※赤音さん生存平和if









 いつどんな風に好きと言われてどんな表情で微笑まれても、それら全部が自分に向けられているものじゃないってことは分かってる。アカネさんって女の人が初恋で、その人の弟のイヌピーって人がたぶん、今のココの片想い相手。
 イヌピーくんの話をするココは心底楽しそうで、まるで付き合う前の片想いの期間のほろ苦さが蘇るようだった。

 大学で出会ったココを好きになったきっかけはなんだったか、もう思い出せない。自覚したところで誰に言えるはずもなかったのに、いつかのサシ飲みで酔っ払った時に好きだと零してしまって、どうしてか付き合うことになった。
 親しい友達になれただけで満足しておくべきだったんだろうと今更思う。欲を出したばかりに、今では失うことが恐ろしくなった。もっとも、そもそも最初から何も得られていなくて、立場だけでも恋人になれたと感じているのすら俺だけかもしれないけど。


 今週末会えそうにない、ごめん。
 お互い社会人になってから、そんなメッセージがよく来るようになった。後は、仕事終わりの晩御飯に誘った時も「悪い、仕事忙しくて無理そうだ」ってやつ。確認してすぐに『分かった、大丈夫』と返信する。
 先週末も確かそう言っていたけど、イヌピーくんの店に行っていたことは知っている。ココに紹介されて初めてイヌピーくんの勤めるバイク屋に行った時、バイクの話で盛り上がったドラケンくんと連絡先を交換したから、まさか俺とココが恋人同士などと知らないドラケンくんは何気なく聞けばココが来ていたことを教えてくれたので、まず間違いない。

 恋人である俺よりも、イヌピーくんの優先度の方が高いのは気にしてない。当たり前だ。何せ、火事で燃え上がる火の中に自ら飛び込んで助けたらしい親友。きっと他の誰も敵わない唯一無二。そんな存在に、たとえ恋人になったって勝てるわけがない。いつでも違う世界にいることを思い知らされる。

 何もかもちゃんと分かっている筈だった。黙って墓まで持って行けばよかったのに好きだと口を滑らせた俺が悪いのに、全部分かった上でこうして恋人の立ち位置を手に入れたのに。それでも、時々しんどくなる。たとえ本心がどうであれココが恋人にしたのは俺なんだと思い込もうとしても、目にする日常に耐えるのが辛くなる時がある。
 だけど別れを切り出す勇気もないままで、気付いたら携帯と財布だけ持って電車に乗っていた。行き先は決めていないが、どこか遠くがいいと思った。

 ココからメッセージが来ていることに通知で気付きつつ、内容は見ずに携帯の電源を落とした。電車の心地よい揺れに誘われて瞼が落ちる。
 よく見る夢がある。ココに振られて、俺は笑っていいよって言って受け入れる夢。予知夢か正夢かというほどあまりにも何回も見る。いっそ自分からそういう結末にした方がいいんじゃないかとすら思うほど。

 そうしてなんとなく電車に揺られていると辿り着いた駅。そんなに時間は経っていないから多分それほど遠くに来ていないが、微かに塩の匂いがした気がして、気付いたら電車を降りていた。夜の海なんて新鮮だ。
 冬も間近に迫ったような時期なので当然、海開きはしていない。だから立ち入るのはあまり良くないかもしれないが、泳いだりはしないから許してくれと心の中で弁明を誂え、暗い砂浜に足を踏み入れた。

 潮風は冷たくて、肺の中まで冷えるような感覚になる。普段からあまり防寒具を付けないので、マフラーも何もなくて首元が寒い。育ち続ける恋心もついでに凍って砕けてくれやしないかと願うも、頭を過ぎるのはいつでもココの顔なんだからいっそ笑える。





 どれくらい経った頃だろうか。携帯の電源を切りっぱなしだったことに気付いて、何気なく電源を入れた。ココからの着信が並んでいて、今日会う予定なんかはなかったはずだけどなと首を傾げる。連絡が付かない俺を心配してくれているのかもしれないという気持ちと、もしかしてそろそろ別れ話を切り出されるのかもしれないという気持ちが綯い交ぜになった。結果、メッセージの中身は見られなかったし折り返す勇気もなかった。

 なんとなく思い立って、電話帳から旧友の連絡先を探してこちらは迷わず通話ボタンを押す。よく見たら時刻は21時を過ぎていて、だけど起業したての社長サマはきっと忙しいからこの時間でも仕事かな、なんて思いながらコールを鳴らす。

『……なんだ』
「あ、もしもし大寿? 久しぶり」
『こんな時間になんだよ』
「っふは、不機嫌。ごめんなあ、大寿の声聞きたくなってさぁ」
『キメェ。切るぞ』
「ごめんごめん、切んないでよ。な、来週か再来週あたりのどっかの夜ヒマ? 飲みに行こーよ』
『……奢んねーぞ』

 ものすごく忙しいだろうに、嫌だと突っぱねない甘さ。大寿はとても丸くなったと思うし優しくなったと思う。きっと俺が頼めば、やむを得ない場合以外はどうにかスケジュールを開けてくれて、そしてたぶん多めに支払ってくれる。別に飲み代を目当てに誘ったわけじゃないから、それはどっちでもいいんだけど。

「割り勘で大丈夫。俺、そのあたりで傷心の予定だからさ、ヤケ酒付き合って。慰めてよ」
『はっ、なんだそれ』

 そんな未来見えてんなら今から回避しやがれ、と少し笑いながら返事をされる。回避できるならやってるよ、とは言わないでおいた。
 おそらく開催されるだろう飲み会でもきっと、こうして話を聞いてくれるんだろう。大寿は同い年だけど根っからの長男気質だから、いつも俺の言葉をうまく吐き出させてくれる。くすくすと笑いながら他愛ない話をしていると、大寿の声のトーンが少し変わった。

『……つーかオマエ、今どこ居んだ』
「え? あー、どこだっけ……。とりあえず海にいる」
『……は? 海?』
「なんとなく来てるだけ。もうすぐ帰るって」

 場所を聞かれたので最寄りの駅を伝えると、電話越しでも分かるほど大きな溜め息。それにまた笑っていると『そこから動くなよ』と呆れたような声が聞こえた。「迎えとか要らねえよ?」と言えば『当たり前だ。オレはそんなに暇じゃねえ』と返されてしまい、更に混乱した。

『とにかく動くな。……あー、いや、駅が近いなら戻っとけ。そんでそこで待ってろ。いいな』
「え、あぁうん、分かった」
『飲みの件はまあ……、必要ならまた日にち連絡しろ』

 じゃあな、変なとこへ行くんじゃねえぞと念押しされて電話は切れた。携帯を耳から離せば、耳元が再び夜風に晒されて少し寒い。
 さて、駅に向かえと言われたけれどなかなか動く気になれない。夜の海は波の音だけしかしなくて落ち着く。いや正直に言うと帰るのが少し面倒くさくなった。とはいえ寒いのも間違いはなく、とはいえ薄着で出てきたのもこんな場所までやってきたのも全部自分なので何のひとつの文句も言えやしないが。




 そうしてまた1時間近く暫くボーッとしていると、ふとバイクの排気音が聞こえてそちらを振り向く。その音が段々と近づいてきて、何気なくその方向を見ていると見覚えのあるバイクが止まった。確かイヌピーくんのバイクが同じ車種だった気がする。そうしてバイクを降りてヘルメットを外したら現れた、見慣れた黒髪。ココ、と掠れたような声が漏れた。

 近付いてくる恋人。砂を踏む音が、まるでカウントダウンのように聞こえた。

「なんで……」
「WなんでW? 家行ってもいねえし携帯繋がらねえし、こっちが聞きてぇよ。しかも俺からの連絡は全部無視して、大寿には電話するとか」
「……え、あ、ごめん。忘れて、て」

 ココからのたくさんの着信とメッセージを今更思い出す。忘れてた、は流石に嘘だ。ただ連絡を返すのが怖かった。今日は会う約束もしていなかったから、ちょっと頭をすっきりさせて普通に家に帰って、気持ちを落ち着かせて、それから。これからの話をしようという旨の連絡を、折り返すついでに返すつもりだった。

「……何があった? オレ、何かしたか?」

 黒の瞳が俺をまっすぐに射抜く。この眼が大好きだった。たとえ俺といる時よりも優しく緩む瞬間が、他のただ一人のためにあったとしても。

「あの、さ」
「なに」
「あの、……やっぱさ、俺たち、別れた方がいい……?」
「………、は?」

 話す準備をしていなかったのでうまく言葉が出て来ず、ようやく絞り出せたのはそんなどっち付かずな台詞だった。別れようと端的に言えば良かったのに、自分からそれを選択する勇気はなかった。ココが別れを選べばそれに従う。夢にも何度も出てきたから、笑顔で受け入れる準備なら既にできていた。

「今日もイヌピーくんとこ?」
「……!」
「ごめん、別に怒ってるとか、そういうのじゃなくて」

 イヌピーくんと上手くいきそうなら、応援したいから。
 取り繕った硬い声に聞こえているんだろうなと自覚しながら、ほんの一瞬だけココの目を見て言う。目を合わせたつもりであっても、暗くてココの顔がよく見えない。だからきっと俺の顔も、ココには見えていない。

 そうして波の音でも誤魔化しきれない沈黙が流れて、返事がないことを肯定だと受け取りかけた時。
 後頭部を引き寄せられる感触があって間もなくして、音もなく唇が重なった。ただ元々ひとつだったものを隙間なく修復するみたいに、少しの違和感もなく寄越されたキス。唇を食まれて自然と口が開いて、長い舌を擦り合わせられて、また唇同士が触れて。ほどなくして腰も抱かれたのだと気付いたけれど、それどころではなかった。こんな恋人みたいなキスをされたのは初めてだった。

 夜の海でキス、とか。俺とじゃなきゃめちゃくちゃにロマンチックだったかもしれない。気遣われるような口付けなので苦しくないのに、どうしてか目尻が少し濡れた。冷たい潮風に晒されて少し肌がひりついた。
 ゆっくりと離れて、至近距離で目が合う。暗い中でも、ココの瞳は夜の色をより濃くしたみたいに綺麗だと思った。

「……バイク、買いたかっただけだ」
「え?」
「おまえ、バイク好きだろ。恋人とツーリングとか憧れるって、付き合う前に言ってたし」
「……は……」
「昔、今みたいにイヌピーの借りて無免で乗ってたことあったけど、それでオマエと出かける訳にいかねぇだろ」
「……え、と」
「こないだ免許取ったし、早く買いたかったけど。どれがいいかとか分かんねえから、イヌピーとドラケンに色々聞いてた」

 ほんとにそれだけだ、と段々小さくなって最後には吐息混じりの消えそうな声で言うココに何か返事をしたいのに、何が起きてるのか訳が分からなくて頭が働かない。だってそれだとまるで、俺の為みたいだ。今目の前にいるのは恋人を喜ばせたい一人の男で、その恋人が俺みたいに聞こえてしまう。

「なんで、そんなこと」
「……オマエ、オレにあんまり笑わねえだろ」
「……俺?」
「あぁ」

 暗くて顔がよく見えないままだけど、なんとなく苦笑いをしているような気がした。あまり笑わない? 俺が? 自分の顔をあまり意識したことがなかった。ココはイヌピーの話をしてる時よく笑ってるって思ったことなら何度もあったけど。

「いつも、俺が何言っても、ちょっと寂しそうに笑うだけだし」
「……そ、」
「何も欲しがらねぇし、我儘言わねぇし。大寿とか、なんなら知り合ったとこなのにドラケンとかとバイクの話してる時の方が楽しそうだし」

 そんなつもりはない、とは言葉にならなかった。ちゃんと笑顔を作っていたつもりだった。だけどそういう風に見えていたなら、きっとそうなんだろう。

「だから、免許取ってバイク買って、ツーリング誘っておまえの行きたいとこ行って、……オレに、笑ってほしかった」

 ココが縋るように抱きしめる。俺のことをとても大切にしてくれているみたいに感じて、ただただ心臓が熱くて痛い。
 何も欲しがらないなんて、我儘言わないなんて、それに関しては当たり前だ。欲しいものなんか特に無い。

「ココが、いたらいい」
「え……?」
「何もいらないから、いつか俺を、ココの一番にして」

 アカネさんとかイヌピーくんとかを大切にしたままでいいからと言うと、少し腕を緩めたココは少し目を丸くした後、「何も分かってねえな」と呆れたように言った。

「赤音さんはたしかに初恋の人で大事だったけど、今はただの幼馴染だっつーの。んでイヌピーは普通に友達」
「え、」
「好きでもない男と付き合うほど暇じゃねぇよ」
 
 怒ったような拗ねたような表情の中、ゆるりと目を細めたココは「まだ分かんねえなら、これから嫌ってほど教えてやる」と掠れた声で言って俺の腰を引き寄せた。同時に、グッと押し付けるような動作で意図的に当てられたモノに腰が引けたが意味を成さない。

「……あの、ココ」
「拒否権ねえよ」
「………」
「勘違いさせたのは悪かったけど、それはそれとしてオレ、怒ってるから」

 ココは捕食者のような眼でぺろりと長い舌を覗かせた。さっきまでは少しばかりのしおらしさすらあったのにと思う気持ちと、こういう意地の悪い表情も含めて好きだという気持ちが綯い交ぜになる。
 逃がさないというように捕まれた手首が熱くて頭がまだ混乱から抜け出せなくて、踏み締める砂浜の感触もまるで分からない。乗るように促されたバイクに大人しく跨がればココの腰に腕を回させられたが、今から自分を揺さぶるその身体だと思うと妙に気恥ずかしく、だけど離すと危ないことは分かっているのでどうにもできない。

「優しくしてやらねえけど、死ぬほど気持ちよくしてやるよ」

 その言葉への返答を考えている間にバイクは走り出し、観念してその背にぴたりとくっついた。夜は更けるばかりで俺自身は置いて行かれたまま、だけど一人で此処へ来たときのような喪失感は無くなっていた。

 この後、行き先など当然すべてココ次第だったがまさか家に帰らずにホテルへ入ることになるとは思わなかったし、行為中にしつこいほど好きだと言われて脳がキャパオーバーを起こしてそれに応えられなかったら「オマエは? 俺のこと好き?」「なあ、言えって。好きってちゃんと言うまで動かねえし辞めねえから」と愛が重い恋人みたいなことを言われたので、ココにもそして自分にも改めて言い聞かせるように何度も好きだと言葉にするほか無かった。

明日は終末



 目が覚めてなんとなく身じろぐと、ココもつられて目を覚ましたようだった。おはよう、と枯れた喉で言えば、おはようという言葉は返ってこずに代わりに「次は」と寝起きにしてははっきりとした声が届く。
「海でもどこでも、行きたい時は言え。バイクで一緒に行く」
「……ぇ、あ、うん」
「あと、……」
「……? はじめ……?」
 なんとも言えない表情で言葉を濁した恋人に、昨日散々呼ばされた名前で声をかけると、腕が伸ばされて抱き込まれた。
「声聞きたくて電話したとか、そういうの、オレにも言えよ」
 あまりに脈絡が読めなくて一瞬ぽかんとした俺に何を思ったのか、ココは俺を組み敷いて「返事は?」と赤い顔で言った。俺の顔もつられて熱くならざるを得なかった。



title by サンタナインの街角で
2021.12.05