※捏造しかない世界線










 生まれた時から俺は、何も持っていない上に可愛げもない子どもだった。二卵性の双子として生まれた兄の万次郎は愛嬌があって空手も強くて、何より人を惹きつけるような雰囲気があって、みんなに一目置かれる存在だった。

 俺はそんな兄が誇らしくもあったけれど、同時に疎ましかった。この兄と一緒にいたらずっと『佐野万次郎の弟』なんだと思うとどうにもやるせない気持ちになるのは確かで、少しずつ兄から距離を取るようになった。

 周りの人や友達はみんな万次郎を特別扱いしたけれど、長男の真兄は俺のことも同じように可愛がってくれたと思う。兄の万次郎と違ってきっと弟らしさが無く可愛げが無かっただろう俺にも、兄心を持って接してくれた。真兄の前でなら自然に笑えるようになった。

 だけどそれも長くは続かなかった。万次郎は真兄を取られたみたいで気に食わないのか、俺への当たりが強くなった。殴られるとか蹴られるとかそういうことでは無いけど、見るからにツンとした態度になったのを感じる。俺の方が避けていたのだから今更なのかもしれないけど、真兄が絡むとなれば話は別なのだろう。

 俺は真兄とも距離を取るようになって一人になった。エマは自分のために「マイキー」になってくれた万次郎がいいはずだし、じいちゃんだって腕っぷしどころか身体も弱い俺よりきっと万次郎の方が孫として誇らしいはずだ。





 そんな折、真兄に店を手伝ってほしいと言われてバイクショップに行った。ジリジリとした日差しが肌を炙る8月の初旬、自分と万次郎の13歳の誕生日の、一週間ほど前のことだった。
 手伝いなんてただの建前でたぶん俺のことを心配して呼んだんだろうなってことは、あまり急ぎではない作業を頼まれてしばらくして気付いた。閉店時間になって店を閉めると、真兄はいつもの人好きする笑顔で「ちょっと話そうぜ」と言った。

 ジュースとお菓子を出してくれて真兄の友達の話なんかを聞いているうちに少しずつ自分の話をするようになった。自分は万次郎のようになれないこと、比べられるのには慣れたけど時々しんどいこと、だけど本当は万次郎と仲良くしたいこと。止まらなくなって、気付けば深夜と呼べる時間になってしまった。

 そろそろ帰るか、と兄に言われて立ち上がると閉めたはずの店先から音がした気がした。

「真兄、俺ちょっとお店見てくる」
「え? あ、おい!」

 警報装置も作動しなかったから、だからもしかして家族の誰かだとかもしくは風の音だとか、そういうのだと思ったんだ。結果として、俺はこの時の軽々しい考えを一生後悔することになる。




 強盗二人を視認して向こうも俺のことを見た、その後の記憶がまるで無い。気付いた時にはもう真兄は何かで頭を殴られていて、気付いたらその強盗はいなくなっていた。今更警報装置が作動したらしいが俺は放心していた。救急車を呼ばなきゃと頭では分かっていたが、血を流して倒れる兄に震えが止まらなかった。警備会社が連絡したのか、やがてやってきた警察と救急隊員の人に声をかけられるまで動けなかった。

 ただ分かったことは、俺を庇って真兄が頭を殴られたのだということだけだった。俺が最初に強盗と対峙したのに俺は無傷で真兄が倒れている。自分の行動の馬鹿さと浅はかさを嘆いた。

 真兄は一命を取りとめたものの、昏睡状態でいまだ目が覚めない。

「……おまえじゃなくて、真一郎がいたらよかったのに」

 涙目で俺を見ることなく言われた万次郎の言葉にはショックも受けたけれど、それ以上に納得した。間違いないなと素直に思った。真兄の代わりに自分が死ねば良かった。

 あぁ、そうだ。
 殴られたのが、目が覚めないのが俺だったら良かった。
 真兄は兄貴だったけど父親代わりでもあったから、そんな人がいなくなって平気なわけがない。エマもじいちゃんも悲しんでる。全部ぜんぶ、俺のせいだ。

 オレが無事だから、真兄が此処にいないんだ。オレが居なければきっと、真兄は戻ってきてくれる。

 一度そう気付いてしまったら、早く居なくなりたいと思った。万次郎だけじゃなくて、エマもじいちゃんも幼馴染の場地も、真兄と仲が良い黒龍の人たちも、きっとみんなそう思っているだろう。迷惑をかけずにいなくなるなら、夜の海がいいと思った。

 夜に家を抜け出して、海までの道を走る。警察官はもちろんだけど一般の人にも見つかったら通報や補導をされるんじゃないかと心配だったけど、フード付きのウェアを着ていたからトレーニングとしてジョギングを行なっている人間を装えていたかもしれない。

 そうして着いた海は昼間の青とは違い、黒い波が穏やかに打ち寄せられていた。その暗さはちっぽけな自分の存在を隠してくれるような気がして落ち着いた。そして、呼ばれるように海に向かって砂浜を歩いた。

 ざぶざぶと迷わず進む。置き手紙を残しただけになったけど、きっと大丈夫だろう。捜索願いを出すようなことになったら迷惑をかけるけれど、しばらく見つからなければ警察の出番になるだけ。そして、それでも見つからなければきっとそれまでだ。俺のことなんかすぐに忘れてくれる。

 恐怖なんかは微塵もなかった。俺の中にあったのは漸く楽になれるという気持ちだけで、その為なら一瞬の息苦しさなど耐えるにも及ばない容易い過程だった。足がつかないところまで来て、そうしてそのままざぶんと海に沈んだ。生温いとも冷たいとも感じる水の温度。顔も覚えていないが母親の羊水に浸かっているとでも思えば、自然と力が抜けた。


▽▲▽▲▽


 俺には双子の弟がいた。
 オレと違って真面目で頭が良くて、どちらかといえば人見知り。体はちょっと弱くて、空手なんかはほんの準備運動程度で終わるような奴。その代わりテストの点はいつも満点で、だけど嫌味もなくて周りに教えたりしていつも囲まれてる、そんな奴。

 なんとなく放っておけないような雰囲気を持っていて、よく女子に話しかけられていた。ナマエから積極的に話しかける場面はあまり見たことがないのに、昔から主に女子に囲まれたり頼られたりしていたと思う。今思えば、ナマエは優しいから女子が話しかけやすかったんだろう。なんとなく年齢よりも大人びていて、だけどそれでいてどこか儚い感じがして、昔からなんとなく目が離せなかった。

「おれとナマエはふたごなんだから、ずっといっしょだぞ。オレからはなれんなよ」
「うん、わかった。ずっとまんじろうといるね」

 だからこんなやり取りを何度も繰り返した。ナマエは道場で会った場地ともすぐ仲良くなったて、人見知りだけどオレの友達だと言うと少し安心したのか場地とはよく話すしよく笑うようになった。ナマエを誰かに取られるのがイヤで、その台詞を何度も言い聞かせては、肯定の返事が返ってくることに満足した。

 だけど成長していくにつれて、当たり前だけど世界は広がっていく。ナマエがオレの知らない人間に笑いかける度、面白くない気持ちになるのを止められなかった。
 真一郎にすら「ナマエと何話してたんだよ」と詰め寄ったり「あんまナマエに触んなよ」とむくれたりもした。するとある日真一郎は困ったように笑って「マンジローはホントにナマエのことが好きだなァ」と言った。

 好き。オレ、ナマエのこと好きなの?

 真一郎の言う「好き」はたぶん兄弟としてのそれで、だけどオレのそれが同じかどうかは分からなくて。ただ困惑と恥ずかしさでどうしていいか分からずにナマエとあまり話せないでいると、ナマエがオレを避け始めた。なのに他の奴にはいつもの笑顔で話しかけているのを見てイライラしてさらに態度に出してしまった。






「おまえじゃなくて、真一郎がいたらよかったのに」

 あんな言葉を言うつもりはなかった。ナマエだって唯一無二の兄弟なのに、ナマエに怪我がなくて良かったって言えばよかったのに。ただ父親みたいでもあった兄貴がいなくなって、それに寂しくなって八つ当たりしてしまった。
 謝らなきゃって思ったのになかなか言い出せなくて一週間が過ぎた。

 夜にトイレに起きて、なんとなくナマエの部屋に足を向けた。あの時のひどい言葉については本当に謝ろうと思った。明日の朝こそちゃんと謝ろうと、そう思って。だけど今もし目を覚ましてくれたら、これまでみたいに決心が鈍らないうちに今、きちんとナマエと顔を合わせてナマエの目を見て、ごめんって言うつもりだったのに。

「ナマエ……?」

 部屋に入ってまず感じた違和感。部屋が暑い。冷房を入れないと寝苦しい夜なのに。そう思ってベッドに近づくと、そこにナマエはいなかった。
 トイレには居なかったはずだから、じゃあリビング? 喉が乾いて水でも飲んでるのか? こんな暑い部屋で眠っていたならそれも当然だ。なんで冷房付けてねえんだよ。熱中症ってたしかこういう感じでなるんだぞ。

「…………は?」

 目が慣れてきたこと、そしてカーテンが少し開いていて月の光があったから、まずは部屋の電気をつけてクーラーのリモコンを探そうと思った。そしたらいつも整理された勉強机に白いメモが無造作に置かれていて違和感があったから、暗い部屋でもやけに目立った。そこに置いてある文字がぼんやりと読めてしまって、だけどその内容が訳がわからないもので、きっと見間違いだと思いつつ慌てて電気をつける。

WちょっとでかけてきますW

「……なんだよ、これ」

 温度のない無機質な声が溢れたと自分でも思った。だけどそんなことよりも、何度読んでも頭が拒絶しようとしてしまうその一文を理解することに必死だった。
 ナマエは優等生だ。私生活でも学校でもいつでも、オレなんかとは違って。だからこんな時間に外に出るはずがない。

 それなのに出かけた? いつ? こんな夜中に? なんで?
 ──そんな訳ない。このメモはただ別の日の書き置きで、きっとこの家のどこかにいる。きっとそうだ。

 そうやって思い込んで、なかなか冷房の効かない暑い部屋で待つもののナマエは戻ってこなくて、嫌な予感がする。心臓がドクドクと変な音を立てる。いつもは抗えないはずの眠気すら少しも感じない。

 落ち着け、そんなわけない。いなくなるわけない。ずっとオレといるって昔、約束しただろ。オレたちは家族で、オレとナマエは双子の兄弟なんだから。



 そんな時、家の電話が鳴った。深夜特有の静寂の中、随分とけたたましい音で響いて思わず肩が跳ねた。今の時間に不釣り合いな音は嫌な予感を加速させた。外は次の光とほのかな外灯だけで真っ暗だ。電気をつけて明るくしたこの部屋の壁掛け時計を見てみれば、夜の1時を回ったところだった。
 こんな時間にかけてくる非常識な人間はそういない。つまり、急を要するということで。




 そこからはよく覚えていない。その電話が病院からで、『ミョウジナマエくんが意識不明の重体』と告げられ、じいちゃんとエマと病院に行った。
 呼吸器に繋がれたナマエが寝ていて、訳がわからないまま見つめることしかできない。看護師の人が経緯を教えてくれた。夜の海に人影を見つけた人が不審に思って通報して、最終的には救出されたらしい。夜勤を担当していた医者が過去に偶然ナマエの診察をしたことがあったから身元が分かって、家に連絡が来たという。

 俺のせいだ。
 夜の海に一人で行く理由なんてそれしかない。ナマエはきっと、一人で死のうと思ったに違いない。

「なあ、起きて」

 じいちゃんは泣き喚いて疲れて寝たエマを寝かせてから医者の話を聞きに行った。オレは足が地面にくっついたみたいに動けなくて、青白いナマエの顔を見ながら話しかけることしかできない。

「オレさ、あんなこと、思ってないよ」

 こんな馬鹿な言い訳、何言ってんだって思うよな。だけどほんとなんだよ。言うつもりなかったこと言っちゃって、だから謝ろうと思ってたんだ。今日の朝、いつも通りナマエがオレを起こしに来てくれて、エマとナマエが作った朝ご飯を食べた後に。
 先に食べ終わったじいちゃんが新聞をポストに取りに行ってそのまま部屋に戻って、次にエマが髪の毛とかいじるの時間かかるからってごちそうさまして。そのあとナマエが食べ終わって部屋に戻るまでの数分間、オレとナマエが二人きりの時間があるから、そこでちゃんと言おうと思ってた。本当なんだよ。

「ごめんナマエ、おれ、ちがう、ちがうんだ、ごめん……っ」

 自分の世界が真っ暗になったみたいに感じた。自分のせいで片割れがいなくなることへの恐怖、後悔。ナマエが起きるまで側にいたかったけど、看護師の女の人に面会終了を告げられて一旦家に帰った。目を閉じても何をしてても、ナマエの眠った顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 



 そうしている間に、同じ病院に入院していた真一郎が目を覚ました。頭を強く殴られたけど脳に異常はなかったようで、前みたいにオレに笑いかけてくれて本当に嬉しかった。嬉しいはずなのに、俺の心は晴れない。
 ナマエがああなった途端に真一郎が戻ってくるなんて、まるで身代わりみたいだ。背中に汗が伝って、それがすぐに冷たくなって薄ら寒くなるような感覚を、初めて味わった。

 あの日、自分がナマエにかけた言葉を毎日のように思い出しては吐き気がした。真一郎が目覚めた代わりに、ナマエが目覚めなかったらどうしよう。
 込み上げてくる涙を止められず、真一郎に泣きながら、ナマエに言ったことと容態とを打ち明けると、滅多に泣かないオレがしゃくりあげるほど泣いたことに驚いたのか、叱る言葉もそこそこに「大丈夫だ」「ナマエが起きたら謝ろう」と声をかけた。



 学校帰りに毎日病院に通う日々が続いた。本当は学校なんて行かずにずっとナマエの側にいたかったけど、色んな話をしてたらナマエが目を開けてくれるんじゃないかと思ったから。いつものように手を握って、その手のひらに優しく力を込めた。

「場地がほんとにバカでさぁ、まだ分数がよく分かんねぇんだって。ナマエに教えてもらいたいって言ってた」

「今日の体育、跳び箱だったんだけどさ。普通に飛んだら面白くないから色々やったのに先生に怒られちゃった」

「オレ、最近ちゃんと授業受けてんの。ナマエの習ってないトコもさ、ナマエが起きたら教えてやろうと思って。けどナマエなら教科書読んだら分かるんだろーな」

「……なぁ、ほんとに、おれほんとに、謝るからさ」

 そろそろ起きてよ。
 そう呟いて何度か名前を呼んで、それでもナマエは目を覚まさない。
 もう一度ぎゅっと手を握った。握り返されないと分かっていてもこうして繋ぎ止めていないと、ナマエがWあっちWに行ってしまって戻ってこない気がして怖かった。





 一週間ほど経ったある日、いつものように手を握りながら学校のことや勉強のことを話し掛けているとその手がぴくりと動いた気がして、ナマエの名前を何度も呼んだ。

「ナマエ……!」

 ナマエはオレの声に応えるようにゆっくりと瞼を持ち上げた。それが嬉しくて他の言葉がなかなか出てこなくて、この十数秒の間に何回ナマエの名前を呼んだか分からないぐらい、ずっと繰り返していた。

「ナマエ、ナマエっ、ナマエ……! おれ、おれ万次郎、わかる……っ?」
「……ぁ……じろ……?」

 言葉として聞こえたのはほんの一部だったけれど、その唇は確かに「万次郎」と言っていた。目を覚ましてくれて良かった。声が聞けて良かった。オレを覚えてくれていて良かった。まだその目はぼんやりと遠くを見ているけれど、だけど確かにナマエは目覚めて、オレの声に応えてくれている。
 目覚めた喜びと驚きですっかり忘れていたので、慌ててナースコールを押そうとした。すると、じっと天井を見ていたナマエがぽつりと呟いた。

「そっか、おれ、へたくそだったね」
「……え、」
「ごめんね、万次郎」

 何が、と尋ねる前に謝罪の言葉を述べられて、頭が混乱する。何が下手くそだったのかなんて、何を悔んでいるのかなんて知りたくない。分かりたくない。何に謝っているかなんて聞きたくない。

「ちがう、なんでだよ、ぜんぶオレが、」
「大丈夫だよ。分かってるから」

 大丈夫。分かってる。それらの言葉はオレを安心させるようにと紡がれているはずなのに、それでも遠ざかることのない胸のざわつき。
 オレに微笑むナマエはまだ少し眠そうで、だけど言葉はしっかりしている。寝ぼけているわけじゃないって、開口一番に言うほどに本心なんだって分かることが、こんなにも切なくて歯痒くて苦しい。

 ずっと合わせられなくなっていた視線がふいに交わる。嬉しいはずなのに、心臓がどくんと脈打つその感覚一つ一つがどうしたって気持ち悪くて。
 そんなオレのことなんか知らないナマエは綺麗な笑顔のまま、ひどく優しい声でオレに言った。

「次は上手に消えるから」



 その言葉を最後にナマエは再び瞼を閉じた。穏やかな寝息が聴こえる。死んだように青白かった顔色は少し生気が感じられる。
 大丈夫、ナマエは生きてる。生きてるはず、だけど。

 目を開けた時、オレを見た時、オレに大丈夫と言った時、そしてさっきの言葉をこぼした時。ナマエはオレを見ていなかった。まるで死神に目を奪われたみたいに次の死に方に思いを馳せているような、そして死に焦がれているような、そんな目をしていた。

「ナマエ、なぁ、聞いて」

 眠っているナマエにはきっと届いてない。だけどそれでも聞いて欲しかった。まだちゃんと謝れていないままだったから。

 あの日ナマエを夜の海に連れて行って殺しかけたのはオレ。それは、ここで眠るナマエの顔を見た時から分かってたけど。
 ナマエにとってはきっと死ぬまで終わらない苦しみをオレは与えてしまっていて、これからも自分がナマエを殺してしまうんだと思うと怖くなった。

 起きたらちゃんと謝る。それは当たり前だけど。寝ている間にもずっと伝え続けないと、またW次Wが来てしまう。

「……何回でも謝るから、オレを、置いていかないで」

 呟いてからその身体に抱き着いた。心臓の鼓動がちゃんと耳に響いているのに安心できなくて、むしろそれがまるでナマエの命のカウントダウンのように聞こえることが、心底恐ろしかった。






2022.01.15