※未来if
たとえば離婚する時っていうのはほとんどの場合、何か決定的な事が起こるのではなくそれまでに少しずつ降り積もるもので互いの関係が冷め、少しずつコップが一杯になり何気ない一滴の水で溢れるのだと聞く。
俺たちの場合、そもそも法律上できないから結婚なんかしていない。そして俺はまだ凛のことが好きだ。だけど凛はきっともう俺のことはあまり心を占めていないだろう。もしかしたら本当はどこかで、早く別れたいと思っているかもしれない。
「……うぜえんだよ」
機嫌が良くない時とかなんでもないタイミングで凛の口が悪いのなんか、初対面の人間ですらすぐに分かることだ。俺は十二分に知っている。付き合って6年目、一緒に住んでもうすぐ3年。長い時間一緒にいればいるほど、俺だけが抱える劣情を実感する。凛のそういう言葉はいつものことなのに、ずっと凛の自分への気持ちを気にして、世間体だってずっと気掛かりで。それが、何気ない一言でぎりぎりだったコップに一滴を投じられて溢れた。
風呂場へと消えた凛のそのドアを見ながら、ぼんやりと思う。きっと、もう駄目なんだろうな。もしかしたら凛には既に好きな人がいたりするのかもしれない。少し恋愛には疎い凛のことだから好きというより気になるとかそういう曖昧な感覚かもしれないけど、少なくとも一番は俺じゃないんだろうな。
凛が好きだと言ってくれていた作りたてのおかずが途端が途端に惨めな気持ちにさせる気がして衝動的にゴミ箱に捨て、何も持たずに家を出た。洗い物をシンクに置いて水も張らずに出てきてしまったことは少し後悔した。
どこに行きたいのか、どうしたいのか考えないまま家を出たので目的地なんか思い浮かばない。今日どうにか外で過ごしたいなら財布かスマホが必要だったな、と今更思う。いや、何か手段があったとしても、俺みたいなのはきっとどこにも行けない。俺は凛みたいに凄くないし、凛の周りにいる人はみんな格好良かったり可愛かったりして、俺とは全然違う世界の人間ばかりだ。
行き先を決めずにだらだら歩いて、途中のコンビニなんかを見ると少しお腹が空いたけど、それも横目にただただ歩く。とりあえずほとぼりが冷めたら家に戻って、凛とは当たり障りなく上辺ででもどうにか仲直りをして、凛がシーズン入りのためにフランスへ戻る時に別れて此処を出ていこうか。サッカーに真摯な凛はそれを蔑ろにできないから、俺が日本に残っていてもとりあえず海を渡るだろう。
ふと顔を上げれば踏切があった。学生の時に付き合い始めたものの凛はあまり外で触れ合うのは好きじゃなくて、でも遮断機が降りて電車が通るその瞬間だけは、踏切のこちら側に誰もいなければ一瞬だけ手を繋ぐのを許してくれた。
懐かしい気持ちになって、踏切に一歩ずつ近付く。ちょっと頭がぼんやりして、遮断機が降りて電車の通過を知らせるけたたましい音が鳴っていて、耳にも脳にも直接響いているはずなのに、どこか遠い。
「なまえ!!」
「──え、」
名前を呼ばれてその声が凛の声みたいに聴こえて、まさかこんなところに凛がいるわけないって思って反応が遅れて。おそるおそる後ろを振り返った時には後ろに引っ張られる感覚があって、何かにしがみつかれる様にしてどさりと倒れ込んだ。
「っ、凛……!?」
無理やり俺を引っ張ったのはやっぱり凛で、抱え込まれるような形で地面に倒れこんだので凛の体は俺の下にあった。自分のせいで凛に怪我をさせてしまっていたらと思って慌てて立ちあがろうとしたが、凛がしがみついて離れない。
「ちょっ、凛なんで、怪我とかは」
「おまえが……!」
「え……」
「おまえなに、しようとした、なんでっ」
「り、凛……? どうした?」
凛が微かに震えていることとあまりにも焦っていることにびっくりして、とりあえずこの体勢のままでいるのはよくないし離れようとすると、更に力を込められて抜け出せないので埒が開かない。ドッドッと耳を叩く心臓の音は凛のもので、サッカーをしている時ですら終始涼しげな顔をしているのに今はずいぶんと息を切らしている。
「あの、ごめん……?」
「……何、してた」
「いや普通に、ちょっと散歩? みたいな……」
「……本当に、ただの散歩か」
「え、うん……」
まあ色々と思うところはあった家出というほどでもないし散歩で間違いないだろうと思って肯定すると、凛は安堵したようなため息を吐いた。それが耳をかすめて擽ったい。
ようやく腕の力が緩んで解放されたので「とりあえず帰ろう」とだけ声をかけて歩き出そうとしたら、右手を取られて指が絡められた。外で手を繋いだことなんかなくて思わず肩に力が入ったしそれは伝わったと思うけど凛は手を離すことはなくて、そして俺はその手を握り返すことができないまま家までの道を歩く。
凛は芸能人ではないにしても有名人だから、パパラッチがいたら面倒なことになるかもしれない。もう暗くなってきたとはいえ男同士が手を繋ぐなんて目につくだろうし、そうでなくてもこの先障害しかない関係だ。凛は普通に異性も恋愛対象かもしれないし、往来で手を繋ぐことすら憚られる俺との関係を続けるよりも普通に女性と恋愛して結婚して、いずれ普通の家庭を持つべきだろうな。
「あのさ、凛。話が」
「嫌だ」
「え?」
「別れねえ。どこにも、行くな」
謝られて繋いだ手を引き寄せられて、凛の肩に頭を押しつけられるようにして抱きしめられる。そして、慌てて離そうとしてもびくともしない。むしろ俺の背中に回った手が服を握ったのが分かった。
断っておくが此処はまだ道のど真ん中なので俺の咄嗟の行動はおかしな判断じゃないと思う。それなりに大切な話を歩きながら切り出そうとした俺も悪いんだけど。それにしてもまだ何も言っていなかったのに、凛が俺の言わんとしていることを察するのは少し意外だ。
「凛、一旦帰ろ。離して」
「……別れねえなら離す」
「………」
「別れないって、どこにも行かないって、言え」
「……凛が、うざいって言ったのに?」
言葉はいつも通り強気なのに声はどこか寂しそうで、普段は鳴りを潜めている末っ子としての魔性の甘え上手さが発動している気がして負けそうになり、どう考えても要件を呑んでさっさと家に帰るべきなのについ会話を続けてしまった。
「わるかった」
「……凛、俺は」
「お前がいることが当たり前になってて、それで、今シーズンあんま調子よく無かったからイラついて、きついこと、言った……」
俺よりでかくて体格もいい凛が縋るように俺を抱きしめていて、体温を分け合うように隙間なくくっついている。ベッドの上の行為すらも少し熱が冷めているように思えていたから、こんなにも近くに凛の体温を感じるのも久しぶりだ。
「……別れないから、帰ろ」
「……ホントか」
「うん」
「………ん」
好きな奴にそんな風にお願いをされて1ミリも絆されない人間がいるだろうか。どうせ惚れた方が負けなのだから、とりあえず凛の望むままにしてみようと思った。
ノンフィクション・ブルー
その日は寝る時も凛がしがみついて離れなかったし、次の日にスーパーに行ってくると声をかけて玄関に向かえば「俺も行く」と言うので、目立つのも面倒で断ったら「また一人でどっか行く気か」と小さな声で抗議されて服の裾を摘まれた。
とりあえず物理的な距離を取って考えないとまた絆されるなと思い、凛がフランスへの航空券を手配する時に自分は少し残って実家に顔を出そうかなと提案したら「オフシーズンの間に行けばいいだろ」と言って何故か俺の実家に着いてきて、何故か凛も泊まることになって結局離れられなかった。
如実に一番変化があったのは、朝起きた時や夜寝る前。
「……まだ寝ないのか」
寝る時は必ず声をかけられるようになり。
「いい。おまえと一緒に寝る」
先に寝ていいと言えば少ししゅんとしてからソファに座る俺の隣に座って少しだけ体を触れさせてくる。
「……おやすみ」
前は俺から言ったら3回に一回返ってくるかどうかというところだったのに先におやすみを言われるようになって、今まで凛からのスキンシップなんか滅多にしなかったのに軽くくっつけるだけのキスをされるようになった。
極め付けは朝。
「おはよう。……好きだ」
おはようと言われて緩く抱きしめられ、好きだと言われて頬や耳元にキスをされる。
お前誰なの、ほんとに凛なの? ってぐらいの豹変っぷりに混乱する俺は、抱かれる時には耳が蕩けるぐらい「かわいい」「好きだ」「愛してる」と言われることも、のちにシーズンが始まって練習や試合で家を出る際には行ってきますのキスを毎回求められることも、知る由もないのである。
2023.07.30