キャプテンはおれの世界を作ってくれた人だった。
誰にも必要とされなくて最後には売られて、生きるために男の相手をする。痛いとか辛いとか苦しいとかそういうのは感じなくて、だけどたまに与えられる食事はそれなりに美味しかったから、何をされてもなんとなく耐えてどうにか生きてきた。
そんなどうでもいい世界からおれを助けてくれたのが、キャプテンだった。
その日から、キャプテンはおれの世界の全てになった。
おれに文字通りの居場所を与えてくれて、仲間だと言ってくれた。おれを殴ったりすることもなくて、何も出来ないからとせめてキャプテンの性欲処理を申し出たけど、自分を安売りするなと怒られた。
そんなキャプテンにも恩人がいて、その人はナギナギの実の能力者だったらしい。おれが食べた実と同じ。恩人と同じ能力だったからおれを助けてくれたんだろうってことは、その話を聞いてすぐに分かった。だからこの能力をうまく使えないことを打ち明けたらきっと船から下ろされるなと思ったのにそんなことにはならなくて、だから思い上がっていた。キャプテンはおれ自身を必要として船に置いてくれているのだと。
「──おれの命令を聞けねェ奴は、この船には要らねえ」
そう言われた理由はなんだったか。ポーラータング号が海面に浮上して進んでいた時によその海賊と鉢合わせ、大した戦闘力もないおれは奥に下がっていろと言われた。いつもその命令に従うのに、嫌な予感がしたのだ。そうして結果、イッカクに向けられた敵の攻撃を代わりに受けて怪我をした。怪我といっても命に別状があるようなものではなく、傷は浅くはないがそこまで深くない。戦えない自分が身代わりになったことで仲間を守れたならこの海賊団への損害は最小限に抑えられたと思ったのに、キャプテンから放たれた言葉は拒絶だった。
「おれ、もう要らないんだ」
部屋でぽつりと声に出した言葉は無意識だった。だからこそ、新鮮な音になって再びおれの鼓膜に吸い込まれた。要らないということは、出て行けということだ。島に着くまでは居ていいのか、それとも今すぐということだろうか。何せ、海賊になったのはこのハートの海賊団が初めてだから勝手が分からない。
キャプテンのために生きたいと思っていた。恩を返したかったから。だからそのキャプテンがおれのことを要らないなら、この船にいちゃいけない。
元々、死ぬことに大した感情はない。生きていた方がキャプテンの役に立てるかもしれないと思っただけで、実際は仲間の盾になることも許されてはいなかった。やっぱりおれは何もできないらしい。捨てられる? その前に出て行ったほうがいい? そもそも、キャプテンがいない世界で生きる意味はおれには無いから。
「……WサイレントW」
この実を食べた時にふと頭に浮かんだその技を呟く。売られる前は発動したりしなかったりだったけど、売られてキャプテンに拾われてからはめっきり使えなくなっていた。
今回もきっと、うまく発動できていないんだろうな。おれが歩く音も、呼吸も、それどころか波が船を打つ日常的なはずの響きだって少しも聞こえない気がするけど。
おれがナギナギの実に嫌われているから駄目だったのかな。もっとちゃんと、キャプテンの恩人みたいにちゃんと能力を使えたら、キャプテンはおれを必要としてくれた?
悪魔の実はその持ち主が死んだら、新たにこの世に生まれると聞いたことがある。おれが死んだら、次こそキャプテンの仲間に相応しい誰かがこの実を食べてくれて、キャプテンが為し得たいことの手助けになることを祈りながら、船尾から海へと身を投げた。
▽▲▽▲▽
「──あれ?」
「? ベポ、どうした?」
「近くの海中で何か、音がする気がして」
「海中?」
「うん。さっきまでは聞こえなかったのになあ」
急に水中に現れたみたいな聞こえ方だったんだよね、とベポが首を傾げる。「念のため、潜って周り見てきますか?」とペンギンとシャチがおれに指示を仰いで、それに「頼む」と短く答えた。
どくりと心臓が嫌な音を立てる。なんとも形容し難い嫌な予感がする。確かに胸をざわつかせるものはあるのに、それが何かわからない。
なんとなく、本当になんとなく。さっき厳しい言葉を浴びせてしまったナマエの顔が浮かんだ。
──いや、まさか、そんな訳がない。
それでも居ても立っても居られず立ち上がった。怪我の処置をした後は医務室に置いてきてしまったので、まずは医務室へと足を速める。そこに人の気配は無く、嫌な予感は増していく。だが医務室で別れたのは少し前のことだ。ここに居続ける方が違和感があるだろう。部屋に戻っているのが普通だ。そう。だからきっと部屋にいるはず。
たとえ部屋にいないとしても、この船のどこかに居るはずだ。こんな海の真ん中で行くところなんてあるわけがない。アイツは能力者で、泳げないのだから。
「キャプテン!!」
海を探索しに行ったペンギンとシャチが今までにないほど焦って戻ってきたその腕に青白い顔のナマエが抱かれていたことは、夢だと思いたかった。
おれに向かって「キャプテンはおれの全てです」と恥ずかしげもなく真っ直ぐな言葉を向けるナマエに絆されたのはいつだったか。死んでほしくないという言い訳にもならない私情から選んだ言葉は、生きることに意味を見出していないナマエには特に鋭利なものに感じたに違いない。
海賊らしくないあの穏やかな笑顔も見られなくなるかもしれないと思うと、船内の固い床に立っているはずなのにぐらりと世界が傾くような心地だった。
その後、呆然と立ち尽くすおれをペンギンとシャチが叱咤し、急いで応急処置をした。水は多少飲んでいたものの心臓マッサージで外部からの刺激を与えれば心臓は動き、肺もどうにか回復して呼吸が繋がり、戦闘で受けた傷が開いていたのを処置し、呼吸器で酸素の取り込みを補助すればやがて規則正しい呼吸と脈拍を取り戻した。
クルー達は何かの拍子に誤って海に落ちたのだと思っているが、おれはそうでないことは分かっている。
おれのせいだ。まずはその誤解を解かなくてはならない。おまえが要らないわけじゃない。ただ、仲間を庇って危険な目に遭うのはやめろと言いたかっただけだった。仲間を守りたい気持ちは正しいものではあるが、それによっておまえが命の危険に晒されるのは違う。
ナマエの傷は致命傷ではないものの決して浅くなく、あと少しずれて内臓を傷つけていたら取り返しのつかないことになっていたかもしれない。戦闘員に比べて血を流すことが滅多にないナマエは自己治癒力も他のクルーと比べて劣る。早期的な自然回復もあまり見込めないナマエが怪我を負うのは危ないのだと、きちんと伝えれば良かった。
後悔ばかりが頭を巡る日々を数日過ごしていると、無意識に握っていたらしいナマエの手がぴくりと動いた。慌てて顔を覗き込めば、ナマエはゆっくりと目を開けた。
「……ナマエ、……」
「………」
「おれが分かるか……?」
ナマエはおれを見上げた。何を言えばいいか分からず、ひとまずは意識の有無を確かめた。何かを呟くように唇が動いたがその声は発されず、水を飲むよう促そうとしたがそこで感じた違和感。何かが起こっているようなそんな嫌な心地がする。だが脳の損傷がないことはスキャンで確認済であるし、外傷も同様のはずだ。
「悪かった」
「お前に、怪我をしてほしくなかっただけだ。要らないなんて思ってないから、此処にいてくれ」
おれが差し出した水を飲むナマエに、はっきり言葉にする。ナマエは目を見開いた後に困ったように笑ってまた何かを話すように口を動かしたが、声は聞こえない。
数日ぶりに見られた笑顔に安堵することもできず、そこで漸く違和感の正体に気付いた。ナマエは自分の声が出ないと自覚している様子はない。まるで、声が出せていないのではなく、W確かに話しているのにどうしてかおれには聞こえていないWというような。
忍び寄るように疑念が迫り上がる中、コンコン、と部屋にノックが響いた。返事をすればシャチとペンギンが入ってきて、起き上がっているナマエを見て「ナマエ! 起きたのか!」「目覚めたならおれらにも教えてくださいよキャプテン!」とそれぞれが声をかけた。シャチは目が覚めたことを他の船員に伝えてくると言って出ていき、ペンギンだけがこの場に残った。
「ナマエ、痛いとことかねーか?」
「………」
「そっか。まあ無理すんなよ? 元気になったら美味いもんでも食おうなァ」
ペンギンは戸惑うことなくナマエと話している。ペンギンの言葉に反応してナマエの口は動き、それに対してペンギンが返答する。間違いなく会話をしていると分かるその様子に、呼吸を止めてしまった。
ナマエの声が聞こえるのか?
聞きたいのはそんな単純なことだったが、すぐ言葉にならなかった。
だってもしペンギンに聴こえていたとして、おれには聞こえないのだ。それが意味すること。ナマエは声が出せないわけじゃない。問題なく話せているのだ。ただおれには──おれにだけ、届いていないだけ。
恩人の言葉を思い出す。自分から発せられる音すべてを消すことができると言っていた。その能力をおれに使っておれを救ってくれたのだから間違いない。
聞こえる対象を限定できるなんて話は聞いたことがなかった。だが悪魔の実の能力は文献や資料で調べれば全て分かるなんていう普遍的なものじゃない。能力を手にした本人にしか分からない力や技なんていくらでもあると言っていい。能力を得てすぐの時は使いこなせはしないし、暴発だってあることだ。
現にナマエはうまく使えていなかった。だが、本当にそうだろうか? ナマエはナギナギの実に嫌われているみたいだと苦笑していたが、売られるまでは普通に使える時もあったとも話していた。
「……ナマエ」
「……、………?」
おれの声は聞こえているようで、ナマエは迷いなくこちらを向いた。相変わらず何かを話すように唇は動いていて、そして相変わらずおれにはそれが聞こえない。
「おまえの声が、……おれには聞こえない」
ナマエは目を見開いて、ペンギンからは「は?」という声が漏れた。自分に聞こえているのに他人に聞こえていないなど信じられないだろう。しかし現実にそれは起きている。
ベポが言っていたことを思い出す。何かが急に海中に現れたみたいだと言っていた。ミンク族の並はずれた聴覚でそんな微かな音ですら拾えるのだから、ナマエが海に落ちた音に気付かないわけがない。だが聞こえなかったということは、能力が発動できた状態で無音で海へと落ちたあと、海水で能力を使えなくなったナマエから漸く音が生まれたのではないか。
「ナマエ」
だとするとナギナギの実の能力は使えていたことになる。ナマエが意図的に自分の音を消したのかどうかは分からないがほぼ間違いない。今まで使えていなかったこと、そして自覚のないまま発動してしまっていること。今のおれにその音が、声が聞こえないのは、きっと。
思えば、能力がうまくコントロール出来ないなら、今までにも知らない間に発動したりしていても不思議じゃない。だけどそうならなかったために、おれは今までナマエを見失うことなく護れていた。
音や振動は視覚に並ぶ情報源だ。そしてナギナギの能力はW凪Wという名を冠しているだけあって、使用すれば本当に全く感知できなくなる。ナマエが誤って能力を発動してしまった場合、視界から外れたら永遠にナマエを見つけられない可能性まであった。
だけど今までは一度もそうならなかった。今日を除いて、一度も。何かがあった時に誰かが気付けるよう、ナマエを危険に晒さないよう、わざと能力が抑えられていたとしたら。ナギナギの実は大切な存在を今度こそ護るためのチャンスを、おれに与えていたに違いない。
「……いつかおれを赦したら、おまえの声を聞かせてくれ」
ナギナギの実が嫌っていたのはナマエではなく、きっとおれの方だったのだ。
『あなたのことが大嫌い』
2023.02.23