※未来if











 根拠なんかは特にない。ただなんとなく。なんとなく、冴の気持ちが冷めてきたような感覚がある。晩御飯が要るかどうかのメッセージに返信がなかったり、連絡もなく帰りが遅い日が続いたり、キスやベッドの触れ合いがなくなったり。ああいよいよ俺に飽きたんだろうなと思うまで時間はかからなかった。これまで俺がスペインに来てまで世界的なサッカープレイヤーである冴と一緒にいられた理由は冴から確かな好意を向けてもらっていたからで、その冴が俺から興味を失ったのなら俺がこの家に住まわせてもらう理由は無いような気がした。

 少し距離を置こうか。そうは思ったものの、物理的な距離を取ることを冴に切り出すのは多少なり勇気がいるもので、まずは同じ空間にいながらも冴が思うままの距離感で接することにした。

 家で交わす言葉は必要最低限。「おはよう」は言葉にするけれど朝からそれ以上何か言うことはなく、冴が帰ってきたら「おかえり」を言葉にしてから「おやすみ」と言って先に寝る。どうせ最近帰る時間が遅いから構わないだろう。そしてその連絡もないので晩御飯がいるのかどうかも分からないから、冴の分を皿によそって待っておくのもやめた。

「……飯、もう食ったのか」
「あ、うん。ごめんな、すぐ準備するから」

 時々早く帰ってくることがあって、そんな日は決まってこんな会話をした。冴は何かを考えるような顔をするものの何も言わない。

 俺と冴との間に空いた空間も流れる空気感も、慣れてしまえばどうってことはないと思えるようになった。冴のことはまだ好きだし離れたくないが、俺みたいなのが居て冴のサッカーの邪魔になるぐらいなら居ない方がいい。
 というのは建前で、俺を見ない冴の側にただ居るだけというのは案外苦しい。そのうち女の匂いを纏わせて帰ってくるなんてこともあるかもしれない。その時、離れていれば何も知らなくて済むから。

 頃合いを見計らって一旦帰国して実家にでも顔を出そうかと思い、2ヶ月先の航空券を片道で抑えた。早割で安いからという理由だけで取ったので日程は適当だ。旅程表をプリントアウトしてソファでそれを眺める。もうスペインには帰ってこなくていいとでも言われようものならそのまま日本に住まないといけないから、この家の俺の荷物は少しずつ処分するのがいいだろうか。

 頭の中であれこれ考えていると部屋のインターホンが鳴り、没頭していた思考が現実に引き戻された。ふと時計を見ると21時を過ぎたところで、宅配なんか頼んだ覚えはないなと思いながら出迎えると冴とそのチームメイトが立っていた。正しくは冴は支えられるようにしてかろうじて立っているという感じで、ふわりと香るアルコールの匂いに事情は察したけれどそれでも信じ難い。あの冴がこんなになるまで飲むなんてこれまで一度もなかったことだった。

「申し訳ない。少し飲ませ過ぎたみたいで」
「いえ、同居人がご迷惑をおかけしてすみません……。介抱してくださってありがとうございます」

 家の中まで運ぼうかというその人の申し出はさすがに遠慮して、冴を引き寄せて支える。もう一度お礼を伝えてから、ドアに鍵をかけて冴をリビングまで運ぶ。ここまで飲んだなら水を飲ませないと明日が辛いだろうと思って冴を一旦ソファに下ろして、「水持ってくるから寝るなよ」とほぼほぼ意識がないのを知りながら言付けて離れる。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを持ってくると、おそらく眠りかけているだろうなという予想に反して冴は起きて座っていた。その手には俺の片道だけの旅程表があって、ソファだかテーブルだかに置きっぱなしにしてしまっていたことを後悔した。

「……冴、起きてんなら水飲めるか?」

 冴はじっとその紙を見つめている。相当酔っているし何が書いてあるか分からなくても不思議じゃない。こんな状況で別れ話になんか発展しようものならさすがにどうすればいいか分からないので水を飲むことを促すと、冴がぽつりと呟いた。

「いやに、なったか」
「え……?」

 あまり聞いたことがないような声と言葉に思わず呆けた呟きが漏れた。「嫌になったか」? 口ぶりとその様子から、その手にある旅程表が羽田行きの航空券だと理解したらしいということは分かったが、主語がない。何が言いたいのか分からなかったこともあって聞き返すような声色になってしまい、少しの沈黙。

「……おれといんのが、いやになったか」

 冴が追って言葉にしたのはそんな言葉で、少し可哀想なほど寂しげに揺れる視線は旅程表の紙に落とされたままだった。生憎、酔った恋人と別れ話をするなんていう不毛な択を取るつもりは無いので「とりあえず水飲みな」とペットボトルの蓋を開けて渡した。その間に旅程表を取り上げようとしたが、冴が力を入れたことで紙はぐしゃりと形を変えてしまった。別にまた印刷すればいいからそれは構わないが少しややこしいことになりそうな気配を察知したので、ローテーブルにペットボトルを置いた。

「かってにでていくな」
「……冴。お前酔ってるからさ、今日はもう水飲んで寝た方がいいよ」
「おれがねたら、いなくなるつもりだろ」
「………」
「おれを、すてるな」

 冴はともすれば泣いているのではないかと言うほど思い詰めたような表情で、しかし視線は交わることはないので真意を読み取るには少し時間がかかってしまいそうだった。航空券はかなり先の日程で取っているからそんなことはないのだが、酔っ払い相手に何かを諭すのはなかなかに骨が折れる。

 らしくなく舌っ足らずだし言葉選びは心なしか幼いし、頬どころか首まで血色がいい。本当に相当酔っているのだ。これだけの泥酔ならきっと明日には覚えていない。だからとにかく適当に落ち着かせて早々に寝室へ連れていくべきで、それなりに重くなりそうな内容なだけに素面の時に改めて話をするべきだ。頭ではそう分かっているのに、冴の言葉の端々が心臓に刺さって抜けやしないのでつい言葉が溢れた。

「お前の方だろ」
「……なにが、」
「俺のこと嫌になったのも、捨てたいと思ってんのも」

 冴が顔を上げたことで、今日帰ってきてから初めて目が合った。俺の言葉の意味を理解できているのか、酔って赤くなった目元はいつもより柔らかい視線で、だけどまっすぐに俺を射抜いている。言うつもりがなかった言葉を口にしてしまってすぐに後悔した。

「……ごめん。もう寝よう」

 今の冴に中身のある会話なんて求めたって不毛だ。水を飲ませることは諦めてさっさとベッドに押し込んでしまおうと思い冴を立ち上がらせると、ぐらりとこちらに体重をかけて凭れ掛かるのでそれを支える。抱きしめられているようなこんな距離は久しぶりで少し動揺しながら寝室へと連れて行くと、ベッドを目前にしたところで頬を包まれて、至近距離で目が合った。

「っ、さ──」

 「さえ」と発する筈だった声は不意に触れた唇に飲み込まれた。酔っているせいなのか早急に捩じ込まれた舌が燃えるように熱くて、口の中から脳へと快感が伝播するような心地に呑み込まれる。
 こんなキスをされたのはいつぶりだろうか。俺の体には冴に触れられることでしか収められない熱が確かに燻っていて、胎の奥が疼くような心地がした。キスに夢中になっているといつの間にかベッドに組み敷かれていて、アルコールのせいだとは誤魔化せないような欲に濡れた翡翠の瞳が俺を見下ろしていた。

「……すてねぇよ」

 その脈絡のない言葉がさっき俺が言った言葉への答えなのだということに気付いた時には、冴は俺の首に擦り寄るようにしてのしかかっていた。寝ている間に俺が出ていくことを恐れての行動なのだろうか。一般人よりも鍛えられた成人男性を乗せたまま眠りにつけるわけはないのだが、酔っている冴はそこまで考えられないらしい。

 これは恐らくこのまま寝るな。さっきのキスで正直少し勃ってしまったのでいっそ抱いてほしい気持ちも少なからずあったけれど流石に仕方ない。そういう気分になってしまっただけでなくそもそも重いから一旦退いては欲しいが、今それを言うと機嫌を損ねそうなので黙って俺の上で俺を抱き枕のように抱きしめて離さない恋人の頭を撫でた。するとより一層腕の力が強くなって、耳元に冴が擦り寄った。

「……すきだ」
「…………え、」
「おまえをみると、さわりたくなる。けど、やりすぎるときらわれるとおもって、さけてただけだ」
「は……?」
「おれにはなまえだけ、いればいい」

 その言葉を最後に、穏やかな寝息が聞こえ始めた。重いだとか暑いだとか生殺しだとか、さっきまで考えていたような短絡的なことが頭を巡るがどれもしっくりこない。胸を内側から強く大きく叩くような音は運動も何もしていない状況を考えればあり得ない速さで、自分の脈拍のせいだとは信じられないぐらいに忙しなかった。

本望の欠片



 翌日、あれだけ泥酔状態だったのに二日酔いもなく普段通りの冴に最近帰りが遅かった理由を聞けば、そして聞いた内容を要約すれば、「毎日抱きたいし毎回ぐちゃぐちゃにして気絶させるまでがシたいが、なまえへの負担を考えるとさすがに控えるべきなので、そんな隙がない程度に距離を取った」ということだった。明け透けでストレートな内容に昨日どうにか沈めた欲が煽られたがなんとか誤魔化し、言葉が足りなさすぎる点については一応咎めた。

 今回の件については一旦仲直りとしようと提案すれば、冴は了承したのちにちょん、と俺の服の裾を摘んだ。

「……航空券、キャンセルしねえのか」

 拗ねたように言う冴が可愛く思えて、さっきまでの雄の顔とのギャップについ笑ってしまった。俺は思いのほか、世界の至宝と呼ばれるまでになった男に愛されているらしい。


 



title by 失青
2023.03.12