「……何を勘違いしてるか知らないけど」

暫しの沈黙のあと、悟はぽつりと言った。そろそろ離してくれてもいいんじゃないかと少し力を込めてみたが、俺を抱きしめている腕の力は緩まない。悟も傑も、昔から力が強かった。

「なまえが僕を一人にしないんじゃなくて、僕がなまえを一人にしてやらないんだよ」
「……え、ああ、うん。いいよ、それでも」
「ハァ……ほんとクッソ鈍いコイツ、マジでどうしてやろうか」

独り言のようにも聞こえるその言葉の意味はよく分からなかったけれど、悟の口調が昔のそれを思い起こさせるようで、ただただ他人事のように懐かしい気持ちになったことは確かだった。何か物騒な雰囲気の台詞ではあったものの、それこそ昔の悟を思えばそんなに大したことじゃない。

それはさておき、本当にそろそろ離してもらいたいが、何せこいつは力が強い。強行突破はまず出来ないので、名前を呼んで「離して」と伝えたが、無言のまま拘束は緩むことはなかった。ちらりと横目に見た時計はもうすぐ午後5時を指そうとしていて、食欲はないが体調を回復させるためには何か栄養のあるものを胃に入れる必要があるなと、間も無くやってくる夕食の時間のことが頭を過る。

そんなことを考えていたのがいけなかったのだろうか。悟が術式を使おうとしていることに気付かず、そしてふと瞬きした時には、見知らぬ部屋の見知らぬベッドのようなところに転がされ、挙げ句の果てによく知る男が自分に跨り見下ろしていた。
ゆっくりと緩慢な動作で、その目元の黒い布がするりと引き上げられ、やがてすべて取り払われる。銀色の髪が目元に影を作った。神々しさすら感じる蒼の瞳と目が合って、肌がひりつくような感覚。この眼をまともに見たのは、果たして何年ぶりだろうか。

「……悟、あのこれ、何」
「術式で移動した。僕の家の方が、ゆっくり話せると思ったから」

ここは悟の家らしい。要領を得ない俺の質問を理解し、律儀に返答してみせるところは、曲がりなりにも教育者としての一面だろうか。蒼の双眼に少し慣れてきたころ、今度は瞳を縁取る睫毛にすら視線を奪われて、埒があかないなと心の中で苦笑する。

気を紛らわせるため、悟からどうにか視線を外す。辺りを見回す余裕はないけど、寝室と思しきこの部屋だけでも相当な広さだ。家賃はいくらか、なんて意味もないことを考えてみた。マンションなのか戸建てなのかも分からないが、一室や一棟くらいポンと購入していても、悟と冥さんに関してはさして驚かない。

「いま、何考えてるの」
「……広い部屋だな、と」
「この状況分かってる?」
「分かってる、よ。悟が何に怒ってるかは、わからないけど」
「なるほどね」

全然分かってないってことは分かったよ。その言葉を最後に、纏う雰囲気が変わった。戦っている時とも、学校で生徒と接している時とも、俺が今までに見たどんな悟とも違う。見た目の所為か気高くも見えるような、だけどそれでいて獰猛にも感じるような、とにかく初めて見るその表情と空気に気圧されて、無意識に腰が引けた。もちろん、上に乗られている体勢で、その上やたらと低反発で高級そうなマットレスに背中を包まれているので、悟と距離を取ることは叶わない。

「っひ、ぅ」

耳に痛い沈黙を破ったのは、妙な緊張感に苛まれてカラカラになった俺の喉から発せられた声だった。悟の手が俺の服の裾から手を入れて、横腹をするりとなぞったからだ。その手のあまりの冷たさに鳥肌が立ったし、声が無意識に出てしまったが、俺は悪くないと思う。

「つ、冷たい、って」
「すぐに慣れるよ」
「……ッなんで、触んの」
「どうせ無駄なら、抱こうと思って」
「……は……?」

何が無駄なのか。そして抱くというのはどういう意味か。誰が誰を抱くというのか。この場面では、まさか悟が俺を抱くということになるのか。何故? 何がどうしてそんなことに?

疑問が解決されないまま積もってしまって、キャパシティを超えた情報が思考を圧迫する。これも悟の術式と思えば納得できる気がしたけれど、それでも分からないことが多々ある。俺は悟のことは好ましく思っているし大切な友人と言い切れるけど、悟は俺を疎ましく思っているはず。成る程、腹いせか八つ当たり、もしくは単なる嫌がらせか。ようやく腑に落ちたがそれにしては、ずいぶん身体を張った仕掛けだ。

「軽蔑してもいいよ。僕が触れてる間ずっと、僕のことだけ考えて」
「なに言って、」
「傑じゃなくて、僕だけ見て」

ベッドの軋む音を追うように悟の顔が近づいて、そっと唇に何かが触れた。ほど近い場所で悟の気配と、匂いと、あの眼の視線を感じて、背骨の辺りがぞくりとした。

音もないくらいにそっと離れたので、俺はどうしてか安堵の息を吐いた。あまりに一瞬、そして違和感も無くただぴたりと隙間なく唇が合わさっていたので、夢を見たのかとすら思ったけれど。鼻先が触れ合う位置にあった悟のその形の良い唇が「口、開けて」と言ったその言葉がまるで呪言のように感じるほど、「え、」と自然に口を開けてしまった俺に、酸素や窒素ごとがぶりと食べるように呼吸を塞ぐ何か。W何かWが悟のそれと分からないほど鈍感にはなれず、容赦なく押し込まれた舌に抗うのは容易ではない。噛み付くようなキスというのは比喩ではなかったのだと、酸素が不足してぐらつく脳の端で思った。

「抵抗しないの?」
「……しても、無駄だろ」
「そうかもね。──ねえ、もし傑が生きてたら、こんな風にされたかった?」
「はぁ……?」

どうしてさっきから傑が出てくるのか分からない。こんな風に、というのは紛れもなく今のこの体勢や行為のことで、想像してみたけれど傑に申し訳なくなったのでやめた。あいつも格好いい奴だったから、昔から女にモテそうだとは思っていたし、俺なんかを相手にする必要がない。何より傑は、そこまで俺を特別視していないから。

「傑が俺にこんなことする訳ないだろ」
「……分からないでしょ」
「分かるよ」

俺は傑にとっての悟にも、その逆にもなれない。硝子みたいな種類の特別にだってなれやしない。分かっていたことなのに、いざ突き付けられると案外どうしようもなく辛いものらしい。

「だって傑は、いなくなる前、俺には会ってくれなかった」

涙なんか出ない。傑が高専から姿を消した時、一年前のあの日に死んだと知った時、悟が終わらせたのだと聞いた時、もうあの頃のように皆で過ごすことはないんだという現実を理解した時。心臓と肺が痛くて、喉の奥に何重ものフィルターがかかっているみたいに呼吸の一つ一つが重くて、背中を滑る汗が気持ち悪くて、だけど涙は出なかった。毎年、今までずっとこの日になると思い出して、それでも一度だって、薄情なこの身体が泣くことはなかった。

だから今、視界がぼやけて滲んで、目の奥の熱さとこめかみが濡れる感覚があるなんて、そんなはずはない。だけど自分の意思とは関係なくただ溢れては流れる涙を、手のひらで、指で、どうにか堰き止めようと、瞼を擦って抑える。呼吸のタイミングも自分でコントロールできなくて、いい歳してしゃくり上げるほど泣くとか、俺を見下ろす悟は絶対に、面倒な奴だと思ったに違いない。此処の住所も何もろくに分からないが、家の外につまみ出されたって恨みはしない。いや、もういっそそうしてくれないだろうか。

「……本当は絶ッ対に言いたくなかったけど、フェアじゃないから言う」

脈絡のない言葉が降ってきて、涙を拭っていた両手のうち、左手が絡め取られた。恋人のようにぴたりと掌がくっついて、俺の顔の横に縫い止められる。半分開けた視界はまだ少しぼやけていて、だけど悟の眼の蒼はその中でもよく見えた。

「傑はお前のことめちゃくちゃ好きで、大事で、だからどうしても会えなかったって言ってたよ」
「…………え、」
「特級二人にW呪われWて、なまえは可哀想だねってこと」

悟がどこか寂しそうな眼で俺を見るから、抵抗も何もかもやめて、ただその吸い込まれるような蒼を見ていた。その宇宙に空を乗せたような底のない瞳に手を伸ばして、目尻に触れる。

「ごめん」

そう言って悟は俺の首筋に噛み付いて、もう一度服の裾から手を侵入させた。なるほど確かに、さっきの身体が跳ねるような冷たさには、少し順応したようだった。服が剥ぎ取られて、身体がぴたりとくっついて、時々離れて、余すことなく悟の舌や唇が触れて辿って輪郭を確かめていく。

気付けば、涙は何処かへ消えていた。