのだ、この人は。もしかして俺が想っているのと同じように俺を好きでいてくれているのではないかと、そんな滑稽な錯覚を起こすほど。

▽▲▽▲▽

 ───鬼を連れた隊士のために、冨岡さんは恩師と共に、腹を懸けたのですよ。

 胡蝶さまからそんなことを聞いて、俺は一瞬、息をすることを忘れた。

 義勇さんが助けた人間と、鬼になった妹。鬼ではあるが今まで一度も人を殺したり食べたりしておらず、鬼殺隊となったその人間と今後も行動を共にする。

 そしてもしその鬼が人間を襲ったら、責任をとって義勇さんが腹を切る。

 ぐるぐると、思考がまとまらない。もしもその鬼が明日にでも人に襲いかかった場合、義勇さんは自ら腹を切るということ。今回の件はお館さまも認めているというから、きっと簡単にそのような事態にはならないのだと、きっと大丈夫なのだと、頭では分かっていても心が追いつかない。
──俺は、何も知らなかった。

 昨夜の任務で負った、決して浅くない左腕の傷の痛みが分からなくなるほど、俺は動揺していた。いや、分かっていた筈だ。信じようとしていなかっただけ。

 俺だけが義勇さんを特別と思っていて、義勇さんにはもっと特別な人間がいる。ただそれだけの話だった。



 ぼーっとしていたせいで気配を探るのが疎かになっていた。蝶屋敷の廊下で義勇さんと鉢合わせて左腕の怪我に気付かれて、具合を聞かれて。大した怪我じゃないから大丈夫ですと答えて、次の任務の支度があるからと、義勇さんの顔を見ないままその横を通り過ぎた。

 その時の義勇さんからは少し戸惑ったような気配がしていたけれど、俺はそれを気にする余裕はなかった。

 暫くは会わないと決めて、任務と鍛錬に時間を費やした。義勇さんに会うと胸がずきずきと痛む。だけど会わないなら会わないで何かに没頭していないと、気が狂いそうだった。





 一週間ほど経った日、同期が怪我をしたので、蝶屋敷へ見舞いに行った。あちこち骨が折れていて暫く入院するらしいが、とりあえず元気そうだったのでホッとした。

 蝶屋敷を出ようとしたところで、今度は早めに気配に気付く。しかし、だからといって急に裏口へ回って出るわけにもいかず、結局は屋敷の正面玄関の扉を開けた。

「……ナマエ」
「W冨岡さんW、お疲れ様です」
「……、また怪我でも、したのか」
「いえ。同期の見舞いです」

 名前を呼ぶのは二人の時だけ。それを決まりとしていた。今は一応二人きりではあるので義勇さんは俺を名前で呼んだけど、此処は蝶屋敷の前。色んな人が出入りするこの場所では、名前を呼ぶのは避けた方が良いという判断だった。そもそも、俺は一般隊士で義勇さんは柱なのだと改めて思う。本来なら、継子でもない俺は柱に頻繁に会うことすらできないのだ。

 義勇さんは俺の言葉に何も言わなかった。表情も変わらないので、呼び方云々はどうやらあまり気にしなかったらしい。同期の見舞いだと伝えたときには顔が一瞬強張った気がしたけど、きっと見間違いだろう。

 すれ違いざまに軽く手を繋がれる。誰かに見られるとややこしいので離したいが、義勇さんがこれをする時は本当に誰もいないので、おそらく大丈夫なのだ。ただ俺の心が落ち着かないだけ。

「今夜も、会えないか」
「指令が来ていますので。すみません」
「……そうか」

 つい先日と同じように、顔を見ずに横を通り過ぎた。義勇さんの声音はいつも通りだ。俺はどうだ。いつも通り話せていただろうか。好きな人に嘘をつくことがこれほど心苦しいとは知らなかった。会うたびこうやって虚辞を述べなければならないと思うと、心臓に少しずつ鉛が落ちて積もっていくようだった。

 会わなければ、偽る必要もない。俺はこの日から、更に任務と鍛錬を詰めるようになった。会う可能性を少しでも減らすため、同期や友人の見舞いへ行くなど以外は、多少の傷なら自分で手当てをし、出来る限り蝶屋敷にも近づかないようにした。






 一ヶ月、二ヶ月と会わない日々が続くと、胡蝶さまに義勇さんの話を聞いたあの日から心にかかっていた靄(もや)は、次第に晴れるようだった。

 代わりに、一日の終わりに必ず、神だか仏だかに感謝した。一般隊士と違い柱の訃報はすべての隊士に告げられるから、それが無いということは、今日も義勇さんは生きている。腹を切るような事態になっていない。毎日、安堵した。

 毎晩のように鬼を狩っていて思う。いくらお館様が容認したとはいえ、その少女はれっきとした鬼だ。鬼が人間を喰わないことがどれほど凄いことかは分かってる。奇跡だ。鬼が人を襲わないこと、つまり義勇さんが生きていることは、奇跡的なことだ。例の鬼とその兄である隊士にも同じように感謝する日々だった。


 三ヶ月が経った頃、俺は漸く落ち着いた心地がした。義勇さんのことを考えないでいられる時間が増えたのだ。この三ヶ月の間に二回ほど、義勇さんから近況を尋ねる文が届いたが、どうすれば良いか分からず返事を書き損ねた。それ以降は来ないので、もう俺に呆れたのかもしれない。

 三ヶ月会わないでいると改めて思う。俺は一般隊士で義勇さんは柱。柱である義勇さんは元々忙しいから、俺が合わせなければ会うことはない。

 ──はずなのに、任務が終わって家に帰ると、家の前に、二つの柄の羽織を着たその人が立っていた。俺の家など知らない筈だ。会う時はいつも、俺が義勇さんの家に行っていたから。

 W義勇さんWと呼ぶ前に、俺に気付いた瞬間に距離を詰められきつく抱きしめられた。元々、力では敵わない。だけど暫くすると、抜け出せないほど強い力が込められるわけではなくて、縋るような、俺の存在を確かめるような抱擁になったので、逆にどうすれば良いか分からなくて。「義勇さん」と、今度こそ名前を呼んだ。

「何故、文を返さない」
「……それは」
「いくら探してもお前に会えない、見かけることもない。だから文を送ったのに、返事もない。もしかして任務で、何かあったかもしれないと、……死んだのかもしれないと、何度も思った」

 俺も、訃報が届かないからきっと今日も貴方は生きていると、そう思い込まなければ生きた心地がしなかった。

「柱や、名を知りうる限りの隊員や、蝶屋敷の者にお前の安否を尋ね、僅かでも情報を知るたびに安堵した。毎日、それの繰り返しだ。毎夜のように酷く不安になって、人づてにお前の無事を知って、ようやく少し眠れる」

 俺もそうだ。一日の終わりに必ず祈って、縋って、明日もどうか義勇さんの命を散らさないでほしいと、腹を切るなどさせないでほしいと、そう願ってしか眠れない。

「どうして俺を避ける。どうして他の者には会えて、俺には会えない」

 貴方こそ、どうして。

「どうして俺は、おまえに触れられない」

 どうして俺に、何も言ってくれなかったのですか?