「あ、起きたか」
「……硝子」
「悟のとこの生徒が、なまえ先生が倒れた、って運んできてくれたんだよ」

朧げな記憶を手繰り寄せると、非常階段で二人に会って、そこから一切の記憶がない。運んでくれたのは体格の良い虎杖だろうか。どちらにしても、生徒の手を煩わせる教師がどこにいる。情けなくてついため息が出る。

「迷惑かけた。ごめん」
「別に、ただの寝不足っぽいから大した処置もしてないよ。それより、」
「?」
「虎杖たちがアンタ運んで来た時、たまたまアイツも此処にいたから。今は渋々任務へ行ったけど」
「……あー……」

脳裏に、あの呪術師最強の顔が映る。素顔はもう随分長いこと見ていないから、瞳の色もぼんやりとしか思い出せない。アイマスクをして口元に不敵な笑みを浮かべている顔がまず最初に浮かぶけれど、硝子がわざわざ言うということは、きっと悟は機嫌が悪かったのだろうから、そんな表情は期待出来そうにない。

最近はましになったけど、悟は昔から俺が嫌いで、俺が任務で怪我をする度に苛立っていた。そして俺はその度に謝ってはいたけれど、悟の苛立ちはあまり静まらなかった。そもそも俺は二人のように強くなかったから、任務に出るとよく顔や体に傷を作った。
「弱いくせに無駄に前へ出るからだろ」「引っ込んでろなまえ、邪魔」「おまえ、怪我したら足手まといになるってまだ分からねぇの?」数々の言葉は当然、すべて俺だけに向けられたもの。たとえば傑なんかが何かを言われているのはもちろん見たことがない。当たり前だ。悟の隣に立てるくらい、強いから。

悟と傑はよく喧嘩もしていたけれど、喧嘩というのは同じ場所に立てる人間同士だからこそ起こり得ることだと、二人を見ているとよく思った。俺は悟から一方的に何かを言われることはあっても、喧嘩になったことは一度もなかった。



「なんだ、起きてたんだ」
「……おかえり」
「ただいま。硝子、悪いけどちょっと外してくれる?」
「ハイハイ」

気配も何もなかったところから声がしたけれど、もう驚きすら出てこないほど慣れたそれに、落ち着いて労いの返事をする。大丈夫。俺はいつも通りできている。

硝子は俺のベッドの横を通り過ぎて、入れ替わるように悟がベッド脇の椅子に座った。黒い布に目元が隠されていて目線がわかりにくいけど、今は間違いなく俺の顔を見ているし、なんだったら睨んでいたりするかもしれない。

「ごめん」
「何に対しての謝罪かな」
「悟の生徒に迷惑かけたから」

悟は答えない。ただ黙っている。きっと、生徒たちが今のこいつを見たら、本当に同じ人間かと疑うだろう。悟が日常的に笑顔で人と接しているのは俺も知っている。時にはにこにこと屈託無く、時にはヘラヘラと締まり無く笑いかけられる生徒たちを、少し羨ましいと日頃から思っていた。悟が自分に笑いかけてくれた記憶は、出会った当初の記憶に遡っても、殆どないから。

「もうなるべく迷惑かけないから」
「………」
「俺そろそろ帰、」
「硝子が寝不足だって言ってたけど。いつからちゃんと寝てないの」

帰るという意思を示したことにはきっとなっていないんだろう。まず会話として成り立っていないけれど、この程度ならそれも日常茶飯事だ。「たまたま寝られなかっただけだよ」と返せば、目隠しをしていても分かるほど、納得がいかないという顔をした。

「今日だからWこうWなってるんでしょ。何がそんなに、なまえを苦しめてんの」
「………」
「誤魔化すなよ」
「……ごめん、言ってる意味が、よく分からなくて」
「だから。……これから、12月24日が近付く度にそうやって、アイツを思い出すのかってこと」

悟が語気を強めた。いつも、何かしら悟の機嫌を損ねたときには、理由や原因については一応、分かることが多かった。学生時代ならまだしも、こうして大人になってからは、意味もなく怒ったり機嫌が悪くなることは少なかった。伊地知はよく当たられているけれど。
とにかく今、悟が何に怒っているのか分からない。今悟の口から出てきたアイツというのは傑のことだ。それは流石に分かるけれど。

「それは、……友人の命日だから、思い出すよ」
「それだけ? 僕といるときはいつも、僕じゃなくて、W僕の隣Wを見てるだろ」

自分の喉が、空気を空っぽにしたような音をたてた気がした。思わず息を呑むというのはこういう感覚なのだと、またひとつ賢くなった。気付かれていた。だからどうということもないのに、居た堪れない気持ちになる。

いや、どうということもない、なんて事は無いか。悟には言える筈も無い。傑といる時の悟が一番好きで、だから悟の隣を探してたなんて、誰が言える? 傑はもういない。唯一無二の親友に、殺させてしまったから。

「……ごめん」

口から溢れたのは、目の前の男が一番望んでいなさそうな謝罪の言葉。だけどこれしか思いつかなかった。事実だったから、否定することもできない。悟に嘘はつきたくなかった。

「これからは、気をつけるから」

何をどう気をつけるのか、自分でも分からない。こんな、子どもの喧嘩の後みたいな言葉で、悟が納得するはずもない。分かっているけど、ほかに言いようがなかった。

悟を見つけるといつも何処かで傑を探しているという自覚はあった。ただ、悟の隣を見ているらしいというのは無意識だった。
けれど、たしかにずっと思っていた。一人になりたくない。悟にも硝子にも、そして傑にも、離れていってほしくなかった。目に見える距離に、近くにいてほしい。できれば笑っていてほしい。悟が心から笑うためにはきっと傑が必要なのに、そして傑にだって悟が必要だったはずなのに、何処へ行ったんだよ。なんて、もういない友人への不毛な悪態をついて、また堂々巡り。

思考に没頭しすぎていたことに気付いて、慌てて悟を見ようとして、突然腕を引っ張られる感覚。気付いたら視界は黒一色で、香水か何かの匂いがした。
悟の心臓の音が聞こえる。この音だけは俺とそう変わらないんだと思えば、ひどく心地よいものに思えた。

「いつになったら、何年経ったら、お前は僕を見てくれんの」

縋るような声でそう言う悟に、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。少し苦しいけど、同時に体温が上がるのを感じて、心の中で苦笑する。悟にこんな風に触られるなんて、初めてじゃないだろうか。耳のすぐそばで聞こえてくる声に、そんな場合じゃないって分かってるのに、身体が反応してしまう。どくどくと鼓動が速まるのを、深く呼吸をして抑えた。

質問の意図は分からないけれど、「ちゃんと見てるよ」と答えた。嘘じゃない。いま此処に傑が居たらなあ、と思うだけで、俺の眼はいつも悟を真ん中に置いている。片割れのいないその姿を見ると、ほんのちょっと寂しい気持ちにはなるってだけ。

「嘘つくなよ」
「嘘じゃない」
「じゃあなんで、ずっと僕の隣を気にしてんの。寝不足だって、傑のこと考えて眠れないんだろ」
「………」

色々と勘が良いこの友人はきっと、俺が納得できる答えをを言わなければ、俺を離さないつもりなんだろう。それは俺も困るので、何処から何処まで話せば良いかを考える。

そもそも俺が傑を探してしまっているのは、悟に笑ってほしいからだ。傑が隣にいる時の悟は、本当に楽しそうだった。俺はそれを見るのが好きだった。悟が最強になった頃に傑がいなくなって、どんどん孤独になっていくのを見ているのが嫌で、俺が隣にいてあげたいけど、弱い俺ではその役目は果たせなくて。

ああそうか。俺は一人になるのが怖いんじゃなくて、独りにさせるのが怖かったらしい。

「俺は、どこにもいかないよ」
「……は?何の話、」
「ずっと悟といるよ。だから、」

強くて格好よくて、自慢の友人。羨望や憧憬じゃ言い表せられない俺のこの馬鹿な感情なんか、一欠片だって知らなくていいから、俺がおまえを一人にしないってことだけ、ちゃんと知っておいてくれたらいい。

「独りにならないで」

遠すぎて霞んでいくその背中を見失うことが、何より恐ろしいことだから。