単体で祓うなら、そんなに難しい任務じゃなかったと思う。ただ、取り残された人がいるかもしれないという報告は一切ない状態で、人間の子どもを人質にされたことで、数秒そちらに気を取られていた。その間に、背後から近づいてきた呪霊に気付かなかった。腹に一撃、咄嗟に急所は避けたけど傷は深かったように思う。しかも、毒みたいな呪いが傷口から侵食する感覚。最悪。

今ここで俺が死んだらどっちみち人質の子も助からないと、咄嗟に領域展開した。結果として呪霊は両方祓えたし、人質の子どもも助かった、けど。

怪我を負った状況で術式を使ったことで、疲労やらなんやらで視界が霞む。気を失ったらだめだと思うも意識がうまく保てず、助けた男の子が泣きながら俺を呼んでるのに、答えてやることができない。

暫くしていると、5歳にも満たないだろうその子はなかなかに聡く逞しい子だったようで、ぼろぼろ泣きながらも、だれか呼んでくるから、待っててお兄ちゃん、と言って駆け出したのは辛うじて聞き取れたけど、返事は心の中でするのが精一杯だった。




ああ俺これ死んだな、と思うのは久々だ。

普通の傷でも出血がかなりあって危ない感じなのに、祓った呪いの残穢か怨念めいた呪術か、傷口から何かが微妙に蝕んでいく感覚があって、どんどん身体が動かせなくなっていく。指先は冷えていくのに、身体がじわじわと熱を上げていくのはおそらくそのせいで、呼吸も怪しくなってきた。

呪術師が死ぬことはそんなに珍しくない。覚悟はとっくの昔にできてるし、だから別に仕方ないことなんだけど。あいつ、怒るかなぁ。

瞼を下ろしてみて最初に浮かんだのはいつも飄々とした恋人で、この呪術師の世界では最も強いとされる人間だった。だからこそ危ない任務をいくつも任されていて、俺はそれがいつも嫌だったっけ。

でもその実力と今の呪術界の人手を考えるとそんなことは口が裂けても言えず、腹の中でぐるぐるとした恐怖と不安と焦燥を飼い殺していた。

悟の帰りや任務が終わった連絡が予定より遅い日は眠れなかったから、スマホを側においてぼーっとしながら夜を明かすのが常だった。そして、次の日にケロッとした顔で、観光名所をバックにした写真付きのメッセージが送られて来るのをみて、ほんの僅かな憤りと、果てしない安堵を得た。



悟のそれに比べたら全然マシな難易度の任務だったって言うのに、駄目だな。こんなんじゃ、情けなくて顔見せらんないな。俺が死んだら、悟、泣くかなあ。
あいつが泣いてるとこ、そういえば見たことない。身体を重ねたときなんかに、貫かれて穿たれてぼろぼろに泣いてるとこを俺はしょっちゅう見られてるから、そう考えたらちょっと不公平だったな。

そう思えば、死ぬのは構わないけど、最期に恋人の顔くらい見られる死に方が良かった。だけどそれがもしも泣き顔なんだったら、いつもにこにこへらへら笑ってるあの顔を思い浮かべて死んだ方が良いかなぁ。



いよいよ意識が沈んでいって、体温も呼吸も、ともすれば今自分がどんな体勢でどっちを向いて寝転んでいて、どこに怪我を負ってどこが痛いのか、すべての感覚がもう無い。声は出せないし出したところで誰もいないけど、それでも最期に、呼びたくて。

「さ と、る」

罷り間違っても呪霊になって化けて出ないように、その望みだけ叶えられれば良いと思って喉から絞り出したのに、自己満足レベルでも呼べたら呼べたで、やっぱり声が聴きたくなって。というか、もう耳だって馬鹿になってるから周りの音なんか何も聞こえないのに、悟が俺を呼ぶ声だけが遠くで聴こえてくるなんて、自分は思ったより欲張りだったらしい。

しかもその声が泣いてるみたいに聴こえるなんて、そんなこと、あるわけないのに。泣かないでほしい気持ちと、泣いてくれたら嬉しい気持ちとがせめぎ合って、思わず少しだけ口角を上げてしまった。聞こえないだろうけど、やっぱり、うん、泣いてほしくない。

「なかないで」









誰かに呼ばれてる声がする。途切れ途切れだから分からないけど、なんとなく自分の名前だったような気がして、ついに天国かな、それか地獄か、と目を開けたら、見知らぬ白い天井だった。なんてベタな話だ。身体は殆ど動かせないらしいけど、指先だけ少し、自分の脳から送った信号が反応した気がした。

「なまえ……?」

左側から聞こえた声。咄嗟のことで首がうまく動かせなくて、だけど、この声を聞き間違えるわけがない。

「さとる……?」
「っ、なまえ、この、馬鹿……」

ああ、やっぱり怒られたな。視界がようやく開けてきて、目隠しをした恋人がいる、───と思ったら何故かその色素の薄い瞳と目が合って、しかもその眼が涙で濡れていた。なんで、俺なんかのために。

「さとる、なんで、ないてんの」
「………………は?」

悟は、怒っているとも悲しんでいるとも戸惑っているとも取れるような、複雑な表情で俺を見た。俺は、お前のこと心配するよ。でも、お前は強い呪術師なんだから、最強なんだから、俺みたいな普通の奴の心配なんて、しなくていいんだよ。そう伝えたかったのに、言葉にする前に、涙を拭ってアイマスクをした悟が先に話し始めた。

「恋人が死にかけて、一命は取りとめたけど目を覚まさなくて、毎日毎日毎日毎日眠ったままの青白い顔見て、機械の音しかしないこの部屋で色んな話しして声かけて、何回も名前呼んで、今日こそ目を開けてくれないかって、………そんな甲斐甲斐しいことを一ヶ月も続けた健気な恋人に、吐く言葉なの」
「…………」
「もしなまえが死んだら、僕、後を追っちゃうかも。そしたら困るよね」
「……それは、こまる、かな」
「だったら、もう、二度と、こんなことに、なるな」


最後の方は喉が震えていたような気がする。気のせいかもしれないけど。

悟は俺の手を握ったまま、俺の枕元のナースコールを押した。そして「僕、これから任務あるから」と手を離して立ち上がった、その黒い背中を見ながら、さっきより幾分ちゃんと口を動かして「悟」と名前を呼んだ。振り返ったその顔は、そういえばさっきより少し顔色が良いかもしれない。

初めて見た泣き顔は、綺麗だとは思ったけど、また見たいとはあんまり思わない。俺なんかのために泣くんじゃなく、笑っててほしいから。

「愛してる」

俺がそう言えば、悟は少しぽかんとしてから、すぐに背中を向けた。未だに呼吸のための機械を付けている不格好な俺に、「そんなもん付けてたらキスもできない」という悪態だけ、しっかりと置いていった。



▽▲▽▲▽



その日は朝から、なんだか嫌な予感はしていた。



「五条さん、あの、みょうじさんが─────」

伊地知から連絡を受けた時、呼吸が止まった。

帳は解除されたのに帰還しない、単独の任務だったので分からないが、終了の報告はいつも律儀にあるのに、今回はそれが無い、と。そして、現場だった場所を指して「お兄ちゃんがしんじゃう、たすけて」と子どもが言ったのだと。

場所を聞いてすぐに飛んだ。数秒で目的地に着いて、周りを探る。なまえの弱々しい呪力に、僅かに別の呪力の残穢が混ざっていた。ああ、嫌だ。敵の最期のあがきか後遺の呪術か知らないけど、なまえに触るなよ。



辿り着いたときには、なまえは意識を失っていた。血の海の真ん中に横たわる恋人を見て、生まれて初めてと言っても過言ではないほど、底の知れない恐怖を感じた。

傷口を蝕んでいた呪いはすぐに祓ったが、肝心の出血は腹部のそれなりに深い傷からのようで、呪力で治癒をしても治しきれず、血がなかなか止まらない。呼吸は微かにあるが、それは逆にいつ止まるか分からないほどか細い。うつ伏せに倒れていたなまえをゆっくりと仰向けにさせる。ここでも、恐怖で手が震えた。体温が僅かにあることに、身体が冷たく無いことに、少しだけ安堵した。

「さ と、る」

声が。こんな状況で喋れる訳なんかないのに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、涙腺が馬鹿になって涙が止まらない。何度も名前を呼ぶ。それに答えることはなかったけど、なまえは少し笑ったような気がして、笑ってる場合か、なんて思っていたら、次に聞こえた気がしたのは「なかないで」という言葉で。じゃあ目を覚ましてよ、いつもみたいに笑ってよ、と無理難題を願った。

でも本心なんだよ。僕の涙なんて、それだけでピタリと止まるんだから。









結果として一命は取りとめたが、なまえは未だに目を覚まさない。もうすぐ半月。毎日病院に通って、手を握って、今日あったことを話して、何度も名前を呼ぶ。それの繰り返し。

ただ最近は、なまえがいない生活に自分も大概参っているのか、話す内容が今の僕の独りよがりな話になっていた。

一人の部屋に帰るのが少しも楽しみじゃないこと、一人で作って食べるご飯があまりに味気ないから外食が増えたこと、甘いものを食べても美味しいと思えないこと、一人だと部屋の掃除が面倒に感じて仕方ないこと、ベッドが冷たくて夜なかなか寝付けないこと。

なまえに触りたい、キスしたい、抱きたい、 なまえが俺の名前を呼ぶ声が聞きたい。

「なまえ、起きてよ、ねえ、」

頼むから、目覚ましてよ。





段々と、己の無力と、祈るくらいしか方法が残されていないことを突きつけられて、悪い予感が頭を過る。今日でちょうど、一ヶ月。

このままずっと目を覚まさなかったら?二度と声が聞けなかったら?繋いだ手のこの体温が、もしも、もしもいつか、温度を無くして冷たくなったら?

毎日、言いようのない恐怖が、不安が、焦燥が、日に日に自分を支配していく。今日は、それが特に酷いな。深呼吸をすれば幾分か落ち着いたけど、吸い込む空気は病院の匂いで、気が滅入る。
もう泣かないと決めたのに、またおかしくなった涙腺のせいで、アイマスクを下げて涙を拭う。


ぴく、握っていた手のひらに、微かに動いたような感覚があって、ばっとなまえに向き直る。なまえ、なまえ。なまえ。しつこいくらい名前を呼んだ。我ながら、まるで他の一切の言葉を忘れた子どもみたいだと思った。

「さとる……?」

呼吸を補助する機械をつけたままだから、少しくぐもっているけど。なまえがたしかに目を開けて、俺の名前を呼んだ。涙がまた止まらない。とにかく馬鹿と言いたくて、情けない声で文句を言った。

「さとる、なんで、ないてんの」


は?

なまえの言っている意味が分からず、聞き返した。なんで、なんて。僕が、この一ヶ月もの間、どれだけ。

「恋人が死にかけて、一命は取りとめたけど目を覚まさなくて、毎日毎日眠ったままの青白い顔見て、機械の音しかしないこの部屋で色んな話しして声かけて、何回も名前呼んで、今日こそ目を開けてくれないかって、………そんな甲斐甲斐しいことを一ヶ月も続けた健気な恋人に、吐く言葉なの」

僕の言葉に、僅かになまえが目を見開く。心外だな。僕を何だと思ってるんだろう。どんな任務より、どんな呪いに対峙したときより、生きた心地がしなかったっていうのに。

「もしなまえが死んだら、僕、後を追っちゃうかも。そしたら困るよね」
「……それは、こまる、かな」
「だったら、もう、二度と、こんなことに、なるな」

頼むからもう危ない真似はするな、なんてことは、この呪術師という世界に身を置く恋人には、口が裂けても言えない。口を開けばまた情けないことに、アイマスクが濡れる。格好悪く声が震えたことに、今はいっそ気付いてほしい。

戦えば誰にも負ける気なんてしないのに、なまえがいなくなることが耐え難いって、ちゃんと分かってよ。



ナースコールを鳴らして、名残惜しくも手を離す。本当はもっと触れていたかったけど、無事をもっと確かめたいけど、そもそもまだ無理はさせられないし、任務の時間も迫ってる。今はまだ信じられなくてうまく頭が回らないけど、帰ってくるときまでに言いたいことを考えておいて、全部ぶつけてやればいい。そう思って背を向けたら、投げられた声。

「悟」

「愛してる」


たった今離れようとした恋人の覚悟を何だと思ってるんだ。そう思わざるを得ないほど、無遠慮に呟かれた愛の言葉。

「……そんなもん付けてたらキスもできないじゃん。早く、取れるようにしてよ」

あーあ。行きたくない。こんなにも心が軽くなって、そして仕事が憂鬱に感じるのは久しぶりだ。憂太あたりに割り振りたいけど、今日は他の用事で出払ってる。仕方ない。

帰ってきたら、また声が聞ける。目を覚まさなかっただけで、身体の傷や怪我はもうだいぶ良くはなってたはずだから、きっとすぐに病室の機械はほぼ外れるだろう。

抱きしめて、キスをして、飽きるほどに愛の言葉を囁いてやろうと思った。お預けをくらっていたこの一ヶ月の分をすべて伝えたら、なまえはきっと照れて「もういいから」なんて言うだろうけど。心配させたのが悪いんだから、絶対にやめてやらない。

きみが唯一の死因になる

この僕を縛ってるってことに、ちゃんと気付いて

title by 星食
2019.05.20