目が覚めたら、なんとなく知っている気がする部屋の天井が見えた。見覚えはなくはないけどあんまり真下から眺めたことはないし、そもそも寝るとき以外でベッドに転がる機会は殆ど無い自分にとって、この光景は新鮮ですらある。起き上がって確認したところ、身体に異常は無さそうだ。

さっきまでの記憶を辿ると、任務で低級呪霊の群れが相手だったので、無下限を切ったり『赫』を試そうとして、祓うのに少しだけ時間がかかった。それでも全て祓って帳が上がった記憶まではあるが、その後何かヘマをしただろうか。よく思い出せないので、考えるのをやめた。

「あ、悟くん。良かった、気がついて」

部屋を仕切るカーテンがよけられて、後輩と傑が顔を出す。傑は「悟が術式をくらうなんて珍しいね」と少し笑いながら言う。二人の声のトーンにどこかホッとしたような、そして自分を心配するような感情が乗せられていて、むず痒くなる。

というか、後輩のみょうじは今、自分を何と呼んだ? 

「……みょうじ、なに馴れ馴れしく呼んでんだよ。つーかオマエみたいな弱いヤツに心配なんかされたくねえっつーの」
「え……」
「……おい悟、何言ってる? みょうじは君の」
「あ、っ、夏油先輩!」

周囲の気配からして此処にいるのは俺たち3人だけだから、みょうじの声が少し大袈裟なほど医務室に響いた。傑の言葉を遮ったみょうじは、何かに動揺しているように見えたけど、それが何か分からない。自分の発言におかしいところはなかった筈だ。
みょうじはもともと喜怒哀楽は表に出る方で、ポーカーフェイスなどとは無縁のタイプの人間だ。灰原をちょっと柔らかく大人しくした感じ。常にお堅くて顰めっ面のもう一人の後輩を思い浮かべた。どう考えても正反対なのに仲が良さそうなのが不思議だ。

「俺は大丈夫、なんで。本当に」
「だけど、」
「本当に大丈夫です。……五条先輩、すみませんでした。お大事に」

少し考え事をしていたとはいえ、目の前の二人のやり取りが理解できなくて、苛立ちが募る。傑にも、みょうじにも。


▽▲▽▲▽


あの日から一週間くらいの間、みょうじは毎日のように俺に会いに来た。特に用がある訳でも無さそうで、どうでもいい話をして帰っていく。あの日以来、「悟くん」と呼ばれることもなくなった。当たり前だ。先輩をくん付けで呼ぶとか、何考えてやがる。傑も傑だ。普段ならあんな場面、窘めるだろうに。

とにかく、『五条先輩』で間違ってない。間違ってない筈なのに、何故かどこかに違和感があって、頭をがしがしと掻いてみたが当然、分からない。



更に一週間経ったころ、呼び方への違和感も消えず何もかも面倒に思って、「もう話しかけてくんな」と言った。みょうじは一瞬諦めたような表情を見せて、俺に笑った。その笑顔の意味が分からず、続けて言おうとした文句は喉につっかえた。

「分かり、ました。すみません、今までありがとうございました」
「……は?」
「俺はこれで、失礼します」

さっきまで、表情の意味が分からず言葉を詰まらせていた俺は、言葉の意味もまるで分からず、ただ立ち尽くすことになった。礼を言われる筋合いはない。W今までWとは何のことだ。まるで何かが終わるような言い方に、さらに分からなくなる。終わるも何も、ただの先輩と後輩だ。もともと何も始まっていないのだから、そんな風に思うのはおかしいのに、あいつがあんなことを言うから。

みょうじはもちろんその日から一切来なくなって、清々したはずなのに、顔が見れないのはそれはそれでイライラする。何故かは分からない。自分の感情がこんなにもコントロールできないのは初めてだった。





俺が病室でみょうじと会った日からちょうど一ヶ月が経ったころ、教室へ向かっていると、空き教室に人の気配。その気配だけですぐに誰だか分かり、足を止めた。聞こえてきた声は、みょうじと七海のもの。

「七海はずっと、あの人はやめとけって言ってたじゃん」
「……はい」
「やっぱ、言う通りだった。好きになるべきじゃなかったよなぁ」

好きになるべきじゃなかった。みょうじは確かに今、そう言った。

つまりは今もそいつを好きだということで、ギリ、と無意識に拳を握る力が強くなる。爪が食い込んで痛みがあるがどうでもいい。どうしてかは分からないが、みょうじが好意を寄せる人間がいることがどうも腹立たしかった。話の流れからするとそいつのことは諦めるのかもしれないが、今後のことがどうであっても今、みょうじの特別が誰かに向けられているという事実に、苛立ちを抑えられなかった。どこの女だ。同学年にはいないから、高専以外の奴だろうか。

ガラリと教室の扉を開けて、弾かれたように顔を上げる二人。「五条先輩」と呟くみょうじの腕を掴んで連れて行こうとするが、その自分の腕を七海が掴んだ。

「離せ、七海。……硝子の世話になりてぇの?」
「……アナタは、みょうじを突き放したでしょう」

七海はみょうじや灰原と違って決して先輩である自分にすべてが従順なわけではないし、生意気なところがあることも知っている。その上で割と七海を気に入っている自覚はあったが、それでも今は全てが癇に障った。
苛立ちで思わず呪力を少しだけ解放したら、みょうじが俺と七海の間に割って入り、翳した俺の右手に触れ、教室の壁に吹っ飛ばされた。

「みょうじ!」
「痛……っ、……だ、いじょぶ、です、から」

少しの呻き声、その後に痛みを堪えて大丈夫だと言う声。七海がみょうじの名前を呼んで駆け寄る光景はほとんど眼中に入れることができず、背中を強く打った衝撃で息をしづらそうにしているみょうじを見て、ただただ心臓がひやりとして、動悸がして、喉がひゅっと鳴った。

「ッあ、なまえ、ごめ、ごめん、」
「! 五条さん、いまみょうじの、名前を……」
「、あれ、俺なに、してんだ」

咄嗟にその名前を呼んだことで、七海が俺を振り返る。七海に支えられているなまえは、頭から血を流してフラついている。脳が揺れたのかもしれない。あれだけの衝撃、当たり前だ。受け身だって取れていない。戦闘時ならなまえも何とかできたかもしれないが、庇う形で無意識に体が動いたのだろう。しかも、やったのは俺。学校の先輩であり、自分のW恋人Wである俺が、自分の友人に手を上げるなんて予測できるわけもない。

──そうだ、恋人だった。なまえは俺と付き合っていた。好きになるべきじゃなかったと言っていたのは、きっと俺のこと。

なんでなまえのことを忘れてた? あの日くらった術式か? なんですぐに思い出せなかったんだ。記憶が戻って最初に見たのが血を流した恋人で、それが自分の所為なんて、馬鹿にもほどがあるだろうが。

なまえに近付いてその場にしゃがむものの、どうして良いか分からない。本当の意味で気が動転する、ということを今までは経験したことがなかったんだと認識を改めるほど、自分はまさに今、混乱と焦燥が混ざった心境だ。

なまえに触れられないままでいると、俺の手をそっと握って、へらりと笑ってなまえが言う。

「大丈夫です、五条先輩」

名前で呼べよ、なんて。言える立場でもなければそんなこと言ってる場合でもないのに、医務室か硝子のところに連れて行かなきゃいけないのに、耳の奥にある「悟くん」と呼ぶこいつの声が脳に焼き付いているせいで、どうしても我儘な感情が溢れる自分に、心の中で舌打ちをした。


▽▲▽▲▽


なまえの部屋をノックし、名前を呼ぶ。ほどなくして返事があって、ガチャリとドアが開いた。「五条先輩。もう任務終わったんですか?」早いですね、おかえりなさい、という言葉を耳の端にひっかけて、部屋に入ってドアを後ろ手に締めた。ぎゅっと抱きしめれば、「苦しいです」と言うので、微かに力を緩めてやった。

「……まだ、呼んでくんねーの」
「……………」
「ほんとに、悪かったと思ってる、から」

五条先輩、って呼ぶその声も普通に大変かわいいもんではあるけど、もう限界だ。

なまえはあの日以来ずっと、俺の記憶が戻った今も、『五条先輩』と呼んでいる。俺への戒めに丁度いいから暫くそう呼べと、傑と七海が言ったからだ。余計なことを、と思うが、記憶がないとはいえ酷いことを言ったし、怪我もさせた。結果として、触れることが解呪の条件だったらしいから、あの時一瞬触れたアレのおかげで思い出せたけど、それでも100%俺が悪い。なので受け入れていたが、それもいよいよ耐えられなくなってきた。

「頼むから名前、呼んで」

思ったよりもかなり情けない声だったからだろうか。トントンとなまえが背中を叩くので、俺は緩めていた力を少し強めた。隙間がないくらいぴたりとくっついていて、なんなら少しムラムラする。いや、悪いとは思ってる。けど、何せここのところずっと、キスすらもお預けをくらっていた。欲求不満なのは否定できない。

力の差もあるし無理やりできないこともないが、一度傷つけているので、それは絶対にしない。と、自分で決めたから、毎日のように「キスさせて」と許可を強請ってもいるが、「まだ、ダメです」と断られる。好きな奴の部屋に入れてもらえて、ハグは許されてるのに、キスから先は許されないとか、どんな拷問だよ。

でも、なまえはいつも「WまだWダメ」だと言う。まだ、ということは、とりあえずは恋人としての関係はそのまま続けて良いみたいだし、いつかしていいと言われるはずなので、そう思うとどうにか我慢できる気もしてくる。

「悟くん」
「…………、え、」

「意地悪してごめん。あの時、俺を思い出してくれてありがとう」

ほんの一瞬、普段だったらそれが本当にキスなのかどうかも分からなくなりそうなくらい、それくらい一瞬だけ俺の唇を掠めたそれは、自分の名前とともに間違いなく俺が待ち望んでいたもので。

恥ずかしそうに笑うなまえを見て、我慢できるかもしれないなんて思っていた思考を嘲笑うように、箍が外れた。頭を引き寄せて唇に噛み付いて、下唇を食んで、ぺろりと舐めて。無意識だろうが、息継ぎのときに誘うように口を開くものだから、そこへ自身の舌を押し込んだ。

さんざんお預けを食らった後のキスの感触と、時折耳を侵食するなまえの息遣いが、より興奮を煽る。後でちゃんと謝るから、とりあえずこのまま最後までさせてくれねーかななんて、願望と欲望を込めて、飽きるほどキスを繰り返した。
一等星にかぶりつくまで

試しにベッドに押し倒してみると、「明日任務が入ってるからダメ」と言われた。まあそうだよな、と内心落胆していると、「明後日は休みだから、明日の夜、悟くんの部屋行っていい?」などと言われたので、食い気味に返事をしておいた。




title by 英雄
2020.12.28