※Dom/Subパロ、未来if
目が覚めて起き上がって部屋のカーテンを開ける。いつも通りの朝はずなのに、ほんの少しだけ感じた違和感。喉が少し気持ち悪くて、そういえば昨日加湿器をつけるのを忘れて寝たから乾燥したんだろうなと思ってうがいをしてから、喉の調子を見るべく適当に発声をした。いや、しようとした。
「……、………」
声が出ない。出そうとしているのに空気を吐き出すことしかできなくて、風邪で声が枯れたりした感覚とは少し違う。声そのものが失われたような気がした。
少しの間なにも考えられなくて、落ち着いたらそこでようやく仕事のことが頭をよぎって、会社に声が出ないことを伝えると治るまでリモートワークで構わないとのことで、勤務開始時刻までに慌ててパソコンを起動した。
朝起きてから数時間が経っても声が出る気配はない。掠れた声が出るとかでもなく声そのものがでないので、風邪ではないことは明白だった。
そして何より、心当たりがあった。昨日、恋人である凛の家で言われた言葉だ。
『黙ってろ』
playの最中の言葉じゃない。だからきっと凛にコマンドのつもりはないし、俺も命令をされたという認識はなかった。だけどたしかに、Domである凛から放たれたその一言にギシリと体が軋んだのを覚えている。
黙れと言われた手前「ごめん」を言うのも憚られて、何も言わずに凛の家を出て帰路についた。一人暮らしなのでそこからは言葉を発するようなタイミングも無くて気付かなかったけど、あの時すでに声が出なくなっていたのかもしれない。
パートナーからのコマンドの誤作動についてネットで調べてみると、これといった治療法は無いようだった。心因性のストレスが原因とのことで、パートナーとの軽いplayを日々行うことで少しずつ改善されるという。
パートナー契約を結んでいる凛の顔を思い浮かべる。あの時は機嫌が悪かっただけ。だからきっとまた前みたいにplayをして、ぎこちなくも優しく俺を褒めてくれるはず。
だけど、声が出ない俺を凛はどう思うだろう。凛のDom性が強いものだと言ったって、playでもない普通の会話でそんな風に影響を受けるSubなんて、凛からしたら面倒なんじゃないだろうか。
他のSubがいいと言われたらどうしよう。いやむしろ、最近そっけなかったし俺とのパートナー解消を既に考えていて、他にもっとしっかりと関係を築ける相性の良いSubと既に知り合っていたら。俺にあまりplayを求めないのも、たとえばその人とplayをしてDomとしての欲求を消化しているのかもしれない。
どんどんマイナスな思考にはまってしまう気がして、一旦深呼吸をする。今は仕事に集中しよう。もしかしたら明日になったら声が出るようになっているかもしれないし、そしたら電話して凛に謝って、パートナーでいたいという俺の気持ちを伝えればいいだけ。
声が出なくて電話できないことを感じるのが嫌で、そしてもし電話がかかってきても取れないので、プライベート用のスマホの電源を切った。仕事用のスマホは数回鳴ったけれど、電話番号を確認してメールで「風邪で声が出なくて」と対処すればなんとかなった。仕事に没頭していると時間があっという間に過ぎて、気付いたら夜になっていた。
静かな部屋にインターホンの音が響いたことで、ようやくお腹が空いていることに気付いた。時刻は20時を過ぎていて、12時半頃に軽く昼ごはんを食べて以来なにも口にしていない。インターホンがもう一度鳴る。通販で日用品などをまとめ買いしたのでそれが届いたのかもしれない。
声が出ないのでドアを開けるしか無く、慌てて玄関まで向かう。カシャリと鍵を二つ開けてドアを開ければ、そこにいたのは宅配業者ではなかった。
「……いるんじゃねえか」
「……っ」
「開けるのが遅ぇんだよ」
凛が不機嫌を隠さず言う。強い言葉ではない。口が悪いのなんてむしろいつものことだ。それなのにGlareを当てられた時のようにびくりと身体を揺らしてしまう。──まずい、かもしれない。Bad tripという言葉が頭によぎる。物心ついてからほんの数回しかそうなったことはない。けれど落ちてしまうような感覚があって、それが怖い。どうしてか分からないけれど、凛のありとあらゆる言葉や態度を怖いと思ってしまう。
「……おい、聞いてんのか、……なまえ?」
「……、………っ」
「どうした、っ、おい!」
頭がぐるぐるする。視界が暗くなる。息ができない。いや、呼吸はできているはずなのに何故かずっと苦しいままだ。
「なまえ、ゆ、っくり、息しろ……っ」
「………、……、……っ」
「たのむ、ゆっくりでいいから、ちゃんと、……いや、できるとこまででいい、息、吐いてくれ、なあ」
凛の声がどうしてか泣きそうに聞こえて、俺のせいだって思うのに、苦しくてしんどくて何もできない。ごめん、全部俺のせいだ。
「……良い子だ、そのままゆっくり呼吸しろ」
playで褒めてくれるとき、「よくやった」なんて言葉はあっても「良い子だ」なんて言ってくれることはなかったのに。少しずつ息がしやすくなって頭の痛みとひどい眩暈も無くなっていくことに俺自身も安心して力が抜ける。重くなっていく瞼に抗えず、そのまま意識を手放した。
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目を覚ますと見慣れた天井だった。けれども何気なく見た窓の外は暗くて、仮眠を長く取りすぎた時によく感じる体内時計が時間を探しているような違和感から、そこまで長い時間が眠っていたわけではないんだろうと判断した。
昨日の記憶を辿りながら体を起こすと、凛がベッドに上体を預ける形で眠っていて驚く。思わず声が出そうになったけれど、やはり空気が喉を潜り抜けただけだった。「りん」と言ったはずのその声もしかりだ。
俺の右手こすぐ側に凛の頭が伏せられていて、身長差があっていつも見上げているので少し新鮮だ。
凛の肩を叩くと、一拍おいてがばりと凛が顔を上げた。驚かせてしまったようで、それに対して俺も驚くという妙な空気になってしまった。凛はどことなくホッとしたような、珍しく気が抜けたような表情をしている。
「……起きたか」
「………」
「……悪かった。この間も、あと、さっきも……、Glareを当てたつもりはなかった。言い訳でしかねえ、けど」
「………」
「…………まだ、怒ってんのか」
返事をしない俺を見て怒っていると判断したらしい。さすがに黙っている訳にはいかず、自分の喉をトントンと叩いて口をぱくぱくと動かした。声が出ないのだということが伝わった時の凛の表情は色々な感情が抜け落ちていた。
俺は原因については触れなかったけれど、凛はなんとなく察してしまったらしい。俺は気にしてないから、そのうち戻るからと何度も言ったけど凛の顔は曇ったままだった。
凛は俺の家に泊まると言った。けれど、俺の家には凛が日課として行っている自主トレをするようなスペースはないし、ベッドも狭いので睡眠の質だって下がる。それをスマホの画面に打った文字で説明してなんとか家に帰そうするけれど凛が聞き入れる様子はなく、背中を押して無理やり玄関へと促そうとしたが失敗に終わった。
「こっち向いて、ここ、座……、座って、くれ」
平時は傍若無人で口が悪い凛が、命令にならないように言葉を丸く柔らかくするそのいじらしさに、絆されない人間などいるだろうか。最終的にはソファに座った凛の膝に向かい合わせで座ることになった。さすがに恥ずかしいので降りたいが、凛のSubだからなんてささいなことは関係なくなんだか抗える予感は少しもなかったので、おとなしく従っている。
凛は俺の肩のあたりに顔をうずめて何も言わない。俺は文字通り何も言えないので、この部屋にあるのは沈黙だけだった。もともと凛は自分から何かを話す方じゃないし、というか基本的には俺が話しかけて相槌を打つのが常だったからまあこうなるのも仕方ない。思えば色々と俺の一方通行だったかもしれないなと思っていると、凛がぽそりと呟いた。
「……ごめん」
「悪かった」とは何度か言われた。けれどごめんは初めてだなと思いながら、言葉を返そうにも空気を吐き出しただけに終わったので、じっと次の言葉を待った。
「あの日は、練習でちょっと、上手くいかねえことあって、イラついてて……、けど、お前に当たんのは違った」
「………」
「お前が帰ったあと、連絡して……朝になっても既読ついてねえから、何かあったのかと思って、焦って来た、から、今日もすぐでかい声出して悪かった」
「……、………」
「声でねぇのに、一人でいさせるのも怖ぇんだよ。もし何かあった時、声出せなかったら、……」
凛が絞り出すような声で話すのを、ただ聞いていた。正直、こんなにも言葉を尽くしてくれる凛は初めて見たかもしれない。プライドが高く負けん気も人一倍あるのにW怖いWという感情を吐露したことにも正直びっくりしている。
何か言いたいのに言えないのがもどかしくてそっと凛の背中に腕を回すと、より強い力で抱きしめられて少し苦しい。ソファの端にあったスマホに手を伸ばすと気付いた凛が腕を緩めて俺にスマホを渡してくれたので、文字を打って画面を見せる。
『心配かけてごめん』
『けど俺の家だといつものトレーニングとかできないし、ベッドも狭いから』
『凛のコンディションを優先してほしい』
「……それを心配すんなら、一緒にいろよ」
「………」
「俺の家、来たくねえだろ。……だから俺が泊まる」
かつてないほどにパートナーらしい、というかそれを通り越して恋人らしいことを言う凛に戸惑いながら、言葉の意味を考える。凛の家に対して特別な苦手意識はなかったけれど、いざ行ったら思い出すかもしれないとは思った。声が出ないこの症状は、一種のトラウマなのだ。精神的ストレスが要因としてある以上は確かに、今は行かない方がいいかもしれない。それを気遣う凛に胸がぎゅっとなるのは呑気だろうか。
『プレイしたい』
『かんたんなやつでもいいから』
「……なんで。帰らねえぞ」
『声でるようになるかも』
「………」
コマンドの誤作動についてネットで検索した記事を見せると、凛の眉間の皺が少し増えた。凛自身は乗り気では無いようだけど、Dom性としては自分のSubがここまで近くにいて何も命じないのはそれこそ多少なりともストレスを感じているはず。
『凛に褒められたい』
そう、何より、俺がそうしてほしかった。今までずっとサッカー中心の世界で兄である冴くんとかライバルの潔くんとかだけを認識していた凛が、俺一人のことでこんなにも悩んでいる。もしかして他にSubがいるのかもなんて失礼なことを思ってしまったのが申し訳なくて、凛が欲しいままに従って俺の従順を捧げたいと思った。
「俺の目、……見て」
簡単なやつでいいとは言ったけれど。さっきから見ているのにそれをわざわざコマンドとして、しかも半端な命令形で口にするあたりだいぶ弱っているというかビビってるな、と思いながらじっと目を見つめる。「良い子だ」と言われて頭を撫でられて、柔らかな気持ちよさに目を細める。
「……抱きしめろ。軽くでもいい」
なんだそれ、と少しだけ笑ってしまった俺は悪くないと思う。そんな俺に何とも言えない表情を見せた凛は、しかし俺がぴたりと隙間なく抱きついたら恐る恐る背中と腰に腕を回して、やがて頭を撫でた。
「……偉いな」
耳のすぐ近くで聞こえる褒め言葉と、頭を撫でる手が俺の髪を梳いて地肌をなぞるその感覚に、ぞくぞくと快感が這う。いっぱい命令してほしい、もっと褒められたい。抱きしめていた腕を少し話して凛の唇をなぞると、意図に気付いた凛が「キスしろ」と命じる。唇をくっつけては角度を変えてそして離れて、その合間に舌を出せと言われればそれに従った。
いくつもの簡単なコマンドをこなしてその度に褒めてもらって、キスを命じる凛に応えてキスをして。何度目かの酸素を奪われるようなキスが終わって文字通り俺だけが乱れた呼吸を整えていると、凛が俺の喉にキスをした。
「……なまえ」
きっと声を聞かせろと、名前を呼べと言いたいのだろうに、それを言葉にせず縋るように触れるその唇の熱がたまらなくて、俺も凛の名前を呼びたいと心から思った。
35.7℃の祈り
心の中で何度も繰り返し名前を呼んだ。するとその日の夜眠る前に「凛」とようやく言葉になって、その時の凛の泣きそうな表情はきっと一生忘れられないだろうと思った。
2024.11.17