ようやく離れてくれたので互いに服を着て顔を洗い、痛む腰をさすりながら促されるままにリビングへ足を運ぶと、どう考えても一人暮らしにはあまりにも広すぎる居住スペースだったが、もう驚かない。寝室で何畳あるのか分からないような家だ。モデルルームのようなリビングは、物が少なくてシンプルで、より広さが目立った。任務続きで家にあまり帰らないこともあるだろうから、そのあたりは容易に想像できたことだけど。

「家、綺麗にしてるね」
「まあ、なまえと住みたいと思って選んだ家だし、いつでもなまえを連れ込めるように片付けてるし」
「………」

さっきからやたらと、冗談と本気の線引きが分からない言葉が続く。今のはさすがに前者だろうが、声のトーンが後者なので気まずい。悟はそんなことは御構い無しに、手際よく朝食を準備している。座ってて、と言われたので大人しくソファに腰掛けて待っていると、映画館かと言いたくなるようなテレビがあったので、テーブル上のリモコンで電源をつける。こんなにのんびりした朝は久しぶりだったので、あまり見たことがない情報番組が流れた。

「なんか、いいね」
「え?」
「そうやって寛いでくれると、一緒に住んでるみたいな感覚になる」

だから、なんでそんなに機嫌が良さそうなんだ。朝食の準備をしながら呟かれた言葉だったから、俺の方を見ていないのに、ほんの少しだけ口角が上がっていてるのが見えてしまって、なんだかそれがとても幸せそうに見えて。
やっぱり俺はどうすれば良いか分からず、ニュース番組が伝える天気予報を見ていた。今日は洗濯日和らしい。


トーストにベーコンエッグ、そしてコーヒー。シンプルだけどどことなく高級そうな朝食が二人分、テーブルに並べられた。食パンすらも、普段俺が食べているものとは明らかに違う感じに見えたけど、こいつはそもそも育ちが一般人とは違うので、深く考えるのはやめた。

「……美味しい」
「そ? 良かった」

お世辞ではなく、本当に美味しいと感じた。やはり普通の食パンとは違ったし、ベーコンもなんとなくリッチな感じがする。生活水準の高さに改めて家柄と稼ぎの良さを実感し、それこそ此処に連れ込もうもんなら、落ちない女はいないだろう。なのに今この部屋にいるのは俺なわけで、まったく分からない。

「まーた何か考え込んでるでしょ」
「……よく分かるね」
「まあね。何考えてたの、言ってみてよ」
「いや、……」

言ったら機嫌が悪くなりそう、というのは流石に分かるので、どう答えるべきか悩む。大したことじゃないと言っても「それならなおさら言えるはず」となるし、かと言ってそのまま話すと半分キレられそうだ。このままだんまりを決め込みたかったが、目の前の男は朝食を食べ終わり、頬杖をついて俺を見ていて、長期戦の構えである。

「悟ならどんな女の人でも落とせそうなのにな、と思って……」
「……ふーん」
「…………えっと、それだけ」
「なまえは?」
「え?」
「それ、なまえは落ちてくれないの?」
「っ、」
「…………え」

面と向かってこんな風に話すことが普段ないからか、眼を見てそう言われてすぐに、ああこれは冗談じゃないな、というのがすぐに分かってしまって。どうしてか、かっと顔が熱くなって、心臓がうるさくなった。思わず悟から目を逸らして、コーヒーを流し込んだ。

「なまえ」
「………」
「ねえ」
「………」
「こっち向いてよ」
「いやだ」
「お願い」

手元のマグカップだけに視線を注ぎ込んでいたが、悟にお願いとまで言われると、なんだかこのまま拒否を続けるのもどこか大人気ない気がして、ちらりと悟の顔を視界に入れる。すると案の定、朝の空のような色の瞳に捕まって、逸らせない。

「流されてよ」
「……っ、俺は」
「大事にするから」

その眼で見られながら、そんな風に言われたら、頷いてしまいそうになる。


▽▲▽▲▽


「あ、先生! もう体調は大丈夫なの?」
「虎杖」

つい先日、俺を医務室へ運んでくれた生徒の一人に、声をかけられた。屈託無く笑い、明るく笑顔で話をする。それだけを見ると普通の男子高校生みたいで、この子の中に宿儺がいるなんて、俄かに信じられない。

「こないだはありがとう。体調は戻ったよ、迷惑かけてごめんな」
「ううん、全然!」

人懐っこい笑顔と元気な話し方がなんとなく灰原みたいだなあと、もういない後輩の姿を重ねてしまって、ついその頭をくしゃりと撫でた。一瞬きょとんとしてからぱっと笑うその顔はまさに年相応といった感じで、体格がよくて充分強い呪術師であると分かってはいるけど、少しかわいい。

「そういえば、先生って少食だったりする?」
「……? なんで?」
「いや、持ち上げたときすごい軽かったしさ。あと、支えた時に腰とか細いなあって思って」

虎杖の両手がトンと俺の腰に添えられた。俺はどうして生徒に腰を掴まれてるんだ。側から見るととてもシュールな光景だろうなと感じ、とりあえず離すよう促そうとして、後ろから伸びてくる腕。まずい、と思った時には捕まっていて、虎杖は「五条先生!」と驚いた表情でその名を呼んだ。俺はもう驚きはしないが、嫌な予感は感じ取っている。

「Wみょうじ先生W、次の任務のことで話があるから来てくれる? あと悠仁、恵達が探してたよ」
「あっそうなの? ありがと先生、行ってくる!」

先生なんて普段呼ばないくせに、なんともわざとらしい。素直な虎杖はこの俺たちの距離の近さに何も感じなかったのだろうか。ぜひ気にせずにいてくれ、と願うばかりだ。

「W五条先生W、次の任務の話ってなんですか」
「大事な話だから、僕の部屋に行こっか」
「……虎杖はただの生徒だよ」
「分かってるけど、あれは駄目」

腰に添えられた手によって歩くよう促される。本当に悟の部屋に行くらしい。嫌な予感ほどよく当たる。道中、腰に回された手があっさりと離れたことが、より恐ろしく感じたのは何故だろうか。

「悠仁はナチュラルにスキンシップ多めだから気をつけて」
「いや、大丈夫だって……」
「ダメ、守って。あと頭撫でるのも極力やめて、妬けるから」
「……善処する」

生徒とどうこうなるわけがないのに、とそう言いたいが、聞かないことは分かりきっているので、もう何も言わない。悟は俺の腰に腕を回し、ぐりぐりと俺の肩に頭を押し付ける。何を求められているのか分からなかったので、とりあえず悠仁にしたように頭を撫でると、ぴたりと動きが止まった。どうやら正解だったらしい。

「なまえはさ、自覚した方がいいよ」
「何を」
「自分で思ってるより、人誑しだってこと」

ひとたらし、の意味がよく分からず、視線を上向けて考えている間に、仕事用の携帯が着信を知らせた。七海からなので、おそらく割と急ぎ目の仕事の話だろう。着信があろうが退く気配のない悟の頭を撫でたまま、とりあえず電話に出る。

『もしもし。今、大丈夫ですか?』

ある意味大丈夫じゃないが「大丈夫」と返し、話を進めてもらう。次の任務でそれぞれペアを組んで最終的に合流するので、探索のエリア、合流地点、本丸の場所の目星……という情報を頭に叩き込む。

『──以上です。あと、みょうじさん』
「ん?」
『この間は、ありがとうございました。今度奢ります』
「気にしなくていいよ。ていうか、後輩に奢らせる訳ないだろ。気持ちだけ貰っておくね」
『……分かりました。では、』
「いつもありがとう。情報共有も正確で迅速だし、頼りにしてる。任務の時もよろしく」
『……はい、よろしくお願いします』

電話を切ってすぐ、ぐん、と身体が浮いた。椅子に腰掛けた悟の、その膝の上に座る形で向かい合わせの体勢になっていた。流石にこの体勢は恥ずかしいので降りたい。しかし悟の腕は俺の背中側で固定されているようで、抜け出せない。一度こうなったら自分の意思では出られないということを、俺はそろそろ学習した方がいいらしい。

「この間、ってなに」
「前の任務の帰り、ちょっと飲みに行って奢っただけだよ」
「僕、なまえにご飯とか誘われたことないのに」
「悟が誰かと組んで任務に行くなんてことはまずないからね」
「……言ったそばから、誑しこまないで」
「いや、別に何もしてないけど……。とりあえず降ろして、さすがに恥ずかしい」

言っている意味が分からなかったので、とりあえずこちらの要望を伝えてみたが全く通る気配はない。さっきまでは俺の背中で固定されていただけだった手が、今はぎゅうぎゅうと抱きしめる腕に変わっている。

大きな子どものようだと思った。誰よりも強く、孤独になってしまうほど群を抜いて最強な男が、俺の些細な言動を気にかけて、こうしてほしい、これは嫌だと真っ直ぐに伝えてくる。そう思うと、やっぱり独りにしてはいけないという使命感というか、庇護欲というか、そういうものが芽生えてくるのは、俺が考えの甘い駄目な大人だからか、悟に負けず劣らず、子どもじみた思考だからなのか。

「悟、この間のことだけど」
「……うん」
「一緒に住むだけなら、いいよ」
「………………えっ」
「だから降ろして」

即座に緩んだ拘束から抜け出し、地面に降り立つ。悟は驚いたような慌てたような、なんとも言えない表情をしていて、ああこんな顔もできるんだな、なんて思った。

「俺を一人にしないんでしょ?」

次の休みに悟の家に荷物を持っていくから、と伝えると、目の前の男は目に見えて顔を赤くした。悟はよく呪術師はイカれていないとできない、と言っているが、やはり自分も例に漏れずそうらしい。頬に熱が集まるのを感じながら、部屋を後にした。


世界終末の夜をなぞらえて


先のことは誰にも分からないが、大切な人間が笑っていられるなら、寄り添うのも悪くないと思った