「ホントに悪かった、もうしねェよ。だから許して、ナマエ」
クザンさんにそう言われて唇を塞がれるとき、その一瞬だけで何もかもを許してしまうからおれは駄目なんだろう。
束縛されるのが嬉しいかどうかなんて人それぞれだ。たとえばおれの場合、今まで付き合った彼女に縛られすぎるのはあまり好まなかったけれど、クザンさんにならされたいと思う。結局、ないものねだりというやつだ。
恋や愛が、楽しさや幸せだけを感じられる感情ではないことは知っていたつもりだった。だけど自身の恋人となったはずのクザンさんが女を抱いたことを知る度に、言いようもなく胸を掻きむしられるような苦しさと彼に抱かれる女性への羨望が頭を支配する。今まで自分の中に存在することすら知らなかった醜い感情ばかり見つけてしまう、そんな自分が嫌だった。
少しだけ睡眠が浅くなったり、少しだけ食欲がなかったり。特筆すべき程でもない。些細な違いだ。恋煩いなんていう可愛らしい言い方をするには随分と醜い。
クザンさんは例えばおれのことで悩んだりしないだろうし、おれが女の人と寝たとしても日常生活が滞ることはないんだろう。それでもおれがこの恋人という関係を自分から終わらせられないのは、いつか自分だけを見てくれる日が来るかもしれないと、いつまでも淡い期待を持ってしまうからだ。
だけど、例えば。もしもおれが死んだりしたら、あの人は少しだけでも悲しんでくれるだろうか。
▽▲▽▲▽
ナマエが任務で重症を負った。
別の任務に就いていたおれがそれを知ったのは、本部に戻ってからだった。戦闘中の戦線に伝えて動揺し動きに精彩を欠くとまずいだろうからと、本部に戻ってから伝えるといいとボルサリーノが助言したらしい。
馬鹿な話だと舌打ちをしたくなる。大将のおれの耳にだけ入るように報告することなんて容易く出来ただろうに、おれがそれを知ってヘマをしたとしてもそこらの海賊相手にどうなることもないと分かっていただろうに。ボルサリーノの気まぐれか、自分の可愛がっていた部下が引き抜かれたことへの腹いせか。おそらく後者の割合が多いんだろうなとすぐに結論を出した。
急いで医務室へ行ってその顔を見ると、いつも見ている血色の良い頬とは程遠い青白さでつい、情けない声で名前を呟いた。
「ナマエ」
青白い顔で横たわり、沢山の管に繋がれた姿がそこにあった。頭を含め至る所に包帯が巻かれていて痛々しい。報告によると、敵の悪あがきで放たれた砲弾の一発から、己の部下を庇ったらしい。
『急所は数センチ逸れていましたがそれでも内臓の損傷は激しく、頭への衝撃も強かったようで脳へのダメージも懸念されます。命に別状は無いようですが、目覚めるかどうかは───』
少し言いにくそうに、しかし淡々と明瞭にそう言う医療班の言葉は、途中からはもう右から左だったように思う。
急所は数センチ逸れていた。つまりは、もうあと数センチで即死だったということ。
そう考えた瞬間にぞくりと背中を這ったのは、紛れもなく恐怖だった。こんな感覚は随分と久しぶりだ。
残念ながらこの世において、仲間が死ぬことなんてそう珍しいことじゃない。重症程度なら尚更だ。しかし心臓の音がやたらと大きく鈍く鳴り、嫌な響きをもって聴こえるのは、今までの仲間たちのように割り切れないからか。
名前を呼んだら少し微笑んで返事をする恋人の姿が、声が、この物言わぬ姿に上書きされたかのように思い出せなかった。
年若い海兵が特に毎日のように見舞いに来ているらしい。ナマエが庇った新兵だった。「自分のせいなんです」と言ったのを、ナマエの意志で庇ったんだから気に病むな、なんてもっともらしい言葉で返したことを覚えている。だってそう言ってやらないと、ナマエに怒られそうだから。
自分もほぼ毎日ここへ来て顔を見に来ているが来る度に花が変わっていたりするから、この病室はいつも違う花の香りがする。ナマエが眠っているという事実を毎日更新していくように。
ナマエと付き合ったのは気まぐれだった。最低だという自覚はある。女の子は人並み以上に好きだが男を好きになったことなんか無いから、守備範囲かどうかでいうと確実に範囲外だ。
ただ、ボルサリーノが可愛がっている部下だということと、従順で素直なその性分が気に入ったので自分の下で働いてみて欲しかったがために、Wお付き合いWを始めた。
ナマエを見てキュンとするだとか、そんな恋仲みたいな感情は抱かない。ただ、おれに話しかけられるとはにかむように笑うその顔がちょっとだけ可愛いなと思うだけ。
ナマエを見てムラムラするなんて気は起こさない。ただ、他の奴らとじゃれてる時に肩や頭を触られているのを見るのはなんとなく落ち着かないだけ。
自分でもこの感情を遠回りさせようと、あわよくば無かったことにしようと言い訳を考えてきていた。しかし、恋人らしいことなんか何一つしてやれないにも関わらず健気で一途なナマエを、段々と目で追ってしまう自分。
そろそろ自分の気持ちを認めるべきだと思いつつすぐには許容しきれなくて、どうでもいい女を抱いた。だけどそうやって女を抱きながらも、ナマエだったらどういう顔するんだろう、どんな声で啼くんだろう、おれのことが好きだと訴えるあの眼が欲に濡れるのはさぞかしそそる様だろうな、なんて考えてしまう。
それでも続けていたのは、毎回ではなくともおれが女とホテルに行ったことを知ったらしいナマエが寂しそうに笑うのを見て、心の歪んだ部分が満たされるのが癖になっていたからだった。ああホントにおれのことが好きなんだな、なんて思う度に疼く優越感と嗜虐心。
そうしてずっと傷付けてきた、そのツケが回ってきたんだろう。
「……なんて言うんだっけな、こういうの。因果応報?」
声に出したらなんとなく意味が違う気がして少し頭を捻った。「『自業自得』か」と言葉にすれば、さっき随分とよりしっくりくる気がした。
今日で10日。ナマエはまだ目を覚さない。日に日に増していく言いようのない不安、拭いきれない焦燥。口の中が乾くような、喉が張り付くような感覚。最後にナマエと交わした言葉はなんだったか、なんて縁起でもないことを考えてしまう。
その手に触れて体温を──ぬくもりを確かめたいが、冷たい自分が触れることでその熱を奪ってしまうんじゃないかと思うと触れなかった。その手の直ぐそばに手を置いて、この手の距離以上に開いたナマエとの距離がもどかしかった。
15日が経った。見舞いに来ていつも通りベッド脇の椅子に座る。ポケットから小箱を取り出して、自ら開けてその中の指輪をとりだすと、ナマエの左手薬指に通した。
「あららら……、ちょっとデカかったな」
指輪なんて誰かに送ったことは無い。どこかの国では、婚約指輪なんてものは給料何ヶ月分をはたいて買うものらしい。高給取りな自分からすればこの指輪は一ヶ月分にも満たない額だったが、とにかく証が欲しかった。
ナマエの指をゆるく滑るそれは、数日前に勝手にサイズを測ったもの。その時よりも指が痩せているような気がして、ほんの少し指先が震えた。
もしもナマエがこのまま死んだら。
その想像をする度に、情けない溜息で喉が強張る。
「ごめんな」
懺悔はいつも、決まってこの言葉からだった。
「全部、おれが悪ぃな」
ナマエが戻ってこないのは、自分に会いたくないからなんじゃないか。そんな風に考えてしまうほどにナマエは穏やかに眠っていて、あまりに静かなその寝顔が人形みたいで、胸が千切れそうに痛む。
「今回ばかりは、許さなくていい。だから早く起きて、おれのことぶん殴ってくれねェかな」
許して、と頭を撫でれば眉を下げて笑っていた。今になって思えば、その瞳の奥に計り知れない虚しさがあったのかもしれない。
「ナマエが望むなら、別れたっていい。こんなおれに愛想尽かしたってんなら、そりゃ当然ことだ」
できれば望まないでほしいことの一つではあるが、もう一度その眼に自分を移してくれるなら、おれの名前を呼ぶあの声が聞けるならなんだって良かった。
「また振り向かせる。だから」
「目ェ覚ましてくれ、ナマエ」
おれの声が恋人の鼓膜を揺らしているのかさえも分からない。常人より冷たい自分の手を組んで祈ってみたところで、きっと神様なんか見てやしない。
結局、何を言おうが何を願おうが、ここじゃ全部独り言だ。ナマエが起きて、返事をしてくれない限り。
幕間のふたりごと
もう何日経ったか分からないほどの時間が流れたある日。ぴくりと指先が動き、ナマエがゆっくりと目を覚ました。ナマエの名前を何度か呟いたおれを視界に入れて、ぼんやりとこちらを見た。
「……だれ、ですか?」
この時の心臓が一瞬止まったみたいな感覚を、おれは生涯忘れないだろう。
目が覚めた時には、奇跡が起きたのだと思った。神様が、ナマエがおれを赦してくれたのだと。
そんな訳がない。どうして目が覚めたら当たり前のようにおれの名前を呼んでおれに笑いかけてくれると、そんな虫の良いことを思ったんだろうな。
2022.10.14